2014年9月30日火曜日

「少子高齢化社会」ということ

きのう、誤記がありました。与謝野晶子と高村智恵子を混同させてしまいました。智恵子と書くところを晶子と。安達太良山を引いてのくだりで。
申し訳ありません。うっかり・・・。
言い訳。疲れているのかも(笑)。


少子高齢化社会と言われてから久しい。民間とはいえ、政府の肝いりの「日本創成会議」は人口減に警鐘を鳴らし、消滅都市などという言葉も編み出した。

一つの問題提起ではるが、定義の定まらないもの、数字の読み方、視点。議論をよんでいる。

人口問題研究所だったか。出生率の話し。2,1人であるべきなのが、それが人口減を食いとめる基準なのだが。

全国平均でもたしか、1,4人だと言う。都市圏は、東京は、その平均に達していない。1,09人だという。
「人口の再生産」がなされていない。

何故か。そこが大きな問題なのだ。一つの見方としては「産むことをためらう」という傾向がある。今の社会的風潮、社会構造の中で、育てられるかどうかという問題。

「子どもの貧困」が言われている。東京だけの話ではないが。貧困家庭。
母子家庭が多い。母親の稼ぎは子供を育てるにはあまりにも少なすぎる。
学費、教材費、食費・・・。学習塾に通わさなければ学力が追いつかないという教育制度全般の問題。

貧乏人の子沢山だとか、戦後の食糧難の時代を引き合いに出すつもりはない。

まともに食えない子どもがいるという現実。食えない子どもを“仲間外れ”にする風潮。

年収200万円以下では暮らすのが難しいと言う現実。

「老人破産」という言葉が生まれている。子どもの貧困も、老人破産も、NHKの番組が取り上げた問題提起。

ニュースはあかんけど、朝の連ドラや大河ドラマは時代考証含めて、演出含めて、めちゃくちゃであり、見る気にはならないが、「番組」はいいものをやる。

それが東北限定かどうかは定かではないが、「3・11」を追い続けているのはNHKだけだとも思える。しかも腰を据えて。その番組の良否は当事者である被災地の人達が判断すればいい。

“孤族”という言葉も、“無縁社会”という言葉もNHKが作ったような気がする。時に応じて的確な表現なのだ。

老人破産。身に染みる。まだ自分は恵まれていると思う。年金が月20万円ほどあるから。
やがて行き詰る時がくるかもしれないが・・・。

年金月10万。家賃を払えば生活費月4万の暮らし。年老いて。体も不自由で。
「生きる」ということへの意味合いを考える。

セーフティーネットとしての最後の砦。生活保護。不正受給者もいる。予算は十分ではない。行政はいろいろ口実を設けて、受給者を減らそうとしているかのような。

持ち家があったらダメ。車があったらダメ。嘘だ。でもその「嘘」がまかり通っている。

日本の生活保護の“捕捉率”、20%に満たない。ドイツは60%以上、フランスは90%以上だとも言う。

2020年問題。年金制度は破たんの危機を迎えるかもしれない。若年層は負担に耐えられない。受給金額は減る。こじつけでは無い。消費税の引き上げ。人によっては「死活問題」なのだ。

福島県の人口は193万7千人余り。20年以上前は220万人だった。
自然減もあるだろう。原発事故による流出もある。
大熊、双葉など原発周辺地域。まさに「消滅都市」になるかもしれない。地図からも消される町に。

首相は所信表明演説で、「地方創生」を高らかにうたった。そこにわずかな“希望の光”は見えるのか。
地方よりも都会にも“危機”があるということ。

にぎやかな祭りのあとの“けだるさ”なのだ。

2014年9月29日月曜日

「山はしばらく眠りしのみ」

与謝野晶子の詩の一節を引く。雑誌「青鞜」の創刊にあたって寄せたいくつかの詩。「そぞろごと」の中の一つ。


「山の動く日来(きた)る。
かく云へども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ」。


安達太良に「本当の空がある」とうたった高村智恵子。

与謝野晶子のこの詩は山に喩えて女性の「自立」「権利確保」につながるものではああるが・・・。

「山はしばらく眠りしのみ」。御嶽山の大噴火災害を見て、喩えにしてもその感性に驚愕する。


きのう開かれた火山噴火予知連絡会で藤井会長は認めた。その「限界」を。

「今の段階で測ればわかるというものではない。予知連に予測しろと言われても術がない」。

藤井会長は川内原発再稼働にあたっても、規制委が地震のことを予測することは不可能だ」とも言っている。

科学者たちは自然に敗北した。そう“宣言”したほうがいいのかもしれない。

予知連があると言うことで、予知される、予告されると信じていた人達も大勢いる。それは不可能だと言われたということ。

科学は自然に屈服すべきなのかもしれない。

コンピューターを駆使して、数値を出し、数表を出しても、それを“あざ笑う”かのように自然は猛威をふるう。

3・11大津波。10Mの堤防は越えないということで作られた堤防。津波は越えた。

豪雨、広島の土砂災害。皆「想定外」の自然災害。
科学者たちは沈黙した。

原発事故。多くの科学者がその建設に参画し、多くの科学者は「安全」だとした。

その結果は・・・。

科学者たちの“英知”が生み出したコンピューター。パソコン。ネット。
パソコンはわずか20年の間に普及したもの。

今や、パソコンやスマホを持たねば就職活動も出来ないという。検索サイトに行きつけなければ。

科学技術の進歩がもたらしたものは何か・・・。

自然災害を目の当たりにして再考の余地は無いのか。

“観天望気”というのがある。長い間の言い伝え。

人間が住んではいけない地域があると、先人は言い残した。書き記した。
それを無視して、住まざるを得ないようになった人間社会。

例えばエベレスト、例えばヒマラヤ。最高峰の山に人は登る。登頂に成功する。
それを伝える言葉は「征服」だ。

とんでもない。征服ではないはず。頂上に上るために山は過酷な試練を課した。それを乗り越えた人が山頂に立つことが出来た。登頂に成功した人は、きっと山に感謝したと思う。征服したとは思ってもいまい。


科学と自然。共生だ共存だという問題ではないのかもしれない。
人間が考え出したことにはおのずから「限界」があるということ。

またどこかで山が眠りから醒めて動くのかもしれない。

2014年9月28日日曜日

山が抜けた。山が動いた。

130年以上も前か。1888年、明治21年、福島県の磐梯山が水蒸気爆発を起こし、爆発は繰り返され、死者は4百人を超えた。
爆発によって山が割れた。山が抜けた。
表磐梯と裏磐梯という二つの山のようになった。

山岳信仰の場であった。徳一が建立したという慧日寺があった。
火山性微動が繰り替えされていたというが、その予兆には当時の科学では気付かなかった。

御嶽山が爆発した。衝撃的事実。被害の全容は、まだ明らかになっていない。
救助だってままならない。爆発は続いている。30人以上が心肺停止状態だとも言う。

水蒸気爆発、山岳信仰の場。
火山性微動の予兆は気象庁は確認していた。でも「まさか」が優先されたのか。
入山規制などの措置はとられていなかった。

マグマは動くのか。

日本は言わずと知れた火山列島。富士山だって、爆発の可能性が言われている。
福島県内でも吾妻山、安達太良山。再び磐梯山・・・可能性はある。

地震にしても、噴火にしても、英知を集めたはずの予知連絡会というのがある。
続発していた火山性微動、火山性地震。波形がそれをとらえているのに、「予知」はままならなかった。

自然の為せるわざ。科学の限界。

御嶽山に上る煙を捉えた映像は、1Fの2号機、3号機の爆発時を思い起させる。

なぜか、御嶽山の爆発を伝えるメディアは、鹿児島の火山についてほとんど触れない。大きく扱っていたのは東京新聞くらいか。

桜島の灰に悩まされ続けている鹿児島県民は、御嶽山の映像を見て何を感じたのだろうか。

川内原発再稼働にあたり指摘されていた火山の“宝庫”。川内付近の火山群。
マグマの変動による大爆発が起き、火砕流が今の原発周辺にまで到達していたという過去の「事実」がある。


再稼働の条件としての火山の爆発予測。規制委員会も「事前に爆発の予測は出来る。だから、核燃料は取り出せる」なんていうことを言っていた。

予測が出来ないことを御嶽山は如実に示した。文字通り「他山」の出来事では無いはずだ。

御嶽山は再稼働議論に影響を与えることは無いのか。

マスコミという名の「山」は、沈黙してしまっているようにすら思えるのだが。

再稼働に動く政権は、ここはここ、あそこはあそことしらを切るのだろうか。
かつて、自民党の永久政権と思われていた頃、自民党は敗れた時がある。

当時の社会党の委員長だった土井たか子さんが亡くなった。激動の政治史を知る人の一人。土井さんの名セリフは「山が動いた」。

動いた山の余波は、政治の劣化へと繋がっていっているかのような。

磐梯山破裂の要因の一つが、温泉による地質の風化、劣化だったとも言われる。

同次元で語るべきことではないものの、どこか、今の時代を物語っているような気さえして。

などでも言うべきだ。日本は火山列島なのだと。そして、海の向こうの国でも火山の爆発が伝えられているということ。

地球の問題なのかもしれない・・・。

2014年9月27日土曜日

「お~い、雲よ」

すっかり秋の空の気配。
白い雲が漂っている。ゆっくり、ゆっくり動いている。
稲穂は黄金色に染まっている。

近所のビッグパレットからはイベントの音楽が流れてくる。
きっと大勢の人で賑わっているのだろう。

かつてはその渦の中に身を置いていたが・・・。

ビッグパレットという場所は「近寄れない場所」「近寄りたくない場所」になってしまっている。
避難所だったからだ。

郡山の開成山公園では風とロックと芋煮というイベントもやっているはず。あの金髪のお兄ちゃんが踊っているのだろうか。

夕方からは秋祭り。安積国造神社の。
神輿や山車が出て、屋台が出て人で賑わうはず。

その他もろもろ。秋の光景は「3・11」以前も、以後も変わらないような風情。

いつもの秋に戻ったということか。

元に戻る。いいことなんだけど。

なぜか賑わいの中に身を投じられない自分がいる。勝手に殻に閉じこもっているような。

どっかに感じる「わだかまり」。

いろんなイベント。「東日本大震災支援チャリティー」って“看板”掲げているのだろうか。

もういい加減にその“看板”は外して欲しいな。何のためのどこに対するチャリティーなのか。

屁理屈のようだが、その“看板”がある限り、普通には戻っていないってことなんだ。元には戻っていないってことなんだ。

しばし、空を見上げていた。山村慕鳥の詩が浮かんできた。吉野せいに影響を与えた山村慕鳥。

数日前か。テレビがやっていた。貧困の中の子どもの話。満足のメシが食えない家庭の子供のこと。いわゆる母子家庭。家族4人。一日の食費500円。

吉野せいの「洟をたらした神」が浮かぶ。ノボルの姿が。

お~い雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきそうじゃないか
どこまでゆくんだ
ずっと磐城平(いわきたいら)の方までゆくんか

ノボルはいわきの農家の中で芋を食って生活していた・・・。
作品の命題は「土」だった。土生きる農民だった・・・。

きょうの雲ものんきそうだ。磐城平に行く気配は無さそうだ。

雲を眺めながら安穏な日を送っていることに戸惑いがある。何をすることも出来ないのだが・・・。

心と空が溶けあわない。

またもALPSが不具合になったという。全く元に戻れない場所。

2014年9月26日金曜日

「汚染土」の行方

きのうの日本語の話しの続きをちょっとだけ。
コミケとよく言われる。コミュニケーションの何かだと思ってたらコミックマーケットを略しているのだという。
大体、コミックマーケットなんて催事の呼称をどれほどが知っているのか。

