2011年9月10日土曜日

さまざまな「自由」

経産大臣になった鉢呂って男、いつも目玉がきょろきょろ動き、さながら金魚のように見えて仕方がない。せめて政治家としての立ち位置はきょろきょろしないで居て欲しいが・・。

明日であれから半年。はっきり目に見えて変わったのは内閣の顔ぶれだが、無策のままでいくのではないかという危惧が拭いきれない。

その鉢呂が言った。「原発周辺の市街地は人っ子一人いない死の町だった」と。
今更いわれなくてもわかっている。半年前から「死の町」だったのだ。死の町にしたのは誰だ。死の町とは再生が無いということか。
翌日陳謝したというが。あげく「放射能をうつしてやる」とも言ったとか。
何を言うのも自由なんでしょうが。所詮、この程度の認識の男かと。
こいつらに委ねている“運命”が悲しすぎる。

「死の町」から逃れて全国をさまよう、そこで生きてきた人たち。県外移住者は増え、「再生」の見通しは全くない。およそ放射能を“感知”するところから人々はどこかに安全だと思うところを求めて逃げている。
移住は東京にまでも及んでいるという。東京も「縮む」と言う。

福島の農家支援のため、福岡市内で開店予定だった産地直送品の販売店が、出店を取りやめた。「九州に福島の物を持ち込むな。車も入れるな」。そんなメールや電話が相次いだからだという。

福島県産品を買う、買わないは「消費者」と言われる人の自由なのだ。

基準値以下でも放射能のあるものは一切嫌だと判断して行動する自由もある。一方、生産者を苦しめる非理性的な行動だと批判する自由もある。両方の自由を認め合うことが大切だと放射線防護学の大学教授が語る余りにも「評論家」的な、新聞の社説的な自由論。

放射能以外にも、いろんなリスクがある中、福島県を離れた家族の決断は尊重されるべきだが、住み続けることにした家族の判断も尊重されるべき。外の人たちの、「福島県から離れることが正しい」という声を、「あなた方は間違っている」という非難と受け止め、苦しむ福島の人たちのいることも気に止める必要がある。

ツイッターで見た投稿。

どういう判断をするかは自由。責任を伴った自由なのだ。それを「とどまっているのは間違った判断」と、その決断を無責任であるかのように一蹴する学者。抗議すれば「言論の自由」だと開き直る。

半年が経って、福島排斥と言えるような「空気」が台風被害を助長する湿った空気のように列島に張り出してきている。

電力制限令が解除された途端、「原発地域の奴らは東電の金でいい思いをさんざんしてきたんだ」。そんな、したり顔で“実態”を声高に語る、死の町を語るサラリーマンが都会の居酒屋でビールを飲んでいる光景ありと東京の友人が伝えてきた・・・。

誰がどこで何を言うかはもちろん自由だけど、無責任な自由、人の心を傷つける自由も“保証された権利」なんだろうか。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...