中間貯蔵施設の受け入れをめぐり、昨日、福島県知事と建設予定地の大熊、双葉町長が官邸で安倍と会談した。
首相動静を見る限り、“会談”に要した時間は8分間。
雄平は持って来た紙を“たどたどしく”読み上げる。ゆっくりと。苦渋の決断だという。苦渋の決断。もう聞き飽きた感がある。それこそ”消費されつくした“ような言葉。
安倍は神妙な顔をして聞いている。
午前中にあった石原や根本との会談含め、県側の言い分はこうだ。
「30年以内に汚染土を県外で最終処分する法案の成立。
3010億円の交付金の予算化。
搬入ルートの維持管理や周辺対策の明確化。
施設と輸送の安全性の確保。
政府が県と大熊、双葉の両町との間で安全協定を結ぶ」
安倍の答えは「苦渋の決断と十分認識している。皆さんと一丸となって福島の復興に全力を尽くしたい」。
最終処分場の事には触れられなかったみたいだ。
8分間のセレモニー。事前の打ち合わせ、お膳立て通りのやりとり。
ま、世の中そういうもんだけど。
県も二町長も言う。建設を受け入れただけで、搬入を受け入れるかどうかは別の判断だと。搬入は容認していないと町長は言う。
町民感情を踏まえた上でだ。
そもそも、この話は、最初から論理としての筋が通っていない。仮置き場は中間貯蔵施設できる3年をめどに作られてきた。
最終が無いのに中間だけはある。この話自体が可笑しいのだ。
搬入は認めて訳ではないと言いながら、搬入のルートや安全性が話し合われている。搬入が前提の事が。順逆とでも言おうか。
これから「住民説明会」があるという。用地提供を絶対拒否とする地権者も当然出てこよう。それらの説得材料はただ一点。30年間我慢してくれ、最終処分場は「ここに」決まっているから。30年という将来の事への現実味のある、法を伴った最終処分場の明示なのかもしれない。
不可能なことはわかっているが。
住民が危惧しているのは、なし崩しの最終処分場なのだ。
いささか情緒的な事を言う。双葉郡はかつて「東北のチベット」と言われた。
そこに住み着いた人達は開墾し、潤し、自分たちの地としてきた。
土地に対する愛着。どこかパレスチナ問題とも絡むような。
その「感情」を政治では埋められない。
フレコンバッグが積まれた仮置き場を持つ県中の人達は、「中間」の目途がたったことを“歓迎”する。それとて当然なのだ。今のまま放っておくわけにはいかないのだから。
3010億円を貰い。県から150億円を貰い、東電から賠償金を貰っている。なんで「わがままばかり言っているのだ」。
県民間の「カネ目」の話がすでにして出ている。
なんとも「やるせない」話しなのだ。
明日は内閣改造。環境相も復興相も変わると言われる。昨日がタイムリミットだったのだ。福島県選出議員の“運命”も決まる。
知事選候補問題は“すっきり”する。
一応の“決着”。雄平は知事選には出ないだろう。疲労困憊を理由に。後事を誰に託すのか。
内堀副知事は腹心なのか。気ごころ知れた仲なのか。
まさか“後継指名”はしないと思うが・・・。
福島の、双葉郡の将来を予測する術は無い。未来は語れない。
ひとつだけ言えるのは「常に時代の翻弄されてきた地域」という認識だけ。
新聞の社説はもっともらしく書く。
「全国民が共有することだ」と。なんか言葉遊びのような“軽さ”がうかがえる。
福島県民だって“共有”出来ないことを、どうやって全国民に“共有”させられるのか。
沖縄が重なる。そして、地権者の反対が続けば「強制収用」という言葉だって浮かんでくる・・・。
当事者ではないのに「この事」を語る。他人事のように語っている。そんな自分の“軽率”ぶりを承知しながら。
2014年9月2日火曜日
登録:
コメントの投稿 (Atom)
地に墜ちた「天下のご政道」。
菅義偉という“無能”な政治家が、何かの手練手管を使ったのか、とにかく内閣総理大臣という「天下人」に昇りつめた。 最近の総務省の役人を菅の長男による「接待疑惑」が報道され予算委でも疑惑がやり玉にあがっている。長男が勤務している「東北新社」の名前を久しぶりに聞いた。 創業...

-
1945年6月6日。沖縄根拠地隊司令官の太田實中将は本土の海軍次官に宛て打電した。 “本職の知れる範囲に於いては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、僅かに身を以って軍の作戦に差し支えなき場所の小防空壕に避難、...
-
東日本大震災から8年だ。毎年考えて来たのが「復興」という言葉、その事象。 未だもって、「復興」を言う言葉には“わだかまり”があり、自分の中で“消化”されていない。納得できる“回答”を持っていないのだ。 今も「3・11」は続いている・・・。 勤労統計の“偽装”は、この国の根...
-
昔、佐藤栄作が内閣総理大臣だった時、官房長官をつとめていた人に橋本登美三郎という人がいた。富ヶ谷に大きな家を構えていた。 富さんという愛称で呼ばれていた。茨城県選出の議員。もともとは朝日新聞記者。南京支局長の経歴もある。 富さんの後援会は「西湖会」と言った。富さんは朝日新聞...

0 件のコメント:
コメントを投稿