「とりま」ってご存知ですか、と聞かれた。犬好き。トリマーさんのことかと思う。
とりあえずまあ・・・ってことなんだそうだ。

言葉を略すればいいってもんじゃないんだぜ。

とりあえず、まあ、じゃビールとなる。
「うっ、ビールやばい」とくる。

「やばい」は危ばい。危ない、危険だということ。それが、どこでどう取り違えられたのか。「ものすごく美味い」って意味に変わっている・・。

もうふざけんやないぜって。

で本題。

ヤバいといえば除染で出た汚染土。黒い袋、フレコンバッグが県内のあちこちに野積、山積にされている。仮置き場というところに。60カ所以上だ。

その行き場は・・・。中間貯蔵施設ということになっている。それの建設の目途は立っていない。
来年中の搬入開始。無理だろう。いや無理だ。

県は「受け入れ」を決めたけど、住民への説明会なるものは進んでいない。
年を越しても住民の納得が得られるかどうか・・・。

仕方がないから、国は、仮置き場の契約延長を申し出た。1年ごとの更新とか。

フレコンバッグの耐用年数は、メーカーをしても3年という。すでにして“破損”のケースも言われている。

仮置き場に土地を提供した地権者だってたまったもんじゃない。3年間の「我慢」だと思っていたのだから。

感情論のようだが、「いい加減、嫌になる」。

中間貯蔵施設の建設がなぜ進まないか。国の無策だ。及び腰のその場しのぎを言ってきたからだ。

帰還問題と関係してくると言うこと。

国は、県もそうだろうが、「住民帰還」を言う。いつになるかはともかく、帰還が実現されるなら「余計な物」としての中間貯蔵施設は認められないということになる。
最終処分場になるかどうかはともかく、30年間、付き合わされると言うことへの嫌悪。

最終処分場は県外。国の約束。法律に明記するという。
政府が全株式を保有する特殊法人「日本安全環境事業」という会社に中間貯蔵施設の管理も含め、最終処分場の問題も委ねるという。

そう簡単に安心は出来ない。30年後に法律を変えることなんて簡単に出来ること。


“帰れるかもしれない”場所に、迷惑施設はいらないということ。それが“住民感情”。当然だ。

科学的見地からしても、線量の測定からしても、そこは永久に帰れないところと国が明言すれば、「ならば仕方がないから諦める」という考えだって生まれてくる。

国が「本音」をはっきり言わない限り、言い逃れに終始する「対策」ではだめなんだ。

わかっていても、納得しない。蛇の生殺し状態がつづくということ。

だから黒い袋は積まれていく。どこかに「腹黒い奴」がいる以上は。

話題になっていたような気もするが、東電の敷地内に、タンクの増設場所確保もあろうが、巨大な、せめて覆いのある「集積所」を作ることは非現実的な議論なのだろうか。

仮置き場から黒い袋を移動させるような。

揉め事と黒い袋の山は、まだまだそのままのような気がして・・・。

言葉も土も”汚染”され続けるのを放置したくない。

2014年9月25日木曜日

「ディスる」はいつまで続くのか

日本語が乱れている。日本語が劣化している。不愉快極まりない。言葉の乱れは・・・。

友人が代表をつとめる書道展に行ってきた。出展作品150点。そこには漢字をはじめ、ひらがな、まともな日本語、日本字(漢字もその範疇に入れて)が並んでいた。
日本語の世界に身を置いた気分。落ち着く。
多分、書いた人達は、例えば漢詩一つにしても、日本の詩人の詩にしても、短文であっても、その意味を理解し、字を自分の中で咀嚼して、筆で書いたものだと思う。
「土」という一文字にしても、その字からは大地に根差す、土の持つ意味を理解した上で書かれている。そう、素人にも理解が出来るようだった。
言葉の意味を理解して、それを自分のものとして表現する。「書」の喜びとはそういうことだと思う。だから書道という「道」のついた“文化”になるとも。

にもかかわらず・・・。日本語の世界・・・。

文部科学省が初めて行ったという国語世論調査。話題に供されていたのが、「名詞に“る”や“する”を付けた今はやりの言葉の数々。それの「認知度」。

チンする、パニくる、タクる、ディスる・・・。

チンするは大方の人が使い、知っている。タクるは知らないが20%強。ディスるは20%そこそこ。

これらの言葉が辞書に載っていくのだろうか。辞書の編纂者は「流行語」を町に出て探し回っているとも言うし。

なにやら知らねど、どこからか新しい“言葉”が生まれ、一時流行した“言葉”は消えて行く。死語になる。

言葉とは何か。意志を伝達する手段であり、もとはそれに謂れがあり、普遍的なものであって然るべき。言葉ははじめ“思想”であったのだから。

呼び鈴は、ピンポン~にかわった。ピンポンって卓球かいていいたくなるくらい。

カタカナ語がきわめて氾濫している。それは簡略化されて。

ディスるは、英語のディスレスペクトの略だ。スマオートフォンはスマホと呼ばれるように。

一時期、日本人の言葉の世界を席巻していたハッスル。もう使われない。その頃は「猛烈社員」が歓迎されていた時代だった。ドライな性格。それも無い。

アキバ、オタク、サブカル。カタカナ語、簡略語の洪水の中に戸惑う。

小中学校では、国語教育、日本語教育にもっと意を用うるべきだ。1年間かかって「銀の匙」を読み解くような教育が必要なのだ。と思う。

おかしな言葉が氾濫している。それも、この時代の反映だ。曖昧な言葉使いも。

コンビニに煙草を買いに行った。レシートを差し出した店員。「レシートの方は大丈夫ですか」と来た。大丈夫の意味が理解できない。

「煮詰まる」という言葉の意味が、半数近い人が解釈を間違っている。「他山の石」もそうだ。「やぶさかでない」もそうだ。

真反対の解釈。それは時として、意志の疎通を欠き、争いごとにもつながりかねない。

「ディスる」。ネットに横行している言葉だ。「3・11」後、特にその“登場”は顕著だ。

「福島」をディスる。その傾向も半端ではない。風評はディスるの典型だったかもしれない。

こんな言葉がいつまで使われるのだろう。「ディスって欲しくないぜ」。

1F,東京電力福島第一原子力発電所の“別称”。東電や地元の人は使い慣れた言葉だ。「いちえふ」という題名の漫画も登場した。
「いちえふ」、それは人類史上にも残すべき“新語”であろうと思うが。

時代に迎合しない、普遍的な「日本語大辞典」なるものが生まれないのかなとも思う。

ネット用語が「市民権」を持ってしまう。もちろん一部のスラング好きの連中が好んで、“得意”になって使っているものだが。

おかしな言葉が無くならない限り、日本は取り戻せない。ORZだぜ。

2014年9月24日水曜日

弱者に向けられる刃

神戸で行方不明になっていた小学生の女の子。遺体が発見された。犯人は47歳の男だという。動機も経緯も犯人像も不明だが、「弱者」である小学生が大の男によって殺害されたということ。

子供が危害にあう事件が多い。かつては無かったかというとそうでもないが。
身代金誘拐も頻繁としてあった時代もあったが・・・。

「人さらいに気をつけいな」。祖母から毎日言われていたが、意に介せず遊び回っていた昭和20年代・・・。

我が家の近所の小学校に通う児童にも、「不審者がいる」ということで、保護者が同伴しているという。

盲導犬の刺傷事件もそうだ。大きな「野良犬」には決して手を出さない。抵抗しない盲導犬を刺す。

盲導犬を刺す。弱者である障害者を保護する“弱者の立場”にいる盲導犬。

子供が殺される。他人によっても、親の虐待によっても。

攻撃の相手は、刃を向ける相手は、おおかた弱者だ。強い者には刃向わない。弱者をのみ攻撃する。

そんな「空気」がこの国を覆っているような気がする。

今、この国にある「ヘイトスピーチ」なる現象もそうだ。この国に今住む「在日」は、やはり、人によっては名を隠し、出自も隠すという“弱者”なのだ。

ヘイトスピーチを繰り広げ、デモ行進して、終われば在日が経営するパチンコ屋に行っているとすれば、笑うしかない。

カウンターとよばれる人達がいるというが、攻撃対象にされている人は、大方反撃してこない。

「いじめ」だってそうだ。いじめる側は複数人数。いじめられる子は一人。

表層的なことだけで「弱者」を語ることに忸怩たるものはあるが・・・。

原発事故の避難者の扱い。避難解除区域が出来上がっていく。線量だけではなくいろいろな課題が未解決なのに。

解除後1年を目途に、東電からの「慰謝料」打ち切りの動きがある。月一人10万円。年120万円。船引や川内が該当していることだが。

おしなべて、避難区域の住民は、ある日突然「弱者」となった人達だ。誰が弱者にしたか。それ無しでは暮らせない電気の供給社、「強者」であり、「生殺与奪」の権を持つ東京電力だ。

なにがあろうと、電力会社は社会基盤の担い手として「強者」で有り続ける。

補償金の打ち切り。それは、生活再建がなったからと言うことでは無い。
強者の論理だ。
弱者がそれに抗する術は余りにも少ない。

世論形成の強者である新聞は書く。「賠償のお金は一時的に国が肩代わりするが、最終的には、東電が利用者からの電気代から支払う仕組みになっている」という結語。

「最終的には利用者の負担」といわれれば、誰しも値上げに異を唱える。下手をすると賠償打ち切り論に供給地の人達は加担することにもなりかねない。

弱者はどこまでも弱者で有り続ける。

弱者に向けられる刃。その根底には、たとえ一握りではあろうとも、強者であることを至上とする権力者の支配構造の思想があるからではないのか。

強者、強国、大国・・・。

弱者の側に立つ人達もかなりいるはずなのに。支援する人達もいるはずなのに。
それらの人すら「弱者」の側に追い込んでしまいそうな「空気」・・・。

「男は強くなければならない。強くなければ男ではない。しかし、優しくなければ男の資格はない」。そんなコピーが流布されていた時代もあったけど。
三船映画の全盛時代だったか・・・。

弱きを助け、強きをくじく。時代劇の永遠のテーマでもあったような。いや、任侠映画ですら。

2014年9月23日火曜日

「ありのままで・・・」ということ

午前中立ち寄った店で「ありのままに~」が流れていた。
アニメ「アナと雪の女王」が歌とともに大ヒットしているという。
子供も「ありのままに~」と愛唱しているという。

メインの歌か。♪Let it Go♪

そのサビの歌詞。

ありのままの姿見せるのよ
ありのままの自分になるの
何も怖くない
風よ吹け
少しも寒くないわ

悩んでたことが嘘みたいで
だってもう自由よなんでもできる
どこまでやれるか自分を試したいの
そうよ変わるのよ

ありのままで空へ風に乗って
ありのままで飛び出してみるの

ありのままの姿、ありのままの自分。

ありのままとは、あるがまま、事実のまま、あるが通り。そんな字解が辞書にはある。

ありのままとは素っ裸になることなのかもしれない。でも素っ裸の人間なんてあいえない。

多くの人が、見も心も衣や鎧で覆っている。

ありのままの自分。自分探しの旅なんて言葉が流行った。自分とは・・・。見つけることは難しいはず。

今、この世相の中で、なぜこの歌が、歌詞が受け入れられているのか・・・。

「個」という問題に行き着くのだろうか。

この歌詞を発する方も、受け取る側も、「個」を探しているのだろうか。

若い男性の多くは、テレビに出てくるタレントは、言い合わせたように、額を髪で隠しているような。
若い女性は、皆、同じような化粧をしているような。

さまざまな”化粧“と”ありのまま“。

もし、サブカルチャー論として、サブカルチャー史として、音楽や映画を語るとき、後世、「ありのまま」はどういう位置づけにされるのだろうか。

ハイカルチャーとして、そう、サブカルの対義語としてハイカルがあるとすれば、識者や論壇という「権威」が、文化はかくあるべしと押し付けていることへの“抵抗”にもなり得る。

平易な言葉である。ありのままの姿、ありのままの自分。それをあらためて問いかけられた時、どう受け止めているのだろうかとも。

福島のありのまま。それは何を指すのか。ありのままの福島は、あまり伝えられていない。福島は、自身のありのままを晒そうとしているか。そうでもない。

詩人、金子みすゞが書いている。「鈴と小鳥とそれから私」の中で。

みんな違ってみんないい。

国家と個人。全体と個。

多様性は“排除”され、イエスかノーかの二者択一を迫られる福島。そこに持ち込まれる対立と分断という構図。

福島にとっての“ありのまま”とは・・・。
秋空にとびだしてみても、秋風に乗ってみても、未解のことだらけのような。

パトラッシュ、ぼくはもう疲れたよ。眠らしておくれ・・・。

2014年9月22日月曜日

罪なき者、石をもて打て

「斜め読み」してみると、朝日新聞は相当委縮しているようだ。「つまらない新聞」になってしまったという印象をぬぐえない。

吉田調書、吉田証言をめぐる“不始末”。

朝日新聞の社内事情を詮索する気は無いし、ある意味無意味だ。
安倍政権との“確執”。有り得ることだ、あってもいいことだ。

同業者、雑誌。同じメディアの中からの非難、攻撃も激しい。
安倍自民党は「朝日潰し」の躍起となっている感ありだ。

朝日新聞の罪は罪。いかなる叱声にも耐えなければ、正さねばならない。

朝日新聞潰し。権力の圧力、統制。

それはいつ何時(なんどき)他紙に及んでくるかもしれない。

かつて安倍が官房副長官だった頃、NHKの「従軍慰安婦問題」をとりあげた番組に牙をむいた時のことが想起される。
当時の担当局長は福島総局長を経験した伊藤律子さんという人。ちょっとだけ経緯を聞いたことがある。ほとんど詳しくは話さなかったが。

