2014年9月15日月曜日

「敬老の日」だと言う・・・。

老人を、老を敬う。敬老の日。そういった意味なのだろう。
国民の休日だという。祝日だという。
まことに「実態」の伴っていない祝日だと思う。

この日一日年寄を敬えばいいということにも思える。この日だけは、なんとなく「空気」が老人をちやほやし、あとの364日はそうではないと感じるような。

年齢から言えば、年寄だ。老人だ。そであるがゆえに、この無意味な祝日、風潮を嫌う。

たいした根拠もない、いわれもない祝日。
子供の日は端午の節句だ。成人の日は元服だ。敬老の日って・・・。

この日に合わせて、地域によっては敬老会なるものが行われる。幸か不幸か、わが地域には無いようだ。あるかもしれないは御誘いは無い。もちろん仮に呼ばれてもいかない。“偉い人”の挨拶を聞かされ、仕出し弁当を食って、近所の子供たちから“慰問される”。

テレビはこぞって「元気なお年寄り」をもてはやし、長寿の秘訣を言う。毎年恒例の“光景”。

敬うのだというなら、本当にそう思うなら、年寄の言うことを聞け。年寄から学べ。
永年生きてきた知識と経験を持っている。

歳をとれば、体力、気力とも落ちる。当然の自然の摂理。

施設の在り様含め、高齢者は、どこかで“食い物”にされている風潮。おれおれ詐欺もその典型。

年寄よ、労わられることに安住するな。当然と思うな。年寄が若者に教えることは多々あるのだ。あなたにしか語れないことが。

津波で祖父を亡くした孫が家業に専念することにしたという。漁師だ。
「おじいちゃんが生きているうちに、教えて欲しいことがいっぱいあったのに」と彼は言う。

何歳からを高齢者というか。国の感覚では65歳以上だという。

政府は必ず、子どもの日には子供の数の統計を発表し、その推移を語る。
敬老の日に合わせて高齢者人口を発表する。
65歳以上が3269万人。75歳以上が1590万人。人口の8人に一人が75歳以上だといい、社会への警鐘を鳴らす。

75歳以上は「後期高齢者」だとされる。健康保険、運転免許。社会的に「区別」される。

悠々自適。ある時期作られた戯言だ。自営業はたとえば息子に家業を譲る。いわゆるサラリーマンは定年と言う大きな壁がある。
年金では食っていけない世の中、これからはもっと酷になるであろう老後の生活。

多くの老人が就労意欲を持っている。しかし、特別な場合、特殊な場合を除いて、老人は一般社会から排除されている。若者にすら就労がかなわない社会。老人に用意されている席は少ない。

そして問題視されるのが高齢者の一人住まい。孤独死につなげる問題。高齢者の単身所帯は552万件あるのだとう。
世の風潮は「孤」を社会悪のように伝える。「孤」はかんばしくないことなのか。

だとすれば、高齢者に求められるのは「孤」と向き合う、「孤」と共存する訓練なのだ。

たしかに、にわかに物忘れが激しくなった。体力も衰えている。重いものも持てない。気力の減退している。記憶力も。
でも、まだまだ知りたいことが山のようにある。若いころ学んだことをもう一回取り戻したい。明治と言う時代を自分の中で、自分なりに消化したい。
昭和と言う時代、あの戦争があった時代、あのころの、いわゆる知識人階級が何を考えていたのかということも。

読み切る時間があるかどうかわからぬまま、ひたすら本を買い込んでいる。勉強したいことがまだまだあるという欲望。

病をもっていようといまいと、高齢者は、かなう限りの「知的高齢者」であって欲しいと思う。自らを“弱者”に置くな。
孫の世代に伝えること、教えることは多々あるのだから。面倒臭いけどやらねばならない仕事なのだ。

世俗を離れるな。世間に対して、常に批判の目をもて。牙を抜かれるな。怒れ。

敬老の日とは、なにか贈り物をもらって喜んでいる日ではない。引っ込んでいろとされた老人が、俺が言わねば誰が言う。そんな“覚醒”の日であって欲しいとも思うのだが。

また吠えてしまった。この暴走老人が。おやかましゅうございました。
少子高齢化という大きな社会問題を抱えているということは百も承知の上で。

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