男の顔、それは時折“格言”めいたものにもなる。
「男は四十になったら自分の顔に責任を持て」だとか、「男の顔は履歴書、女の顔は請求書」(笑)とか。
女の顔、ダウンタウンブギウギバンドのサクセス。阿木耀子の詩がうまい。
「女は昨日の顔で待つ」「女は今日の顔で泣く」「女は明日の顔を待つ」。
これと“請求書”とは関係ありませんが(笑)。以上余談。
第一印象は意外に正確。その人の持つ雰囲気は人生の長い時間をかけて作られてきている。亭主もけっこう第一印象で判断する。
「嫌な顔」の人は嫌、「きらいな顔の人はきらい」と。
じゃ、どういう顔が責任を持った顔か。皺だけではないだろう。
いわき沖の漁獲海域が南に拡大されて。港に活気が戻ってきたような気配。女川のサンマは名を上げたが、いわき沖でもサンマの便りが・・・。漁師たち、皆いい顔している。いや、いわきの漁師や三陸の漁師だけではない。被災地の人達ってなんでみんなあんないい顔しているのかと思う。
楢葉町の木戸川で、鮭の試験的捕穫をした漁師は言う。笑顔で。
「ひさしぶりに魚に触れて幸せだった」と。いい顔だった。
多分、一回、どん底、闇を経験したからだろうか。「生きる」ということの意味を悟ったからではないだろうかとも。
なぜ「顔」の話を書いているのか。またまた政治家に行きつく。なんと嫌な顔の政治家が多いことか。お辞めになられた田中慶秋。あれほど嫌な顔に出会ったことはない。全てが顔に出ていた。
もう一人、あの幹事長さま、いや民主党ですが。輿石の顔も見るに堪えない。「ずる」の塊みたいな顔。
石破も目つきはよろしくない。しかし、時々見せる笑顔は可愛く見える。悪党顔した大島理森もそうだった。安部ちゃんのあの「のっぺり」した顔もどうもいただけない・・・。
そういえば経団連の米倉。これも嫌な顔だね。古々米と言ったらコメに怒られるか。
国会議員は勤続25年を経ると自画像がどこかの部屋に、委員会室含めて掲
額される。何人もの「顔」を見て来たが、自画像を見て来たが、責任を持った顔ってあまりお目に掛れなかった。
テレビがデジタル化され画像は鮮明になった。皺一つも映し出すと言われて、アップにされることをいやがった女性タレントもいるという。テレビにも「責任を持たない顔」がかなり登場する。報道番組で、そんな顔が偉そうに喋っていると、たとえそれがまともな事を言っているのであってもふんぱんものに聞こえてしまうってのはやはり顔のせいかな。
最近、40を過ぎて責任を持っているようないい男の顔を見た。テレビで。キング、カズ。三浦和良。彼の皺は魅力的だった。
顔と言えば、企業のトップ、社長はその企業の顔。それが見えない会社多い。見せない社長も多い。顔が見えない企業の社員は苦労する。
「会社の顔、それは受付嬢です」。なんて言っていられないような。
そして、最近のテレビ。男も女もなんで皆、同じような顔をしているのだろう。若い女の子のグループ、見分けがつかない。老眼だけのせいじゃないと。
なんで、こんなつまらない顔の話を書いたのだろう。きっと今朝、髭剃りで鏡に映った自分の顔を見て嫌になったからだろうと。顔は良くないけど、嫌な奴ではありません。言葉使いも悪いけど悪人ではないと思っています。今後ともよろしくお付き合いくださいませ。
そして、蛇足でもう一言。「選挙の顔」。石原新党なるものが発足するだろう。たぶん。彼がその政党の「顔」になるだろう。
彼は言った。「小異を捨て大同につくべき」と、第三極の結集を呼び掛けた。そして、その小異の中に原発を入れた。原発を些細な事と言ってのけた。
政策の違いは問題ではない。大連合を図ることがこの国を変えるために、官僚統治を打破するために必要なのだと。
政策の違いを小異と切り捨てた。政策の一致は政党の原理原則だ。なんでもいいから一緒になろう。その呼びかけに集まった人たちがいれば、それは単なる「野合」、それらの人を「鵜合の衆」という。既成政党もいわば、今は、鵜合の衆。そんな奴らの顔は、これ以上見たくないと。