従軍慰安婦問題を巡る“誤報”。それに関する批判の嵐。政権にとって問題なのは吉田調書ではない。吉田証言なのだ。

その中にあって、本人の意向をよそに、大きなファクトとされたのが池上彰のコラム掲載問題。

池上はいきなり「時の人」の担ぎ出される状況になった。

その池上が週刊文春に面白い記事を書いた。やんわり文春も含めての“批判”。まさか文春が掲載拒否は出来まい。

彼が引用したのが聖書の言葉。

ヨハネの福音書の一節。

律法学者たちが姦通の罪で捉えた女をイエスの前に連れてきた。律法はこうした女を石で打ち殺せと命じているがどうするかと。
イエスは答えた。その問いかけの裏には自分に対する迫害があることを承知の上で。

「あなたたちの中で、罪をおかしたことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。これを聞いた者は、一人また一人と立ち去り、女だけが残った。 イエスは女に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と諭して。

人間が人間を裁くことの限界を示す言葉としてがよく引用される一節だ。

他紙のも「誤報」はこれまでいくつもあった。彼の古巣NHKでも“事件”があった。それらを含めて、メディア全体に「警鐘」を鳴らした。

安易に朝日を批判攻撃して事足れりとする「空気」への“抵抗”。

イエスの言葉を身近なことに置き換えてみる。

東電に石を投げる、石で打つ資格のあるものは誰かということ。原発に関して、罪なき者は誰かということ。

安倍官邸の巧妙とも思えるメディア戦略。国会喚問まで言い出す。朝日は甘受しなければならないことなのか。

政権対朝日。その争いの中に「巻き込まれた感」のある池上。彼が政権に組するこてゃあるまい。
しかし、彼がこれからどういうスタンスで論陣を張るのか。

芸能人の前で「いい質問ですね」って言っている場合じゃなくなるのかも。朝日新聞をめぐる動き。そこにイエスは存在しない。イエスは口を開くまい。

神の裁きか、紙の裁きか・・・。

2014年9月21日日曜日

「国富」とは・・・。

何も経済学、財政学を語ろうとするものではないが。

先だって甘利大臣なるものが、原発再稼働に触れ、高額な化石燃料の輸入に頼って発電所を稼働させ、電力需要をまかなっているのは「国富の流出だ」というようなことを言っていた。

小渕優子も同様なことを言っている。持論というよりも、誰かに教え込まれたセリフだと思うが。

国富とは何か。なにもアダムスミスの国富論を演繹するつもりは無いし、神の見えざる手を語るものでもない。

原発と国富。

化石燃料の輸入と原発にかかわるあらゆるコスト。きちんと比較できるものは無い。比較できる人はいない。

原発を再稼働しなければ、化石燃料や石油の輸入で、関係企業が多額の出費を強いられる。結果、電力料金の値上げにつながる。家計に響く。
それをもってして「国富の流出」という論を展開しているような感じだ。

「平場(笑)」で物を考える。

国富とは国民全体が豊かになるということだ。

今この国は一握りの金持ちと収益を向上させている大企業によって成り立っているような「空気」が作られている。豊かでない人の方が圧倒的に多いというのに。

身近な話、円安・株高。円安になれば燃料の輸入金額は上がる。株高になれば企業収益は向上する。
収益が向上した企業が、その儲けをどれだけ従業員に還元しているのか。
していない。
輸入品は上がる。原材料の価格も上がる。円安でだ。

日銀は金融緩和を言い、市場にじゃぶじゃぶと金をまき散らす。それが何を招いているのか。

アベノミクスなるものは、その初手から失敗しているはず。

国富をいうなら、国の借金のことも語るべきだ。政治家は黙して語らない。
1千兆円を超す国の借金。国債を言う名で市場で売り買いされるもの。

償還期限が来たとき、いや、それは払っているだろうが、また新たに国債を発行するといったいたちごっこ。

企業の株主総会で、大株主の発言権が強いように、日本の国債を多額に保有している国の発言権も強いはずだ。国内でも、引き受けシンジケートという金融機関の力は増す一方だ。

1千兆円という借金は国富の流失にならないのか。

メディアはすぐ国民一人当たりいくらの借金と言う。
借金を返せなければ、昔風に言えば「夜逃げ」ものなのだ。いまは「世逃げ」なのか。

火力発電所と原子力発電所。その比較は美味しい数字だけで語られる。単なるコスト計算で。

福島第一発電所の事故で、どれだけの国富が流出しているのか。すでにして兆を超える数字のはず。
アレバやキュリオンにどれだけの金を払ったのだ。だれも言わない。

事故のあった福島原発のことだけでは無い。核のゴミの持って行き場の無いということ。それに将来どれだけの国富が費やされるのか。

原発避難民。多くが非生産人口の高齢者だとされる。そうではあるまい。働き盛りの人たちだって、その能力を遺憾なく発揮出来る環境ではなくなった。
将来のこの国を背負う子供たちは国富の対象とされていないような。

「復興」の名のもとに多額の補助金、交付金が税金の中から出される。それらが国富の為の再生産につながっていくのか。
払えば終わりだ。
まともに働く人のエネルギーが失われていく。

もし、どこかでもう一回原発事故が起きれば・・・。この国は破たんするはずだ。単に安全性の論議だけの問題ではない。

格差の問題、貧困の問題。すべての国民が豊かであるという「国富論」とはほど遠い。原発で国富と語るというの愚かさと思うのだが。

2014年9月20日土曜日

「独立」はついえたのか

今日は彼岸の入り。彼の字を借りて彼の国のことにふれる。

スコットランドの独立をめぐる国民投票。結果は反対が多く“否決”された。

300年に及ぶイングランド“支配”からの脱却。成らなかった。
それは良し悪しを論ずるものではない。
この事に興味を持っていたのは、仮に独立が成功すれば、歴史上、まれに見る「血を伴わない独立」の成功という“視点”だった。

「もし独立すれば、日本にとっての影響は?メリットは?デメリットは?」
昨日の日本のテレビ番組の視点はそこに集中していたかのような。

ウイスキーが値上がりする。円安が強まる。石油が・・・。

大英帝国、グレートブリテン。さまざまな民族の集合体。独立の機運は、彼の国の人達のさまざまな歴史観、想い、経済的理由、もろもろだと思うが・・・。

無血独立はならなかった。今後はどういう展開になっていくのか・・・。

その機運があるスペインのカタルニアがどう動くのか・・・。

独立運動、独立戦争。かってのアメリカだってそうだったし。民族自決のために多くの血が流されてきたことへの思い。

翻って日本の歴史。沖縄独立だってあっていいこと。元の琉球王朝に戻るのもいいこと。

東北も然りだ。

ルサンチマンを伴って。

もう20年以上も前か。現役時代の頃。東北6県の系列局共同制作、共同セールスということで「東北独立テレビ」という番組を作った。毎週土曜の昼。
1年で番組は潰えた。その番組名の。
かわって「テレビ、イーハトーブ」というタイトルで再登場した。東北に拘っていたあの頃・・・。

格段に意識したわけではないが、どこかにテレビ局としての地方ローカル局としての“ルサンチマン的感情”があった。
その番組も、やがて潰えた。

「東北独立宣言」という講義をしたことがある。災後だ。

蝦夷の国であった陸奥が都の支配下に置かれた。それは何故かという発想から始まって、原発問題にもいささか及ぶような。

戊辰戦争もそうだ。明治政府を作った薩長が攻め込んで来た戦争。

東北の民は、陸奥の民は、中央に対して戦いを挑んだ、戦いを仕掛けたことは無かった。
常に“侵略”の対象にされてきた。

短絡的な位置づけだが。

吉里吉里国は、願望を込めた「夢物語」だったのだ。百姓が大統領に就任し、国語は吉里吉里語、つまり東北弁。自給自足の食糧、エネルギー。最先端の医療確保。

頭をキリキリ舞いさせながら、「吉里吉里人」の、井上やすしの作品を主軸に「東北独立宣言」というタイトルの話をした。

福島県知事選。まさに独立した自治体の長を決めるのに国が強引に介入してくる。
地方の時代とは地方独立の“思想”であっていいのだと思うのだが。

スコットランド独立。イギリス政府は大いに干渉した。国王も懸念を示していた。「まさか」とは思いながらもの大いなる危惧。イギリスという国をゆるがるような「まさか」。結果、まさかとう坂は無かった。

友人の一人が面白いことを言っていた。県知事選を評して。昨夜あった熊坂候補の政策発表会を覗いて。

「まさかのクマサカ」って。そう、そんな「坂」があってもいいのかな。選挙カーに「まさかの熊坂」って書けば面白いとその友人。

東北独立なんていうと道州制にという現実論が帰ってくるかもしれないが、その連関性は無しでお願い。夢物語なんだから。そんな住民条例があるわけでも無いのだし。

でも、何度も言うが「おかしな構図」の選挙戦なのだよな。

“国論二分”のスコットランドが羨ましい気もする。

今夜もスコッチ飲みながら考えてみるつもり。

2014年9月19日金曜日

「土地と日本人」


「人間の基盤の基盤である土地が投機の対象にされるという奇現象が起こった。大地についての不安は、結局は人間をして、自分が属する社会に、安んじて身を託していけないという基本的不安につながり、私どもの精神の重要な部分を荒廃させた」。

司馬遼太郎が対談集、「土地と日本人」の中で語っている言葉だ。
時は日本列島改造論で地価が高騰し、日本中が沸いていたころ・・・。

もちろん、今は土地は投機の対象にはなっていない。アベノミクスがどうであろうと。
しかし、土地の価格は社会を見る一つの指標になる。価格の推移が世相を映し出す。


国土交通省が発表した今年の基準地価。三大都市圏の住宅地は6年ぶりに前年より上昇、商業地は2年連続で上がっているという。
「個人や企業が不動産を購入する動きが広がっている」と新聞は書く。

マンションの建設用地、商業施設、企業の事務所拡大。土地の価格の動向は、「都市圏への人口集中」を伺わせる。

少子高齢化時代という。人口問題は深刻だという。その中にあっての都市への人口の移動。地方にとってはそれも大問題なのだが。

福島県内では19年ぶりの地価上昇だと言う。なぜか。原発事故の避難者が、帰還を諦め、いわき市や郡山市などで住宅地を買っているからだ。
それとても、毎年のように下落してきた地方の地価。「上昇」という言葉が放つ印象とは程遠い。

我が家の土地は、40坪あまり。買った時はたぶん目の子坪20万くらいだったという記憶。今は15万にもならないという。
宅地の需要がある。それは農地の宅地転用へとつながる。

人口の増加とコメ農家の減少。土地の基盤は農家が作ってきたと言っても過言ではないのに。

地方の大方は地価は上がらないと「専門家」は言う。高齢者にとってマイカーが不可欠な田舎。自治体が主導して、中心市街地の活用を進めるべきだと言う。
中心部の再開発が、機能を集約した街づくりが地価を上げる方法だとも言う。

平成の日本列島改造ということにならないのか。

「地価上昇」。その表現は、何やら景気の明るささえも言っているように見える。

まだ、こっちは「災後」だ。
津波被害にあった地域。最大の課題は高台移転。すでにして言われていたことだが、高台移転は進まない。移転候補地だったところはすでにして、“投機”の対象にされていた。買い占められていた。
場所によっては市の中心部からかなり離れた場所でも、17%も上昇しているとされる。
中心部はすでにして地価高騰。予算の合わない買い手は離れた場所にでも住宅地を求める。

