2012年3月31日土曜日

終わった・・・・

3月31日。2012年。震災の影響で延期されていたテレビのアナログ放送受信。被災3県。

その瞬間を見届けました。目に焼き付けました。
「アナログ放送は終了しました」のテロップ。リモコン押すと民放は早や砂嵐・・・。終わりました。亭主の身近でも。何故か悲しいです。

たしか中学生だったか。新宿の西武新宿線の駅前にあった街頭テレビに見入っていました。野球だったか、プロレスだったか。

友達の家にテレビが入りました。靴屋のキンちゃんの家。プロレスを見に、近所の人が集まっていました。小さい画面に目を凝らしていました。

高校の時、友達のゴンの家にはテレビがありました。ビロード状の覆いがあり、棚の上に鎮座していました。毎日のように彼の家に遊びに行きました。テレビを見たかったから。

やがて我が家にもやっとテレビが来ました。家族総出で拍手で迎えました。まだ放送時間は短かかった。

ローハイド、拳銃無宿、アンタッチャブル・・・。白黒の外国映画にはまっていました。ベンケーシーもいたっけ、エリオットネスにあこがれたっけ、ジョシランドルって名前覚えたっけ。ララミー牧場、あ、それはローハイドだったっけ。

やがて、大学を出て、テレビの仕事に就きました。フィルムからVTRへ。テロップは全部手書きだった。今はパソコン。

カラー化で大騒ぎでした。

小中陽太郎さんは「機械仕掛けの玉手箱」と呼びました。大宅壮一さんは「一億総白痴化」と評しました。

福島に来て、デジタル化への“体験”をしました。デジタルの勉強もし、理論武装もし、監督官庁ともやり合いました。

無職徒生世の身になってからたびたび繰り返されてデジタルキャンペーン。タレント使い、局の女子アナに白いスーツを着せての“デジタル大使”。

デジタル化でテレビはどう変わるか。そんな講演にもずいぶん行きました。
メリット、デメリットの論理的問題ではなく、それこそ情緒的に完全デジタル化に“懐疑的”な感情を持ち、テレビの有り様を考えました。

とにかく終わりました。アナログ放送。「アナログ」という言葉は、今日から過去の言葉とされ、古いものの代名詞とされるのでしょう。もっとも、以前からもそういう風潮はあったけど。

知人にいます。デジタル化してない人が。一人暮らし。テレビが唯一の「オトモダチ」。その人の受像機は健在です。チューナーでしのごうと思っている。でも、そのチューナー工事が間に合わない。数日間、その人はデジタル難民になります。

被災地の光景。今の。公共施設や“残った”家の光景。どうみても置いてあるテレビが雨姿ではなく、アナログ専用のようです。デジタル波が届かない地域も散見されます。カバー率100%にはいかないのです。

とにかく今日の正午、テレビは一つの時代を完全に終えました。複雑な心境です。
高速道路の無料化も今日で終わりです。特別な地域を除いては。

雨が降っています。風も強いです。アナログ画面の砂嵐とシンクロしてきます。
はい、亭主はちょっと感傷的です。

2012年3月30日金曜日

CMに“乾杯”

この話は、多分、去年も書いたと思う。それを繰り返し、続きを書く。

CMは文化である。一応、民間放送に身を置いていた者として、それは、よくも悪しくも「文化」であると思ってきた。思っている。

去年、3・11以降、民放はCMを止めた。ノーCMは最長72時間続いた。

そして登場してきたのが、あの、ACC公共広告機構のCM。「ぽぽぽぽ~ん」。
アニメーション。犬が、ワニが、ウサギが・・・。挨拶するたび仲間が増えるよ。

当時は、あのCMを毛嫌いした。厭だった。なんでACが、なんで、こんな説教くさい・・・。

でも、あれは、悲惨な映像が、苦しむ人々が映し出される連日の「ニュース」の中で、もしかしたら、一服のお茶。間だったのかもしれない。張りつめているこころにちょっとゆとりを与えるような。

そして今は、あれが懐かしいとさえ思えるようになった。あの悲惨な出来事と表裏一体のもののような錯覚。

でも、あのCMが「絆」なんていうおかしな合言葉だけを与えることになったのかもしれないとも。

ACのあと流れ出したCMの中で秀逸だったのがサントリーのCM。サントリーのCMに登場したことがあるタレントや歌手71人が皆で一斉に歌っていた。
自然発生的に生まれたのだという。ノーギャラでの出演。
「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」。坂本九が歌った歌。昔、聞いた逸話。あの二つの歌は東北地方への応援歌だということを思い出していた。
そして、そのCMを聴く度に泣いた。何度も泣いた。

