2011年9月6日火曜日

数字が世の中を物語るということ

まもなく大震災から半年を迎える。メディアは様々な形で「特集」を予定している。折にふれ、刻んでいかなければいけないことは語り継がれねばならないのだから。

多分、「特集」の冒頭では何人の命が奪われ、何人がいまだ行方不明で、何人が避難生活を余儀なくされており・・・。そんな入り方をするのでしょう。

なぜなら、数字の大さが、そのことの被害の大きさを物語る尺度として用いられるから。

今日も懸命の搜索活動や復旧が行われている紀伊半島付近の大災害。日が経つに従って増えてくる犠牲者の数。

その数が「災害の大きさ」を物語る根拠となる。

数字、数字なんです。

野田内閣の世論調査。数字。支持率はおしなべて60%前後。政党支持率も民主回復、自民下落。予想通り。

何をもって「支持」の評価基準としたのか。泥鰌や泥まみれが受けたとばかりではなし。菅への反感の裏返しか。何をやるのか、何かやったか。それも全く無い中での世論調査なるもの。

この一種の「妖怪」のような調査数字が、これからのいろんなことを推し量る、報道のスタンスを決める大きな尺度となる。この数字から政治が始まる。

政治かもメディアもこの数字に振り回される。


放射能の測定値。これほど、日々の生活を振り回した数字は無い。ベクレルだ、シーベルトだ。学者が泣いたり、怒ったり。数字を計測の日々。大気から土壌から農作物まで。
「国の基準は信用できない」。それじゃ何を信用する。自分たちで。結果、安心基準は限りなくゼロの世界。

新聞紙面には、もう、お決まりのように地図と数字。定点観測地の数字。テレビも同じ。「単位はミリシーベルトです」って、どこか投げやりにも思えるような。
そして、各地の実測値と、かけ離れている数字。県や市、挙句、国のホームページでも見られますと。ホームページの数字追いかけていたら何時間かかることやら。妄言。パソコンの電気代が・・・。
パソコンがどこまで市民生活に浸透、普及しているのか。「公開してます」って“責任逃れ”のようにも。

生活保護受給者が203万人になった。被災地の失業者が、求職者が6万人異常になった。ハローワークでの就業率は20,5%の13,017人だ。

毎日が数字、数字。数字で全てを割り切ろうとするかのような。数字で全てを表現しようとしているかのような。
数字に「支配される」世の中・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...