土地の取引。民間の自由裁量、需給のバランスの問題と片付けてしまうのには違和感もある。

この発表を機に、いや、すでにしてそうであったろうが、土地への投機マネーの動きが加速するだろう。

福島では宅地は19年ぶりにプラスとなった。逆に商業地は22年連続のマイナス。

土地の価格から、この国の姿、この国の形が見えてくる。

この基準地価。例えば、中間貯蔵施設建設の為に土地を手放す人へ、どう「反映」されるのだろう。
東電は「補償」の範囲を拡大した。それに反映されるのか。無いだろう。

すでにして「荒廃」している日本人の精神構造。それへの影響はいかなることになるのか。

半日考えてみたが、「ワカラナイ」に着地する。

「日本人と土地」。価格だけではなく多様なアプローチをしなくてはならない問題かとも。

2014年9月18日木曜日

福島は「利用」されている

安倍晋三閣下、昨日は福島入り。川内村から大熊、広野と。動機は不明。
中間貯蔵施設建設にとりあえずの目途がついたからということか。

「遅れていた福島の復興。重い課題がやっと前に進み始めた」と語ったとか。

“遅れ”をお認めになったのですね。

“お土産”は常磐道の開通。12月には浪江―亘理間を開通させるという。線量の高い、富岡―浪江間は来年の大型連休が目途とか。

道路の開通。先の国道6号も然り。「復興」を印象付けるにはもってこい。

開通の見出しが県紙に踊る。

広野では「お気に入り」のトラクター運転。なにやら乗り物好きの子どもの風情。嬉々としていてような。そして広野のコメのおにぎりほおばり、「美味しい」と。
ふだん、山海の珍味をたらふく召し上がっている身、塩結びの素朴な味はことさら美味しかったのかもしれないし。

その県産のコメ。農家への前渡し金、60キロ7,200円。去年はほぼ1万円。
コメ農家は悲鳴をあげている。疎水権料、苗代、耕作機器。経費差し引けばいくら残るのか。農家の手元に。

「値下がり」。原発のせいではない。農政の問題だ。食糧政策の破たんだ。

コメ農家の離農は進むはず。
農林水産族の議員さんは、いかがお考えなのだろうか。

川内村のばあちゃん、仮設にいるばあちゃん。今朝電話あり。飼い犬の具合が悪いと言う。すぐ動物病院に連絡。診断の結果は結膜炎ということで点眼薬投与で様子見ということのようだが。

村から一緒に避難してきた犬。避難所では軽自動車の車内暮らし。仮設に移ったもののケージが「お部屋」。さぞかしストレスも溜まっているものと。
避難所暮らしの時も動物病院に連れていった「思い出」。たしかあの頃は県獣医師界の申し合わせかなないか。避難犬や猫の診察、治療は無料だったような記憶あり。

安倍の来県に合わせて、党本部は県知事選、内堀副知事支援を決定。でもね、事務所に来ていった「事情通」によると、選挙の主導権は民主党が握ると言う。

内堀支援の安倍来県ではないといえるのかどうか。タイミングよすぎるし。

参院選時も第一声は福島市。「福島の復興なくして日本の再生なし」と大見得切られたが。

今更ながらの「遅れていた復興」。

内外に誇示しなくてはならない福島の復興。目指す東京オリンピックか。実態の伴わない復興なるものの感。

除染が完了しない中での道路開通。

数値は後日通知と言うことだったが、きのう、我が家に除染後の計測。全体の線量は下がったようだが、“汚染土”を埋めた箇所はやはり線量が高めに出たとかいう話し。
国道6号開通も常磐道開通も、雄平、内堀ラインの「おかげ」といわんばかりの感あり。

勘ぐり過ぎかな。

いろんな意味で、政権に影響する選挙のたびごとに「福島」を持ち出さないでよ。“利用”しないでよ。

避難解除区域や居住制限区域が混在する広い川内村。昼食含め滞在が1時間半。狭い範囲での“視察”でも、汚染土が入った黒いフレコンバッグの山は車中からでも眺められたはず。どう映ったのだろうか・・・。

視察と言う名のパフォーマンスに利用されての感。

2014年9月17日水曜日

県民しらける県知事選

福島県知事選。全国でどれくらいの関心があるかどうかはわからない。
永田町では安倍政権への影響だけで語られていること。

その安倍はきょうは福島に来ているとか。金魚のウンコ引き連れて。

それなりに歓迎されている様子。怖いもの見たさってことではないと思うけど。

井戸川克隆前双葉町長が突如(僕にはそう見える)県知事選への出馬を表明した。

反原発運動、それも、どうも一枚岩では無いようだが、だから、政権から足元見られて、甘く見られているのだろうが、いつの間にか、井戸川はその「運動」のシンボルのようにされ、そのお神輿に乗ってしまった。
“英雄”ともされてしまった。漫画の件はともかく・・・。

双葉町民に電話して聞いた。「井戸川さんがどうしようが俺たちには関係ないさ。今となっては」。しらけていた。

線量見直し、避難区域再編、中間貯蔵施設建設反対。そんなことが主張のようだ。
多分、県外から「運動家」たちが井戸川支援で県内に入ってくるだろう。

反原発運動と福島とがどう連関するのか。3年間にわたって問いかけている問題。

東京から反原発集会で郡山に来た人達、みずほちゃん率いる団体の、あの所作振る舞いに反発した県民は多い。

熊坂候補には原発訴訟団の弁護士が勝手連で応援するという。都知事選では細川派と宇都宮派に分かれていた弁護士たちが“呉越同舟”のように。

選択肢が増えるのは結構。ちょっと読んでみると、井戸川立候補は内堀を結局は利することになるという構図。

党本部にゴリ押しされて鉢村を引っ込めた自民県連。
「どうせ内堀に決まっていっぺ」と冷めていた。井戸川が出るとなると、彼への反発は強い。

「相乗り連合」の結束を強めることになる。逆効果ですらあるのだ。

相乗り・・・。なぜか、各党ともそれを“隠そう”とする。県民党などど言い張る。

民主、社民は内堀を担いだのだ。自公はそれに飛び乗ったのだ。はっきりすればいいのに。いや、本部ははっきりさせたくても候補が厭がっているのかもしれない。

その民主党。きのうの党大会。3・11後の、原発事故の混乱の原因をすべて菅に押し付けている。あの時官邸にいた奴は“同罪”なのだ。

菅を諌められなかった枝野。「国民に選択肢をお示しする」と威勢のいいお言葉。
そして新執行部をマスコミはおおよそ「歓迎」する。「評価」する。
民主党の中でも、もはや「福島」は風化したことなのかもしれないとも。

3年半、福島に積み重ねられてきた数々の既成事実。動かしがたい既成事実。
復興交付金という金に縛られていく。

それは真に有効に使われる保証なんてどこにも無い。

「もう放っておいてよ」。そんな声さえ避難している人の中から聞こえ始めている。

「運動」と「現実」との乖離。同調圧力、風評。疲れきっているのだ。

もろもろのことども。多くの県民は、知事選に“しらけきって”いる。と見える。

結果、勘違いだらけだったと総括されるかもしれない知事選。

どうも疲れていけない。何が何だかさっぱりわからなくなって行く。

決して「民度」のせいにしてほしくはないのだが。

2014年9月16日火曜日

“覚醒”出来ない民主党、“再生”も無し

きょうは新聞休刊日とか。日頃、なにかと「いがみ合って」いる各紙が、休刊日だけは足並み揃える。購読料の値上げも“カルテル”の如く・・・。
なにかと「文句」多すぎるかな・・・。

“野党”について書く。

もはや、その存在感も全く感じられないようになった民主党。それでも野党第一党だから言うのだが。
安倍政権をのさばらせ、好き勝手にさせている責任は、国民的議論ではなく、永田町力学として、すべからく民主党にある。

彼らもそれはわかっていると思うのだが。

懲りない面々。よく言ったもんだ。

海江田が続くのもさることながら、幹事長に枝野を起用するという。
ばかばかしい、もういい加減にしてくれよ。代表代行は岡田。政調会長は福山哲郎。

特に枝野。幹事長起用。そんな人事やっていて自民党を責める“資格”なんてどこにも無い。

少なくとも福島県民は、菅は言うに及ばず、海江田、枝野によって蒙った“被害”は甚大なのだ。

枝野という字を書くだけで、時計の針が3年前に逆戻りしたような気になる。

「ただちに健康に影響を及ぼすことはない」。毎日、いけしゃあしゃあと言ってのけていた枝野。

公開された吉田調書を見ても、この二人の狼狽ぶり、当事者能力の欠如、政治家としての立ち居振る舞い。全くの欠陥者であり、言ってみれば“戦犯”なのだ。

福島県内にあの大混乱を引き起こし、かずかずの被害を与えた張本人二人が民主党を引っ張る。
他の民主党議員はそれを「是」とするのか。

あのころの枝野。黒を白と言いくるめるおかしな弁護士の典型。弁護士特有の論法。
なんの責任もとらなかった二人。国会議員としてよく生き残っていたもんだとも思えるくらい。

「政治の劣化」ということを論じるときには、まず俎上に乗せるべきなのがこの二人だとも。

「党を立て直して、国民に選択肢だと思っていただけるようやるべきことをやりたい」。そう豪語したそうな。

恥を知るべきだ。

だから余計に思う。野党ってなんだと。野党って存在するのかとも。

参院を牛耳る輿石。なんと安倍支持の別動隊的発言。「よくやっている」と。

みんなの党とやらは、渡辺よしみが復活宣言。浅尾と場外乱闘。
浅尾ってのもお子ちゃま。アイスバケツかぶって安倍を指名。ばかばかしい。

維新、結いの同床異夢。主導権争い。

こんな古臭い用語まで浮かんでくる。「コップの中の嵐」。

何を考えているのか。共産党は音なしの構え。

共産党は党名変更した方がいい。共産党という看板は下ろした方が、その字にアレルギーを感じる人たちの支持を得られる。

かつて気骨のあった“共産主義者”は、多くが「屠られた」。あるいは、マスコミ界のドンのように見事に“転向”した。

55年体制。日本社会党が勢いを持っていた時代。かえって政治はスリリングであり、それがあることが自民党へのブレーキ役を果たしていたとも言えるのだが。

自民は一枚岩か。そうでもあるまい。沈黙は金を決め込んでいるということか。

バラバラな野党では、とてもじゃないが安倍自民に太刀打ち出来ない。
厳然たる、確固たる「反対勢力」が無い限り、体制は揺るがないのだ。

今月末には臨時国会が召集される。安倍に切り込める“論客”なんて存在するのか。煙に巻かれるのがオチ。
テレビカメラに向かって、大きなフリップを出し、「国民の見てる前で」なんてのたまうが、昼間国会中継見てる人ってどれくらいいるのか。

そして、福島知事選。自民・公明・民主相乗り。県民の選択肢は極めて低い。

野党不在の県政と相成るのか。この「おかしさ」を県紙とても書かないような。

皆な一緒ってのはおかしいのだけど。

「暴走老人」は続いています(笑)。

2014年9月15日月曜日

「敬老の日」だと言う・・・。

老人を、老を敬う。敬老の日。そういった意味なのだろう。
国民の休日だという。祝日だという。
まことに「実態」の伴っていない祝日だと思う。

この日一日年寄を敬えばいいということにも思える。この日だけは、なんとなく「空気」が老人をちやほやし、あとの364日はそうではないと感じるような。

年齢から言えば、年寄だ。老人だ。そであるがゆえに、この無意味な祝日、風潮を嫌う。

たいした根拠もない、いわれもない祝日。
子供の日は端午の節句だ。成人の日は元服だ。敬老の日って・・・。

この日に合わせて、地域によっては敬老会なるものが行われる。幸か不幸か、わが地域には無いようだ。あるかもしれないは御誘いは無い。もちろん仮に呼ばれてもいかない。“偉い人”の挨拶を聞かされ、仕出し弁当を食って、近所の子供たちから“慰問される”。

テレビはこぞって「元気なお年寄り」をもてはやし、長寿の秘訣を言う。毎年恒例の“光景”。

敬うのだというなら、本当にそう思うなら、年寄の言うことを聞け。年寄から学べ。
永年生きてきた知識と経験を持っている。

歳をとれば、体力、気力とも落ちる。当然の自然の摂理。

施設の在り様含め、高齢者は、どこかで“食い物”にされている風潮。おれおれ詐欺もその典型。

年寄よ、労わられることに安住するな。当然と思うな。年寄が若者に教えることは多々あるのだ。あなたにしか語れないことが。

津波で祖父を亡くした孫が家業に専念することにしたという。漁師だ。
「おじいちゃんが生きているうちに、教えて欲しいことがいっぱいあったのに」と彼は言う。

何歳からを高齢者というか。国の感覚では65歳以上だという。

政府は必ず、子どもの日には子供の数の統計を発表し、その推移を語る。
敬老の日に合わせて高齢者人口を発表する。
65歳以上が3269万人。75歳以上が1590万人。人口の8人に一人が75歳以上だといい、社会への警鐘を鳴らす。