そして、塾生たちと一緒に、長淵剛の歌とともに歌った。泣きながら・・・。

CMはキャチコピーも含めて、その時代を反映し、優れたメッセージを送り、その時代を短い時間ながら、鋭くえぐる。

トリスを飲んでハワイに行こう!。そうその頃はハワイ旅行は♪あこがれのハワイ航路♪。夢だった。

おお、モーレツ~~。ガソリンは経済成長の原動力だった。

そして、モーレツからビューティフルへ。価値観の変化。

醜悪なCMは、その時代が醜悪であるということの象徴。

そして2012年春。サントリーがまたまたぶっぱなしてくれた。めったに見られないが90秒バージョンのCM。

木村拓哉と香取慎吾の二人に、過去の名優が映像で次々登場する。昭和から平成へと。

当時の世相を映した映像に、二人がオーバーラップし、いいセリフを繰り出してくる。バックに流れる音楽はビートルズのヘイジュード。

「ある人が言った。日本の成長はビールとともにあった、と」
「経済が発展するにつれて、日本中の人たちが、ビールのおいしさを知り、暮らしのいろいろな場面で、ビールを楽しむようになった」。
「でも、時代は変わり、いつしかビールは仕事のストレスを流すためのものになってしまった」。「たしかに仕事の後の一杯はうまい」。
「でも、それは、本当のビールの居場所ではない」。
「そう、ビールは大切な人と飲むほうがもっともっとうまい」。
「人と人とを繋ぎ、時には勇気づけ、時には慰め、幸せを後押して、何気ない日を輝かせる。それが本当のビールだ」。
2012年春、ニッポンにもっと輝きを。

このCMも“応援歌”だと思う。時代は変わったのだとも。

ビールはエビスが好きです。たしかにうまい。サントリービールはあまり好まない亭主。
でも、時々はサントリープレミアムモルツを買ってこよう。それが置いてあり店では飲んでみよう。良いCMに乗せられてみるのも悪くはない。

くだらない政局に乗せられないよう注意しよう(笑)

2012年3月29日木曜日

「虎ちゃん」からお返事が来た

今月11日。そう、"あの日"を迎えて。僕はこのブログに書いた。

「去年のこの日に生まれた虎ちゃんへ」という一人語りを。

仙台市に住むという瀬川虎ちゃんという2011年3月11日生まれの男の子を主人公にして。

虎ちゃんに言葉を贈った。「ひこばえ」「ゆずり葉」「銀の匙」。

その“記事”を虎ちゃんのお母さんが、何かで見た、読んだらしい。それのお礼のメッセージが届いていたのです。FACEBOOKのメッセージ欄に。

その「虎ちゃん」からのメッセージを発見した経緯はこうだ。

FB仲間に作家の鐸木能光という人がいる。川内村在住、いや「だった」人。
「3・11」後に書いた本が「裸のフクシマ」。力作であり、彼に惹かれた。ツイッターを通じて面識の無い「知り合い」になった。
最近、「3・11後を生きる君たちへ」という本を上梓した。それはまだ読んでいないが。母校の高校は聖光学院。

その彼のリンクを昨夜見た。「FBにメッセージという欄があるが、どうもそこには“友達”以外の人が寄せた物は“お知らせ”として反映されないみたいだ。開けてみたら2か月前のメッセもあり、仕事に影響した」。そんな記述。

で、試してみたのです。メッセージ欄を開けてみたのです。そして、そこに虎ちゃんのお母さんからメッセージがあったのです。3月20日に書かれた。

瀬川虎の母です☆偶然ネットで、息子の事を書いてくださっているブログを読みとても嬉しかったので、コメントを入れようとしたらいれれずフェイスブックで検索したらヒットしたのでコチラからメッセージさせて頂きました。『ひこばえ』『ゆずりは』『銀のさじ〜』どれもちゃんと息子が解るようになったら頂いた言葉だよ☆と、教えたいと思います。虎は元気にすくすくと育っています♫瀬川さんが言ってくれたように、沢山やんちゃして、甘えています♫


