2014年9月22日月曜日

罪なき者、石をもて打て

「斜め読み」してみると、朝日新聞は相当委縮しているようだ。「つまらない新聞」になってしまったという印象をぬぐえない。

吉田調書、吉田証言をめぐる“不始末”。

朝日新聞の社内事情を詮索する気は無いし、ある意味無意味だ。
安倍政権との“確執”。有り得ることだ、あってもいいことだ。

同業者、雑誌。同じメディアの中からの非難、攻撃も激しい。
安倍自民党は「朝日潰し」の躍起となっている感ありだ。

朝日新聞の罪は罪。いかなる叱声にも耐えなければ、正さねばならない。

朝日新聞潰し。権力の圧力、統制。

それはいつ何時(なんどき)他紙に及んでくるかもしれない。

かつて安倍が官房副長官だった頃、NHKの「従軍慰安婦問題」をとりあげた番組に牙をむいた時のことが想起される。
当時の担当局長は福島総局長を経験した伊藤律子さんという人。ちょっとだけ経緯を聞いたことがある。ほとんど詳しくは話さなかったが。

従軍慰安婦問題を巡る“誤報”。それに関する批判の嵐。政権にとって問題なのは吉田調書ではない。吉田証言なのだ。

その中にあって、本人の意向をよそに、大きなファクトとされたのが池上彰のコラム掲載問題。

池上はいきなり「時の人」の担ぎ出される状況になった。

その池上が週刊文春に面白い記事を書いた。やんわり文春も含めての“批判”。まさか文春が掲載拒否は出来まい。

彼が引用したのが聖書の言葉。

ヨハネの福音書の一節。

律法学者たちが姦通の罪で捉えた女をイエスの前に連れてきた。律法はこうした女を石で打ち殺せと命じているがどうするかと。
イエスは答えた。その問いかけの裏には自分に対する迫害があることを承知の上で。

「あなたたちの中で、罪をおかしたことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と。これを聞いた者は、一人また一人と立ち去り、女だけが残った。 イエスは女に、「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と諭して。

人間が人間を裁くことの限界を示す言葉としてがよく引用される一節だ。

他紙のも「誤報」はこれまでいくつもあった。彼の古巣NHKでも“事件”があった。それらを含めて、メディア全体に「警鐘」を鳴らした。

安易に朝日を批判攻撃して事足れりとする「空気」への“抵抗”。

イエスの言葉を身近なことに置き換えてみる。

東電に石を投げる、石で打つ資格のあるものは誰かということ。原発に関して、罪なき者は誰かということ。

安倍官邸の巧妙とも思えるメディア戦略。国会喚問まで言い出す。朝日は甘受しなければならないことなのか。

政権対朝日。その争いの中に「巻き込まれた感」のある池上。彼が政権に組するこてゃあるまい。
しかし、彼がこれからどういうスタンスで論陣を張るのか。

芸能人の前で「いい質問ですね」って言っている場合じゃなくなるのかも。朝日新聞をめぐる動き。そこにイエスは存在しない。イエスは口を開くまい。

神の裁きか、紙の裁きか・・・。

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