75歳以上は「後期高齢者」だとされる。健康保険、運転免許。社会的に「区別」される。

悠々自適。ある時期作られた戯言だ。自営業はたとえば息子に家業を譲る。いわゆるサラリーマンは定年と言う大きな壁がある。
年金では食っていけない世の中、これからはもっと酷になるであろう老後の生活。

多くの老人が就労意欲を持っている。しかし、特別な場合、特殊な場合を除いて、老人は一般社会から排除されている。若者にすら就労がかなわない社会。老人に用意されている席は少ない。

そして問題視されるのが高齢者の一人住まい。孤独死につなげる問題。高齢者の単身所帯は552万件あるのだとう。
世の風潮は「孤」を社会悪のように伝える。「孤」はかんばしくないことなのか。

だとすれば、高齢者に求められるのは「孤」と向き合う、「孤」と共存する訓練なのだ。

たしかに、にわかに物忘れが激しくなった。体力も衰えている。重いものも持てない。気力の減退している。記憶力も。
でも、まだまだ知りたいことが山のようにある。若いころ学んだことをもう一回取り戻したい。明治と言う時代を自分の中で、自分なりに消化したい。
昭和と言う時代、あの戦争があった時代、あのころの、いわゆる知識人階級が何を考えていたのかということも。

読み切る時間があるかどうかわからぬまま、ひたすら本を買い込んでいる。勉強したいことがまだまだあるという欲望。

病をもっていようといまいと、高齢者は、かなう限りの「知的高齢者」であって欲しいと思う。自らを“弱者”に置くな。
孫の世代に伝えること、教えることは多々あるのだから。面倒臭いけどやらねばならない仕事なのだ。

世俗を離れるな。世間に対して、常に批判の目をもて。牙を抜かれるな。怒れ。

敬老の日とは、なにか贈り物をもらって喜んでいる日ではない。引っ込んでいろとされた老人が、俺が言わねば誰が言う。そんな“覚醒”の日であって欲しいとも思うのだが。

また吠えてしまった。この暴走老人が。おやかましゅうございました。
少子高齢化という大きな社会問題を抱えているということは百も承知の上で。

2014年9月14日日曜日

「食」と「農」のこと

久しぶりの秋晴れです。隣の田んぼの稲穂も気持ちよさそうに揺れています。

きのう見かけました。近所にあった田んぼ一枚。重機で掘り起こされていました。感傷的なことですが、その田んぼの北側は富岡町から避難してきている人たちの「借り上げ住宅」4軒。
田んぼを見ながら、置いてきた故郷の光景を重ね合わせていたのかもしれませんが。

今朝、町内会の人に聞くと、その田んぼの持ち主の「おやじさん」が亡くなったとか。たぶん「宅地」にされるんだろうという話でした。

我が家の界隈。30年前までは民家は3軒。あとは田んぼだったそうです。我が家も元農地だったそうです。

身の回りを見ても、明らかに稲作農家は減少しているようです。残っている農家もすべて「兼業農家」。コメをつくっているだけでは食っていけないってこと。

国が生産者米価を決めていたときはいざしらず、今は、ほとんどが「農協」の買い上げです。収穫日は農協が決め、「ハタ」が立てられていました。

今年、2014年、またまた農協が農家からコメを買い取る価格が下がったそうです。去年よりも一割減。

コメ1俵、60キロ。買い取り価格は1万円前後です。60キロ。だいたい1年間に消費される、一人が1年間に食べる量です。

都会のスーパーでは新米コシヒカリが5キロ。1,800円前後で販売されているそうです。安くなりました。消費者にとっては「ありがたい」こと。

でも、コメ農家にとっては死活問題でもあるのです。

福島県の「農協」が決めた今年のコメの買い取り単価。去年より全銘柄約2~4割の減。

コメの需要減と過剰在庫によるコメ余り、東日本の豊作予想を考慮し、主力品種「コシヒカリ」(1等米60キロ当たり)は会津を除いて軒並み1万円を大きく割り込む厳しい単価設定となった。と地元紙は書いています。

600キロ作っても10万円。経費差し引けばいくら手元に残るのか。5万円にも満たないはず。

コメの需要減とはコメ離れということです。食卓からコメが消え続けている。

“異常気象”はあったものの、作柄はおおむね上々。でも価格は下がる。

日本の農政の基本的な問題です。

「食に関心のある人はエネルギーにも関心がある。エネルギーに関心がある人は食にも関心がある。なぜなら双方とも”生きる“ということに結びついているから」。

農政が抱える問題は多様です。農家の高齢化の問題もある。地方の若者の、農業離れ、都会への移住の問題もある・・・。

都会のスーパーに行けばあらゆる食べ物が並んでいます。日本の食糧自給率は39%に落ち込んでいるのに、見た目ではそれを感じ取れない。
コメを作っても生活費にすらならない。そんな生産者の悩みは、スーパーでは感じ取れないのです。

仮に離農がどんどん進めばどうなる。農業国中国からの輸入なんて事態にもなりかねない。

緑溢れる田園風景も姿を消す。

そうならないとも限らないのです。

今、日本にとって一番大事な安全保障。それは「食の安全保障」なのです。さまざまな観点から見て。

食と農、農とコメ。第一次産業である農。

なんでも「政治」を絡めたくはないのですが、国会議員の大半は地方選出です。
農家は票田でもありました。
選挙区へ帰ることを「田の草取りに行く」「票田を耕す」という言い方も“永田町業界用語”としてありました。

でも「食の安全保障」の論議は、「別の安全保障」の論議に隠れてしまっている。

収入にならないと嘆く生産者。価格が安くなったからと言って安堵する消費者。

原発問題と同じ構図です。電気を生産するところ、電気を消費するだけのところ。
食の安全を旨として福島県産米を忌避する人・・・。

隣の稲穂が秋を喜んでいるのか、悲しんでいるのか、垂れている頭が問いかけてくるものは・・・。
秋とて悩ましいのです。

2014年9月13日土曜日

国道6号が全通する

福島県浜通りを南北に貫く国道6号。「3・11」以来、破損や放射能で一部が通行止めのままだった。

15日に全面開通するという。1Fが容易に望める道路。まだ一部線量が高い区域もある。通行可能は4輪車。窓を閉め切って止まらずに走り抜けよということらしい。

国道6号。東京では通称水戸街道と言った。中通を貫く4号は通称、日光街道。
延伸に次ぐ延伸。両方とも交通の要衝、大動脈。

水戸街道は明治の時代、水戸以北は陸前浜街道とも呼ばれていた。

それにしても、国道の多くは起点が東京の日本橋。東京から北へ行くのは下り。北から東京に向かうのは上り。

6号の全通。たとえば南相馬といわきを往来するには、回り道を余儀なくされてきた。回り道は中途半端な時間と距離ではない。1時間もかからないのが4時間。物流にも影響大だった。

全通しても汚染が完全に除去されたわけではない。いわゆる避難区域になっている距離は40キロほど。そこを時速40キロで通過しても2,1μ㏜の線量を浴びるといわれる。
なぜ全通を急ぐのか、住民にとっては、道路の確保という点では歓迎のこと。
“復興”が印象付けられる。

たとえば南相馬と中通を結ぶ県道原町川俣線は通行量が大幅に増えていた。たぶん、道路の“破損”も激しいだろう。

なぜ全通を急いだか。大熊、双葉に出来る中間貯蔵施設への仮置き場からの“汚染土”搬入道を確保するためだ。

10トンダンプがどれくらい確保できるかどうかはともかく、搬入路を確保しないと運び込めないということ。
来年早々にも“施設”完成を国は目指しているという。
まだ、住民説明会も終わっていない。道路の全通は、一つの既成事実として、説得材料にも使われる。

施設は堅牢なものになるのだろうか。すでにして腐食が進んでいるフレコンバッグが運搬途中で、中身の飛散を防止できるのだろうか。
通過するだけで“追加被ばく”の可能性があるところへ、ダンプを走らせる運転手は確保できるのか。通過した車両の「除染」はどうるのか。

3年前、避難区域を通った車両、一時帰宅に向かった車両は、大方「除染」の対象とされていた記憶・・・。

道路は全通しても、その主目的は「袋小路」に入ったままのような。

これとても「福島」の一断面。始まったことは何かという断面。

鹿児島川内再稼働。避難計画に国が関与し始めたという。避難手順を決め、優先順位を決め、避難先の確保にも動くという。
うまく行くわけは100%無いと思うが・・・。

うまく避難出来たとして、いつになったら戻れるのか。そんな「解」はどこにも無い。

事故の規模にもよるが、もし福島と同様の規模だったら。

3年半、福島にある状況が、そこにも起きるのだ。
帰るところは無くなるのだ。
避難とは流浪の民になることの第一歩を踏み出したということなのだ。

国道6号の全通。増える交通量。交通事故だってあり得る。事故処理は出来るのか。完全防護服での事故処理となるのか。

浜通りの人たちにとって、道路全通は歓迎すべきこと。でも、彼らとて「手放しで」喜んではいないのではないかということ。一時帰宅には、いささかの“便利さ”があるとしても。

新たな「往還記」が生まれてくる。

2014年9月12日金曜日

岡目八目的「新聞“論”」

目下「話題集中」の朝日新聞、吉田調書、吉田証言問題。それを巡る大騒ぎ。

吉田調書が5月に朝日の「特ダネ」として報じられ、命令違反で2Fに避難という見出し。

ここでもいささかの疑義を呈した。それ以前に書かれていた門田陸将の「死の淵を見た男」をつぶさに読んでいたから。斜め読みでは無く。

プロメテウスの罠にも、時々噛み付いた。書かれていた当事者は知り合いであり、取材は受けていませんと語ってくれたから。

「吉田調書」につては、ほとんど触れてこなかった。最近の新聞間にいがみ合いは目に余るものもあったが。

今でも時々、元朝日新聞と経歴を間違われる。市井でも先入観が出来上がっているのか。「違う。テレビ朝日だ」と答えると「あ、テレビだったんですか」てな反応。

余談も余談。全くの私事。人生の節目、2回、朝日新聞に決められた。転勤、退職強要。

朝日新聞には知人もいる。社内の空気もおおよそ知っている。今回の「誤報」、その空気の為せる業という感もあり。

編集局内はまさに「権力闘争」の場でもあった。政治部・社会部・経済部。傍から見ると有り得ないような対立の構図。その中で新聞が作られている。

最初から「出世」が約束されている人もいれば、一生地方勤務の人もいる。
そしておしなべてのエリート意識。

立派な記者も数多くいるには居るのだが。

吉田調書。朝日が抜いた。内部告発というかリークというか。資料全部、リークとも言えまい。
朝日に書かせることに意味があると思った内部の人がいたということだ。

政府事故調どまりの内部文書。規制委も、国会事故調も知らない、見てないという資料。

もともと、とっくに公開されていれば済むものだった。政府はひた隠しに隠した。どこの事故調であれ、権限をもって聴取し、資料としたものならば、それは国民に公開され、共有されてこそ「調査」の意味を持つ。
おおもとからの“間違い”が、時の国家権力、政治にうまく利用された。

安倍政権に批判的な朝日。目の上のたんこぶ。もっとも、昨日会見していた木村伊量って社長、安倍と時々会食していたのだが・・・。

「朝日潰し」っていうことなのだろう。委縮させてやろうってことなのだろう。
読売、サンケイ、共同に個別に“意図的”に政府はその中身をリークした。
挙句、頃合い見計らって全面公開。

「誤報」に関する朝日の釈明会見。経緯、内容は聞くに堪えないような無様な顛末・・・。

メディア操縦に長けた安倍政権。

そして世間の耳目は「ジャーナリズムの在り方」だの「国際社会に与える影響大」となる。

「調書」をよく読めば、問題視されることは多々あるにも関わらず「誤報」が前面に据えられ、本質論が霞んでしまっている。
追及されるべきは、東電本社、時の政権、ひるがえって原発政策そのもののはずなのに。

