ボクは名刺を二つ持っている。別に名刺を持つ必要はないのだけれど、なんかの会合に行って、挨拶され、「名刺持っていません」というのも失礼にあたるかとも思い。
一つは「からから亭 亭主 瀬川賢一」という表書き。字は友人の書道の大家に書いてもらった。
「そのお店どこにあるのですか?」、必ず聞かれる。「裏にあります」。
裏に書いてあるのはこの“ブログ”のURLだけ。
もう一つは「オフイス・セガワ 代表瀬川賢一」という名刺。事務所の住所や電話番号、メールアドレス、携帯の番号とアドレス。
代表という肩書みたいなもの書いてあるけど、全くの個人事務所とはいえ、一応“代表者”という形をとらないといろいろ面倒だという“経費”などの問題を考えた会計事務所からのアドバイスによるもの。
講演やパネラーを頼まれると、主催者は困っている。オフイス・セガワ代表じゃ、何をやってる人かわからないと。
「元なんとかテレビのなんとか取締役じゃだめですか?」と聞かれる。「元だけはやめてください」とお願いする。元は元、今では無いから。
とにかく、今の世の中、洋の東西を問わず「肩書社会」である。その人そのものよりも「肩書」でいろんな事が動く。
未だ持って騒ぎにネタになっている森口なんとかも、自称かどうかはわからないけど、“登場”した時の肩書は多彩だった。東大特任研究員とか、特任講師だおとか、客員なんとかとか。
そして、人は、マスコミも含めて、その肩書の“罠”にはまる。大学名が書かれえた名刺を見て、まず、70%はその人を、その道の人だと“認定”する。
肩書の“罠”にはまるマスコミ、メディア。3・11後、続々と登場した「専門家」。皆、学者。教授に始まって、準教授、講師、非常勤講師、研究員・・・。
それらを「何々に詳しい」とか「専門家」と呼んで。それらの人達の言説や適当な物言いに何ほど騙されたことか。そして今も騙され続けて、騙し続けている“専門家”がなんと多いことか。
例えば、原子炉の研究者が食品の安全を語るかのような。専門外でしょ。
原子力工学研究者はいても、原子炉廃炉研究者はいない。研究の対象にならないからだろう。それを研究しても、国から研究費は出ないはずだし。
もう一つわからない肩書。「ジャーナリスト」。別に資格試験があるわけでもない、単なる「自称」。あげく、「フリージャーナリスト」ってもっともらしいカタガキも。フリーが付くのと付かないのとどう違うのって。
去年、久しぶりに田原総一朗と再会した。名刺を貰った。表は名前だけ。裏には佃の自宅(事務所も兼ねているはず)の住所だけ。肩書無し。いいねと思ったけど。肩書付けなくてもあれだけテレビに登場していれば泣く子も黙る有名人。
その田原が一時重用したのが、「フリージャーナリスト」と称する上杉隆。なぜか田原は上杉が好きだ。たぶん、それなりの理由があるのだろう。利用価値があるのだろうと推察。
一匹オオカミであるはずのフリージャーナリスト、・・・の筈。どこの組織にも属してなく自由に物が言える書けるってことのフリーだと思っていたら、自由報道協会なんて組織を作り、そこの代表者に収まり、小沢一郎の記者会見の司会、進行を取り仕切っていた。なんだい、小沢の“下僕”、下足番じゃないかって光景。
ジャーナリストと呼ばれ、自ら名乗る人のほとんどが、マスコミ出身者。挙句、それらの人たちには専門的呼称が付く。医療ジャーナリスト、政治ジャーナリスト。時にはアナリストとも。
組織に属さないが故にか、無責任な勝手な論理や意見を特にネットを中心にまき散らす。そして、その胡散臭いような“ジャーナリスト”という人の信奉者が現れる。そして多くの人達が惑わされる。まともな“ジャーナリスト”は多分困惑しているんだろうな。
猫も杓子も”ジャーナリスト“。そう日本はジャーナリストっていう肩書天国。
SNSにしか「発言」の場を持たない“ジャーナリスト“様たちの天国。
用があって郡山市長に電話する。秘書らしき者が出る。「瀬川と申しますが、市長は・・・」「どちらの瀬川さんですか」必ず聞かれる。答えようが無い。「じゃいいです、携帯に電話しますから」。態度が豹変する。「え、携帯ご存知ですか」って。
肩書社会。わかりやすくもあり、なんともおかしな社会でもあり。