隠された。読み解けば問題点はいろいろあるのに、耳目は朝日にだけ集中するという”悲しさ“。

1F,2Fで働く作業員。多くが地元の人間だ。「俺が止める、町を家族を守るために」。そんな人達も多くいた。逃げるようなことをするわけではないとも書いた記憶がある。

特定秘密保護法や、以降の再稼働問題、ひいては集団的自衛権の問題、その報道の仕方にも“圧力”を掛けることにもなる。

「慰安婦問題」には触れたことが無い。触れることへのむずかしさがある。
慰安婦の存在と、韓国人の強制連行がごっちゃにされているからだ。

福島県知事選。新聞がこぞって使った「分裂回避」。なんとも語彙の足りなさ。
分裂回避とは自民党の党本部と県連の間のこと。県連内部は、分裂回避じゃない。責任問題巡って主流、反主流は対立、分裂含みにあるのだ。

雄平も、県連会長も「苦渋の決断」って言葉をよく使う。苦渋の決断。軽い言葉じゃないはずなのに。そのまま伝えるメディアも語彙に関して無頓着だ。

吉田調書の本質論から外れた論争。朝日の購読者が減るとか、会社が潰れるとか。

新聞間で喧嘩してないで、もっと本質論を伝えるようになって欲しいのだが。
朝日の「欺瞞」は暴かれたのだから。

2014年9月11日木曜日

3年半・・・。月日を数えることの無意味さ

あの日から3年半だ。節目にならない節目の日と言おうか。

石の上にも3年という諺の類がある。冷たい石も3年も座っていれば暖かくなるということ、どんなに辛くても苦しくても辛抱すれば報われるということだそうだ。

我々は「冷たい石」に3年以上、座り続けている。いささかアイロニー的な言い方だが。3年半、石は暖かくなったか。なっていない。

避難者は24万人を超える。
東北3県、仮設暮らしの人は9万人弱だ。福島、いわきの仮設ではまた自死者が出た。楢葉の人。精神的に完全に追い詰められていたとのこと。87歳女性。

原発事故関連死、1,118人に上るという。死なずに済んだ命。

仮設によっては、老朽化が進む。プレハブ仮設。雨漏りはする、壁が腐敗する。虫食いだらけの家で、薬を飲みながらの生活。
心身ともに病んでくる。

三陸の仮設では、“立ち退き”“移動”の話しも出てきた。
復興住宅建設は進まない。
仮設の中で、新しいコミュニティーが出来る。復興住宅への移住に逡巡する人もいる。

津波で被災して人には、「補償、賠償」は無いはず。
健康で文化的な最低限度の生活の権利。憲法で明記されているにも関わらず。

川内原発は「再稼働」に向けて動く。あの日から4年目で、再稼働ということになりそうだ。

鹿児島県にしても当該自治体にしても、「住民説明」を始めると言う。

行政の側は「再稼働歓迎」だ。

テレビが住民のインタビューをやる。

「地元が潤うなら、恩恵を受けるはずだから賛成です」と答える人も少なくない。

この意見を一概に排除できない。そうなのだから。福島県が、双葉郡の歴史がそうだったのだから。

おおかた、原発は過疎地を狙い撃ちにしたように作られる。わざと過疎にしたとまでは言わないが。

日本の社会の宿命的構造。

国が、専門家集団の規制委が「安全」だと言えば、自分の中にあった“1%の不安感”は自分の中で押し殺す。無かったものにする。

事故が起きる懸念は排除する。今の、明日の生活の為に。

双葉郡も潤ってきた。原発マネーで、人が集まってくるということで。人の往来は一過性だ。マネーには「からくり」がある。

潤っていた双葉郡も、やがて財政はひっ迫してきていた。新たな原発建設に触手を動かしていた。

一旦、事故が起きれば元の木阿弥。流浪の民になる。それが無いと信じられるかどうかだ。

「被災者としての支援」という考え方がある。

原発被災者は、可能ならば、川内に出向き、自らの体験を語ってくることも必要なのではないか。「もしかしたらあなた達も」と。

経済再生担当大臣は言った。「地球温暖化、原発ゼロによりCO2の排出が増加して、デング熱が発生した。巨額の国富が失われた」と。

国富とは何か。さまざまな角度から考え直す機会なのだけど、今は。

3年半・・・。重い。ひたすら重い。

2014年9月10日水曜日

「くすぶる不満」、「溜る不満」、されど爆発せず

そりゃ、世の中“不満”の無い人なんていないと思うけど・・・。

「余は満足じゃ」って思っている人も、なぜ民草は余になびかぬのじゃとご不満かもしれないし。

天下人のなされた人事、安倍内閣の改造人事。どうやら党内にはご不満の方も多いらしい。誰やらは名前が明かされない故わからないけど、党内には不満がくすぶっているという。
それは野党とて同じ。不満だらけの方々もいる。

そんな人達が政治に携わっているということ。

しかし、それらの不満は内包され、抑え込まれ、爆発しない。とどのつまり殿ご安泰となる。

福島県知事選、なんとも面妖な展開。党本部の対応に自民県連は不満がくすぶっている。

とにかく、今の福島が置かれた状況の中で、相乗り候補っていうのはおかしい。

原発事故当時も副知事だった内堀。記憶をたどれば「オフサイトセンター」から県庁にいち早く“逃げ戻った”人。致し方ないこととは言え。

雄平知事には、言葉は悪いが“苦しめ”られた。無策の知事、副知事のそしりを免れないところ。

党本部の指示で内堀相乗りってことなら、自民県連が推した鉢村は逡巡することなく、単独で立候補したらどうか。

黒白つけるべきかとも。

どっちに転んでも自民県連は不満やるかたなく、不満を抱えたまま選挙戦となる。

県民不在の知事選。

じゃ、県民は、原発に疑義のある熊坂か吉田でも支持したらどうか。いや、そういう動きも加速するかもしれない。

明日で3年半。この期に及んで、知事選に「中央の都合」が持ち込まれ、県民の選択肢を縛る。

いつまで福島を利用するんだよ。と言いたい人多々有りやと。

一回爆発してみてもいいんじゃないかな。

一番不満を抱えている、くすぶり続ける不満に身を置いているのが県民。県民そっちのけのドタバタ劇。きょうも続いている様子。

うんざりなんだ。

遅々として進まぬ“復興”なるものへの道。あらゆることで県民は不満に身を委ねながら、多くが黙して語らぬ。

不満を抱えながらも、それを爆発させない。その“忍耐強さ”を是とするのかどうか。

くすぶりつづける不満、溜った不満は、やがて爆発するものだが。

海溝のプレートの移動。プレート間に溜ったストレス。それが爆発した時が地震だと思ってみてもいい。仕事でたまったストレス、不満。それは居酒屋で発散させるという手立ても無くはない。
しかし、それとても一時的な手段。

残念ながら、多くの国民が持っている不満を吸い上げ、解消してくれる術を国家は持たない。

不満が怒りに変わり、爆発する。例えばギリシャだ。不満の爆発は町で表現される。

かつての60年代の若者の“暴走”だって、不満の爆発だったはず。それは結局抑え込まれるのだが。

鹿児島、川内原発が再稼働に向けて一歩進んだ。
再稼働反対運動は、「川内」に集結出来るのか。爆発するくらいのエネルギーを持って。

辺野古でも不満が爆発している。

川内も辺野古も、それを圧政と呼ぶかどうかはともかく、“不測の事態”招来って可能性もはらむ。

マグマだって地中の“不満”の爆発だ。

みなぎる不満の数々。されど爆発せず。それを日本人の美徳とするのはなんとも・・・。

なんでもかんでも「円満解決」を目指す。福島の地で考える民主主義。もう中央の意のままになるのはおやめになってはいかがかとも。

昨日の月はあまりにも丸かったけど・・・。

2014年9月9日火曜日

「アンダーコントロール」を巡る雑感

テニスの錦織圭、残念な結果に終わった。報道によれば、体調が万全ではなかったらしい。体調が完全にコントロールされていなかったとのこと。
それが結果となって表れたということ。

コントロール・・・。

東京オリンピックを招致するために安倍は言った。
「福島第一原発はアンダーコントロールされている」と。嘘だ。一例をあげてもそうだ。今もって、放出目標値の10倍を超える汚染水が港湾に流出している。
汚染された地下水の流出。高濃度汚染水のたまったトレンチからの漏れ。

この半年でも2兆㏃の汚染水が港湾内に流出しているのだ。

建屋のカバーを外せば、放射性物質が飛散する。していた。している。
でも、カバーを外さないことには作業は進まない。

作業員の人数は増えている。しかし、寄せ集めの感ありだ。

経済産業大臣になった小渕優子が視察した。
「全体としてアンダーコントロールされている」と言った。
だいいち、数時間見て回って説明を聞いて、よくもまあ、そんなことが言えたもんだと。

全ては野田政権時、収束宣言を出した政治判断に行きつくのだが。

小渕までが安倍の使った言葉に追従する。笑っちゃいけないことだけど笑える。

なぜこの子がもてはやされるのか。わからない。政治家の劣化、人材の無さ、人気取りに走る政治の有り様の結実か。

どうでもいいことだが、彼女の父親とはそこそこ知己の仲だった。弁舌は爽やかでは無かった。早稲田の雄弁会出身と言う割には。
人柄はすこぶる良かった。
彼女に怒りをぶつけてもはじまるまい。所詮はその程度の“政治家”なのだから。

本心でそう思ったのなら、見るべきものを見ていない。知るべきことを知ろうとしていない。そう言わざるを得ない。

今後も続くであろう、政治と原発事故現場との認識。

例えば三陸の海岸。見える範囲の“復興”は遅まきながらも進んでいる。道路は整備された。瓦礫の山は無くなった。

それをして“復興”と言えるのか。海の中を見よ。
そこには2千人を超える不明者が沈黙のままいるはずだ。
多くの日常にあった品々が海底に残されたままだ。
海の中は「あの日」のままなのだ。

目先の光景をみて判断するのは滑稽なのだ。

福島の海を見ずして、その実情を知らずして、事故の帰趨について語る勿れだ。

コントロール・・・。

人類は核をコントロール出来ない。その教訓を学んだはずなのに。いったん事故を起こせばコントロール出来ないことは分かったはずなのに。

事故を起こすという前提があるから、避難計画が必須になるのだ。規制委員会は「条件では無い」とほざいているが。

安倍がコントロール出来ているのは、追従する自民党の議員だけだ。“政敵”とされていた石破もコントロール下に置かれた。
マスコミの大半もコントロール下だ。財界も然りだ。

権力は権力をコントロール出来るのかもしれないが。

人間、自分の感情をコントロールするのは難しい。出来ない。自分のことであっても。

蠅が一匹事務所に入り込んできた。捕まえられない。コントロール出来ない。たかが蠅一匹と雖も。

デング熱を“媒介”する蚊だって、コントロール出来ない。

小渕君の娘をいじめる気はないが、アンダーコントロールされていると言ったのなら、すかさず、1Fだけのことでは無くて、「核」もコントロール出来るとお考えですかって質問浴びせる記者がいてもよかったのになと。

満月のせいか。なぜか吠えてしまった。“オオカミ老人けん”が。20年以上前は「うさぎ」ってあだ名もらっていたんだけどな。

2014年9月8日月曜日

今宵は中秋の名月にて候

小説家、劇作家の井上ひさしが書いた芝居の中にこんなセリフがあるという。
「なぜ、月はあんなにも美しいのだろう。なぜだ。たぶん、月に持ち主がいないからだろう」。

井上ひさしは山形県出身。東北人の気質が浸みこんでいる人のような気がする。
小説「吉里吉里人」。それは、まさに“東北独立宣言”だった。

中央の搾取に耐えかねた大人しい、忍耐強い東北人が決起する物語。

ひょっこりひようたん島は津波の被害にあった。

東北人は、ある時代から「農耕民族」とされてきた。それは自然から学び、自然の摂理とともに生きていうということ。

友人の農業経営者は、農作業は「月齢」の則って行っているという。種まきの時期、田植えの時期、刈取りの時期など。

月の満ち欠け。人間はじめ、生物に与える“影響”も大だ。

知り合いの“介護施設”で働く人が言っていた。そこに入所している“障害者”の中には、満月の時には、普段より“興奮”するとか。ピュアな心には月の「働き」がわかるのだろう。

もちろん勝手に思っていることだが、そして勝手に言って回っていることだが、月はウサギの住むところでよかったのだ。
月の満ち欠けに感謝して、お団子を供える。
それが人間本来の姿。

月の働きで、自分たちの日々を送ってきた人類が、なにをトチ狂ったか、月に行くと言いだし、月に降り立ってしまった。
それは、何事かの禍をもたらしてくれたような気がする。

「侵してはならない領分」というのがあるのだ。科学技術の進歩一辺倒の人類は、月をも”征服“しようとした。月面着陸を多くの人類が称賛した。

その「行為」には、ある種の“恐ろしさ”を感じたものだが。

村上春樹は「1Q84」という小説で、「二つの月」をテーマに据えていた。月が二つあるとうこと。それは、アイロニーとしての文明への“警告”ではなかったのだろうか。

福島県の川内村には、満月祭という催しがある。古くからあるわけではないが、川内村に住み着いて「獏原人村」を作った主が始めたもの。

一時は、「ヒッピー」のような人達も各地から集まっていた。そこでひと時の解放感をおぼえていた。

ヒッピーと称される人達が溢れ、ウッドストックが称賛された時代。おおまかにいえば、「自然回帰」を経済成長の渦の中から否定し、逃れようとしてしていた時代。そこに集まった人達は、「平和」を希求していた。

あのウッドストックのあった時代も歴史の彼方のことになった。

そしてこの国は、「我が世ぞと思う、望月の欠けたることの無きを」と言わんばかりの人が強引に支配している。

新古今集の一句。
「秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ」。

今宵の天気はどうだろう。異常気象なるものも、月の怒りかもしれないと思う昨今。
「月も雲間の無きは嫌にて候」と達観するのか。明日のスーパームーンに期待するのか。

潮位の変動。それだって月齢によるものだということ。瞑すべきかと。

2014年9月7日日曜日

「オール福島」という選択

県知事選、なぜか民主の動きが早かった。外遊から帰った増子輝彦。出る気は“まんまん”だったのかもしれないが、党としては内堀副知事擁立へ。

時系列で行くと、民主の候補に自民が相乗りって構図が出来る。意図したかどうかはともかく作戦としては上手いことやったのかなと。

先に決めた方が「先手必勝」ではないけれど、一昨日、自民党本部の言うこと聞いて、県連執行部が内堀で行くと決めていれば、自民の推薦候補に後から民主が乗るて形が出来ていたのに。

持ち帰って検討なんて言っている間に、昨夜民主がいち早く態度決定。
とんびに油揚げさらわれたってことか。

それにしても、自民も民主も「オール福島」だという。

「復興を急ぐためには政党が争っている場合じゃ無い」。なんかおかしな理屈だ。

苦し紛れのこじつけとも。

「政党が相乗りすれば復興は進むのか。争いを避けたい政治家の言い訳だ」。避難中の人の見立てが正解だ。

自民党の県連さん、「民主の候補に乗って負けを避けたんですよ」と言われるぜ。

政党間の争いあってよろしいのだ。対立軸があることが、おのずからそこに「緊張感」を生む。

「オール福島」じゃなんともはや・・・。

鉢村氏は「県民党」だと言っていた。
よくこういうこと言われるが、建前、建前。どこでものこと。

熊坂というすでに立候補を決めている人がいる。精力的に活動して様子。この人が内堀の対抗馬足り得るのか。

吉田という人も出ているが・・・。

どうも、相乗りっていうのは、まったくの政治の思惑絡み。きれいごと言うようだが、相乗りは政策論争の機会を奪い、県民の選択肢を減らすことになる。

なんか、いただけないんだよな。

オール福島、オール与党。中央ではもはや、与野党と言う緊張した、対立軸は無い。野党は埋没している。

それが何をもたらしているか。ちょっと考えてみればわかること。

福島県民の意志は必ずしも一つではない。相乗りが県民の気持ちを汲みとったことになるのか。

政治への不信と言うのは、こうした政界のご都合主義によって生まれるのだ。

さてさて、双方からラブコールを送られている内堀副知事はどうするのだ。
もはや引くにも引けないし。

こんな福島県の様子見ていて、小泉純一郎や細川護煕と言う、「反原発」を掲げ動き始めている元首相二人。

「政治とは直接かかわらないが、福島県に影響を与えたい」てなことを言っていたお二人。

「無言」を貫くのだろうか・・・。

脱原発を訴える熊坂に与するのか。

内堀が原発に関して、どんな基本的スタンスを示すのか。

もろもろ考えると、福島の復興ってなんだ、福島県民にとって政党とはいかなる存在で、いかなる位置づけにあるのかというところまで行き着く。

味噌くそ一緒のようなオール福島ってなんだいって。

多くの地方自治体での無党派、無所属を標ぼうする首長選。オール福島なら、国に遠慮なく物が言えるということか。

「敗北と言われるのを避けたい」。政党エゴだけが透けて見える県知事選と相成って来たのであり。

2014年9月6日土曜日

「福島」をどう捉えるかということ

福島知事選をめぐる「ドタバタ劇」。そうとしか映らない。

今度の知事選。それは以前とはその意義が大きく違うはず。少なくとも県民にとっては。

「原発事故」。それに伴う、それから派生したあらゆることにいかに対処するかという視点。

内情は違う。旧態依然とした中央政治と地方政治。その延長線上に置かれている知事選。

自民党県連の“混乱”が一つの原因。いわば“内輪もめ”。そして、中央にあっては安部政権の命運をかけたものという“共通認識”に巻き込まれてしまっているということ。

原発事故や再稼働にかかわる人たちの間でも、知事選に対する関心は極めて薄い。

昨夜の永田町の自民党本部の光景を想像する。新執行部の最初の大事なお仕事は福島知事選への対応。
県連会長や幹部が本部の執行部に呼ばれた。

与野党相乗り一本化を強く要請されたのだろう。そして、急浮上した内堀副知事の擁立。

雄平知事は相乗りだった。前回は。今回、自民県連は独自候補擁立を決めた。そして日銀の支店長だった鉢村を担いだ。本部は「うん」と言わない。

普通、知事選の候補には、県連が決めた人事を、本部は追認する。それをしなかった。鉢村では、相乗りでなくては「勝てない」と踏んだからだ。

勝てなければ、安倍政権に「傷」がつく。選択肢は相乗り。

つまり、政争の具に県知事選が供されたということ。

雄平がなぜ、土壇場まで態度を明確にしなかったのか。彼は最後まで逡巡した。
一番の支えが双葉郡の町村会が出馬を要請し続けたこと。

結果「利無し」と判断し、副知事の内堀を“後継指名”した。

県連の反主流派は活気づいた。

県連会長の岩城光英は最後まで、自分が一本化してみせると息巻いていた。傍ら、入閣も睨んでいた。外された。いまさら自分が知事選に出るとは言えない。誰も支持しない。

県連推薦をとったはずの鉢村は完全に梯子を外された格好。ほぞを噛んでいる
に違いない。

党本部は、内堀相乗りを迫る。県連主流派だけで鉢村を担げるのか・・・。

県連内部は“分裂、崩壊”だ。党本部の「ごり押し」を受け入れれば、執行部の責任問題にも発展しよう。

今、この福島で、多くの問題を抱え、県外避難者4万4千人を抱え、1Fは何も見通せないという状況の中で、“県政”が混乱する。
それは、政権にとってはあずかり知らぬこと。相乗りだったら負けは無いという“理屈”だけを押し通す。

福島県というのは、原発の歴史にみならず、いささかの過去を手繰っても、中央の意のままに、中央の都合のいいように「利用されてきた」ということかもしれない。

すでにして、中間貯蔵施設問題では3010億の金を出すことにした。自己処理は東電任せ。除染からも手を抜いていく。

中央のメンツさえ立てば、福島はどうなってもいいという投げやりな言葉も浮かぶ。

外遊を終えた増子輝彦くんがどう出るのか。

きょうは、大方の“悪口”はやめておこう。それぞれ候補として名があがっている人たちの“査定”もやめておこう。

まなじりを決して、リーダーを選べなかった、世界にも名をはせた福島県。

後世に残るかもしれないそんな評価。

福島県を県民は、どう捉えているのか。中央は福島県をどういう位置づけにおいているのか。

それは、知事選のことだけではないが。その他もろもろあるにはあるが。

秋風とは無縁な、えもいわれぬ“淋しさ”・・・。

もし、内堀が立候補しないとでも言ったらどうなるのだろう・・・。

それはそれで「おもしろきことも無き世をおもしろく」するのかもしれないとも。

2014年9月5日金曜日

「グッドルーザー」ということ

テニスの錦織圭が全米オープンでスイスの強豪、ワウリンカを下し、ベスト4に進出した。快挙だ。

昔からある有名な言葉。
「ウインブルドンの観客は、グッドルーザー、悪びれない敗者に惜しみない拍手を贈る」。

錦織圭の快挙の裏に、そこはウインブルドンでは無かったが、“グッドルーザー”の姿を見た。選手本人の。

錦織圭の体を反転させてのリターン。見事に決まった。そのショットになんと相手のワウリンカ選手がラケットを叩き、拍手を送っていたのだ。笑顔で。

うん、君のプレーは素晴らしいとばかりに。

「美しい光景」だった。

錦織も素晴らしい。負けず劣らず、ワウリンカも素晴らしい。ワウリンカは敗者ではあったが勝者でもある。

厭なことばかりが溢れている昨今、いい光景を見せてもらった。


サッカーやラグビーの「ノーサイド」という精神もそうだ。試合が終われば勝者も敗者も無い。敵味方は無い。
高校野球でも時折、相手を称える光景を目にする。

グッドルーザーと意味は違うが、西洋には「ノブレス・オブリージュ」という言葉がある。高貴なるものの責務と訳して教わった。
さしずめ、こういうことなのだと思う。

「権力者が社会の模範となるように振る舞うべきだという社会的責任」と。


今、日本の「権力者」たちの振る舞いはいかがなのだろうか。

それは、政界だけではなく、他の所でも、権力者は、ただ、ひたすら権力をほしいままにしていると映る。

それが、ある種の「民主主義」なのかもしれないが、我々は、権力を持たしてはいけない人に権力を持たしてしまったのかもしれない。

そして権力者は権力というものがいかなるものかの自覚が全く無い。

「最高権力者は私だ」と豪語して憚らなかった人。それにへつらう人。

大方、歴史を見ても、権力者は、それを維持するためにあらゆる算段を使う。

下世話な話しだが。女性活用を“人気取り”に使い、組閣後の記念撮影では、自らの周りを着飾った女性閣僚に囲ませた。

総理の隣は副総理であるべきなのに。

醜悪な光景に映る。

まさか国会の雛壇の並び方も変えるつもりではないだろうと思うが。

西洋の言葉二つをもって、「国家の品格」とはなにかと問いたい気分だ。

そして錦織は、新たな「グッドルーザー」を生んでくれるのかもしれないと期待しつつ。

永田町には「グッドルーザー」はいなかったとも思う。

2014年9月4日木曜日

野党、その存在の絶えられない軽さ

内閣改造人事が終わった。永田町は、しばし、また平穏さを取り戻す。

安倍晋三の高笑いが聞こえてきそうだ。

人事権を行使し、あるかもしれない“反逆”の芽を摘んだ。自民党はこよなく彼に追従するのだろう。
地位の安定を保った。思うがままの「まつりごと」が推し進められていくのだろう。
安倍の天下は揺るがないような。

新内閣が始動し始めた。早速、復興大臣が福島にくるという。
とにかく、何処を見て、誰と会うのかはわからぬが、まず「見ること」から「聞くこと」からはじめるのだろう。

環境大臣にしても然りだ。

「福島」をわかっていない人達なのだから。
かろうじて「福島」を知っているのは、留任が内定しているという小泉進次郎政務官だけ。彼がもろもろ前面に出てくるのだろう。


改造劇が終わり、野党各党は“談話”を出している。毎度のことだが、「ひかれものの小唄」の類だ。
この男の言っていることも、遠吠えのようにしか聞こえないが、小沢一郎だけはまともなことを言っているともいえるかも。

「改造をしても何も変わらない。安倍自信を変えない限りは」。

つい2年前まで、政権をとっていた民主党。そのな政党があったのかと思えるくらいの存在感の無さ。
這い上がる気力も力のもはや持ち合わせていないかのごとき存在。軽い。

分散化されている野党。確たる反対勢力になり得ない野党。

安倍は自公にだけ気をつかっていればいい。まとめていればいい。野党など無いに等しいものだから。

そのうち国会が開かれる。安倍内閣を追及し、窮地に追い込めるような論戦を挑める野党は無い。

野党たるものの力量も落ちたものだ。まったくの「パフォーマンス」にしか見えない国会での質問。追及。ひたすら自己満足のような演説に終始するだけの委員会での“論戦”。

巧みな弁舌をもってすれば、追及はいかようにも出来るのに。

多分、選挙は無い。任期満了まで行くのだろう。このままで行けば・・・。

野党という座に安住しているような感。

そして「党内野党」すら存在しない現状。

マスコミはお決まりのように、今後の政権運営についての“不安材料”を挙げる。
でも、それとて意にも介されない。

不安材料として挙げられるのが福島と沖縄の知事選だ。
沖縄は「対立の構図」が鮮明に出来ている。福島はまったく不透明だ。

両方負ければ、永田町の論理からすれば、政権基盤が揺るいだとされるだろう。
しかし、致命傷とはなるまい。

その福島。雄平は知事選立候補出馬を断念したという。雄平後援会、支持してきた民主や社民。候補擁立出来るのか。他をもってきて、自民県連が推す鉢村に勝てるのか。
まさか「不戦敗」を決め込むわけではないと思うが。

「相乗り」の選択が今度は“野党”に迫られる。

鉢村推薦に腰が引けていた自民党本部はどう動くのか。雄平以外なら勝てると踏んで、“相乗り”を諦め、独自候補一本で行くのか。
福島は公明党が強い。公明がどう動くのか。

多分、県民の多くは、知事選そのものに興味すら失っているのではとも。

余計なことをひとこと。

新聞の見出しには「女性活用」「女性活躍」などの文字が並ぶ。5人の女性閣僚。

それが見出しに踊り、話題にされるということがそれほどニュースバリューがあるということ。珍しい事とされるということ。それ自体が、女性を活用してこなかったということの証左。マスコミの見立て。

言葉は悪いが”女性差別”の感覚があるから、残っているから、それを話題、目玉にしようとするということか。

活用ということは、活用していなかったということに等しい。

なにはともあれ、芽を摘み、お仲間に囲まれた晋三君、さぞかし居心地よろしかろうと拝察するなり。

♪はは、のんきだね~♪

2014年9月3日水曜日

「人心一新」は世直しなりや

なにやら都にあっては、人事、人事と、油蝉の鳴き声のような騒ぎだとか。
それがどうしたって申したいところだが。

“まつりごと”のことは相知らぬことと打ち捨てておくのも賢い処世ではあろうが、こちらで打ち捨てておっても、将軍さまや幕閣の意向は、われら民草の身に及んでくるは必定。

将軍様はこうおっしゃっているそうな。
「安全保障や地域創成など、日本を取り戻す闘いの第二章がはじまるので、人心一新をはかりたい」と。

やれやれ、また鸚鵡のように日本を取り戻す、取り戻すって。取り戻すもなにも、日本は存在しておるのにな。
どうも、都の人の言っておることがよくわからぬ。


番頭さんが、幕閣の名簿を読み上げておられた。なんだい、もう瓦版には全部載っていたことではないか。
なぜに、瓦版に一斉に名簿のごときものが事前にのるのじゃ。

馴れ合いってことか。よくわからん。

抜いた、抜かれた、特ダネ、特落ち。瓦版の醍醐味もどこへやら。

電子瓦版は、岡っ引きを呼び出し、ああでもない、こうでもないと評議されておる。

何度も見かけた光景。異を唱うるのも憚られることではあるが。

なるほどな。これらの輩で世直しが計られるのじゃな。どうなることやら。

人事権は将軍様の特権。特権を武器に長き治世をはかられようということなのか。

譜代の面々とは言わぬ。旗本とも言わぬ。されど、寝首をかかれる恐れを絶ち、腹心を据え、身の安定を図られたのじゃな。

さぞかし得意満面であられよう。永田城の奥でほくそえんでおられるのか。

さてさて、この幕閣のお方たちで、我が地域は如何にあいなるのか。さっぱりわからぬ。

「カネ目」は放逐されたが、我が地域にゆかりのある方々は誰もおられなくなった。

復興相、環境相。相知らぬど素人と拝察。いずれ、この地にも伺候されよう。いかなる言葉を発せられるのか。

僻みではござらぬが、「福島」という言葉は、お殿さまの眼中にはなかったご様子。世直しに対象にはなっておらなかったと拝察なり。

ああ、吾ら如何せんと。

たまたま、隣県におわした、上杉鷹山公の言葉を書きしおりところ。鷹山公の「伝国の辞」にはかよう記されおりき。

「国家は先祖より伝え候国家にして、我私すべきものには之無く候」。
「人民は国家に属したる人民にして、我私すべき物には之無く候」。
「国家人民の為に立てたる君にして、君の為に立てたる国家人民には之無く候」。

殿も、幕閣も、人民の札によってその地位を得たるということ、よもやお忘れではないと存ずるが。

そして・・・。我が“藩”の領主、未だ帰趨はおろか、見通しも立たず。領民はまたぞろ減っているとか。

今宵、都で繰り広げられる“宴”の数々。妬け酒をあおる御仁もおろう。当方、何事もあずかり知らぬことと・・・。

お見苦しゅうございました。

2014年9月2日火曜日

たった8分間のセレモニー

中間貯蔵施設の受け入れをめぐり、昨日、福島県知事と建設予定地の大熊、双葉町長が官邸で安倍と会談した。

首相動静を見る限り、“会談”に要した時間は8分間。

雄平は持って来た紙を“たどたどしく”読み上げる。ゆっくりと。苦渋の決断だという。苦渋の決断。もう聞き飽きた感がある。それこそ”消費されつくした“ような言葉。

安倍は神妙な顔をして聞いている。

午前中にあった石原や根本との会談含め、県側の言い分はこうだ。
「30年以内に汚染土を県外で最終処分する法案の成立。
 3010億円の交付金の予算化。
 搬入ルートの維持管理や周辺対策の明確化。
 施設と輸送の安全性の確保。
 政府が県と大熊、双葉の両町との間で安全協定を結ぶ」


安倍の答えは「苦渋の決断と十分認識している。皆さんと一丸となって福島の復興に全力を尽くしたい」。

最終処分場の事には触れられなかったみたいだ。

8分間のセレモニー。事前の打ち合わせ、お膳立て通りのやりとり。

ま、世の中そういうもんだけど。

県も二町長も言う。建設を受け入れただけで、搬入を受け入れるかどうかは別の判断だと。搬入は容認していないと町長は言う。
町民感情を踏まえた上でだ。

そもそも、この話は、最初から論理としての筋が通っていない。仮置き場は中間貯蔵施設できる3年をめどに作られてきた。
最終が無いのに中間だけはある。この話自体が可笑しいのだ。

搬入は認めて訳ではないと言いながら、搬入のルートや安全性が話し合われている。搬入が前提の事が。順逆とでも言おうか。

これから「住民説明会」があるという。用地提供を絶対拒否とする地権者も当然出てこよう。それらの説得材料はただ一点。30年間我慢してくれ、最終処分場は「ここに」決まっているから。30年という将来の事への現実味のある、法を伴った最終処分場の明示なのかもしれない。
不可能なことはわかっているが。

住民が危惧しているのは、なし崩しの最終処分場なのだ。

いささか情緒的な事を言う。双葉郡はかつて「東北のチベット」と言われた。
そこに住み着いた人達は開墾し、潤し、自分たちの地としてきた。
土地に対する愛着。どこかパレスチナ問題とも絡むような。

その「感情」を政治では埋められない。

フレコンバッグが積まれた仮置き場を持つ県中の人達は、「中間」の目途がたったことを“歓迎”する。それとて当然なのだ。今のまま放っておくわけにはいかないのだから。

3010億円を貰い。県から150億円を貰い、東電から賠償金を貰っている。なんで「わがままばかり言っているのだ」。
県民間の「カネ目」の話がすでにして出ている。

なんとも「やるせない」話しなのだ。

明日は内閣改造。環境相も復興相も変わると言われる。昨日がタイムリミットだったのだ。福島県選出議員の“運命”も決まる。
知事選候補問題は“すっきり”する。

一応の“決着”。雄平は知事選には出ないだろう。疲労困憊を理由に。後事を誰に託すのか。
内堀副知事は腹心なのか。気ごころ知れた仲なのか。

まさか“後継指名”はしないと思うが・・・。

福島の、双葉郡の将来を予測する術は無い。未来は語れない。

ひとつだけ言えるのは「常に時代の翻弄されてきた地域」という認識だけ。

新聞の社説はもっともらしく書く。
「全国民が共有することだ」と。なんか言葉遊びのような“軽さ”がうかがえる。

福島県民だって“共有”出来ないことを、どうやって全国民に“共有”させられるのか。

沖縄が重なる。そして、地権者の反対が続けば「強制収用」という言葉だって浮かんでくる・・・。

当事者ではないのに「この事」を語る。他人事のように語っている。そんな自分の“軽率”ぶりを承知しながら。

2014年9月1日月曜日

「学びて時に之を習ふ」

「学びて時に之を習う、また説(よろこば)しからずや」。論語の冒頭、学而編1章にある言葉。

勝手に解釈している。学んだら、そのままにしておかないで、時々はそれを習う、復習する、考える。それが大事であり、“よろこぶべき”ことなのだと。

だから、この後に続く、「朋あり遠方より来る・・・」も、その友とは一緒に学んだ人達ということだと思っている。その友と学んだ事を語り合えることが楽しいと。

「知る」ということは学ぶということの基本だ。知ったら忘れないように刻みこむ。そして考える。

新聞の歌壇の一句を借りる。

広島の人が詠んだ句だ。

「広島に育ちて毎夏ヒロシマを学びて思う“知らぬということ”」。

あの悲惨な体験をした広島の人が、あらためて「知らぬ」という思いを発すること。

東北の被災3県の子どもたちが、福島の子どもたちが、体験したこと。知ったこと。知らなかったこと。
子どもたちが何を学び、何を常に考えているかということ。

特に福島、そこは、国の中にあって「知らぬ」という認識に置かれていくのではないか、いや、現在進行中かもしれない・・・。

今日は防災の日だという。記念日好きのこの国の人達は、この日に合わせて、「防災」のさまざまな催しを行う。

なぜ今日が防災の日か。大正11年だったか。関東大地震があった日だからだ。

首相官邸には防災服姿の閣僚や関係者が集まり、中央防災会議を開き、首都直下型地震が起きた時の対応を話し合ったという。

緊迫感皆無の集まりにも見えるのだが・・・。それは「僻目」なのだろう。

「備えあれば憂いなし」って諺にもあるくらいだから。

“天災は忘れたころにやってくる”。寺田寅彦の名言を3年前、何回見たことだろう。誰もがそれを引いて、あの日の事を語り、つぶやきしていたが・・。

今日は暦でいう二百十日だ。自然災害が多い時期とされてきた。

広島の大惨事。「山津波」と言えば分りやすいか。広島の光景は3年半前の南三陸一帯の光景と重なる。デジャブ観を伴って。

海が怖いからと言って、山や内陸の町に引っ越しても、そこでは、土砂崩れや洪水が起きる。
どこへ行っても自然災害からは逃れられない。

想定外の豪雨だったとされる。たしかに想定外だ。でも、それは「通用しない」ということが、三陸でも原発事故での“証明”された。
先人が鳴らした「警鐘」だって数多くある。
それらは、みな「忘れられて」いた。知ってはいたけど、生かされなかった。“習って”ないからだ。

日本は自然災害がつきものの国だった。その荒ぶる自然といかに折り合いをつけて生きていくか。先人たちは様々知恵を絞った。しかし、それらの多くは経済成長と共に「忘れられて」来た。

砂防ダム。現代文明の一つの知恵だ。しかし、それですべての山津波が防げるのか。巨大防潮堤で、海嘯を防げるのか。

自然災害からは逃れられない。逃げることしかない。避難とは、逃げることだ。

東北の地に、それを想定した国土計画が施されていたら、逃げ道は確保されていたかもしれない。
原発事故がその逃げ道さえ「知らされなかった」。

福島県民のあの時の「逃避行」・・・。

原発再稼働。避難手段は、避難先は、避難経路は・・・。それが確保されているかどうかは、再稼働認可の条件では無いという。

防災会議。全国規模の防災運動。そこで、原発避難に関わる“防災”が討議されたのかどうか。

東京の世田谷に親戚がある。そこへ行く途中、蛇崩れというバス停がある。地名がある。
「大昔、そこには蛇のように蛇行した川があって、大雨でそこが崩れて災害があったとこなんだよ」。昔、そこの祖母が教えてくれた。

自然災害の「歴史」は、どこかそこの地名とも関わり合いを持つとも言われる。

先人が付けた地名こそ、最善の「防災」思考につながるとも思えてみたり・・・。