うれしいお便り。そして、おそるべしFB。

以前、どっかで読んだことがある。FBもツイッターも6回RTとかリンクシェアされると、大方の“参加者”に伝わるという話を。真偽はわからないし、どうでもいいようなことであるけど、このFBなるものがあったが故に虎チャンと僕は繋がった。
不思議な世界、不思議な世の中だと言わざるを得ない。

だからと言って、僕はFBやツイッターの信奉者では決して無い。むしろ冷やかに眺める“懐疑派”だ。
特に「匿名」が跋扈し、ヒステリックな“つぶやき”をリツイートしまくる人たちには嫌気がさすこともしばしば。フォローを止めた人も何人いただろうか。

ソーシャルメディアを正しい情報源だと信じ、唯一の“メディア”だと思っている人たちがいる。それらは確かに世界規模で広がっているが、それに接することも出来ない「情報弱者」も数多くいる。

古希を過ぎてまで、こんなことやっている亭主は、ある意味「絶滅危惧種」かもしれない。少なくとも、亭主の友人含め、周囲にはそんな人はいない。

要は「使いよう」ということだろうが、虎ちゃんとボクの間をつないでくれたことは事実。しかも、虎ちゃんのお父さんは福島県に多少の縁があったとのこと。

生きている限り、人は、どこかで、だれかと、何かでつながっている・・・。

2012年3月28日水曜日

自然に意志は無いということ

昨夜、久しぶりの緊急地震速報。携帯電話は鳴るし。そして揺れ。一応身構えました。余震は20回もあったという。

季節は巡っても、まだ収まりをみせないのか。地底は。

四季.自然の営み。自然の為せる業。所為。いかんともしがたいもの。
そして、あまりにも漠然とした、壮大な概念でしかとらえられないもの。自然。

言えることは、太古の昔から、人類は自然という呼び名のものによって生かされてきたということ。多くの恵みを受けてきたということ。もしかしたら、自然というものが為すことを、いや、そのものを恵みに変えたのは人類の英知だったのかもしれないが。

地震、津波。昔からあった自然というものがもたらす現象。その現象を人間は、さまざま努力しているものの、把握することは不可能だろう。結果としての現象はあったとしても、意志はないのだから。

自然に還ろう。自然と共生しよう。などなど、人類はさまざまなことを言った。
人間が何をしようと、たとえば草花を踏みつけようとも、咲くときは咲く。

人類の英知とされるものは、その自然の“恵み”をいかにして生活の中に取り入れることだけだったのだと。

だから、それは地中に埋まっていたものだったとしても、それを掘り出し、科学がそれを加工し、核にする。核にした。そして事故を招いた。

原子力発電所の“爆発”。“崩壊”。その事故に自然が関わっていたとすれば、それは自然が意志を持っていない、たまたまその時の現象だった風向き。

あの時、あの瞬間の風向きがどうであったかによって、その後の展開が決められた。

もし、仮に南への強烈な風がふいていたら、多分、首都圏が大量に汚染されていたはず。北西への風が吹く前は南への風が吹いていた。いわき方面へ。少なくともヨウ素は南下したはず。そして北西にはセシウムが飛んだ・・・。

SPEEDIを巡る議論が、未だ盛んである。隠ぺい、未公表から始まって、一年以上たっても。

県に送られていたSPEEDI1のデータが削除されていたという話も最近知った。計測に一時間以上かかるとか何とかで、安全委や学者の間で“対決”しているとも。

その可能性があるなら、それは、やはり、存在を把握出来た時点で公開、公表すべきだった。無用の混乱を生んだとしても。

無条件で30キロ制限をしておいて・・・。

原発はまもなく全機停まる。再稼働・・・ふざけんな。しかしー。
自然エネルギーなることにも違和感はある。風力・太陽光。自然に意志はないのだから、過去の計測値でいえば風は吹くだろうが・・・。常に太陽はさんさんとふりそそぐのか。
意志は無いのだから、自然は答えをくれない。

川内村にも風力発電のプロペラが回っている。住民は騒音と景観が侵されるということで、増設を“拒否”した歴史がある。

その川内村が今度はドイツの会社と提携し、太陽光発電基地を作ることで合意したという。どれくらいの規模の発電施設が、あの農地に中に作られるのか。
産業誘致ということで企業が雇用を創出するから是とするのか。
それが出来ることを理由に帰村を拒む人たちが出るのか。

消費税論議にしても、前提に経済成長率が言われる。エネルギー無しに成長はないと経済界の重鎮は言っている。

まだ成長しないといけないのか。そして、この夏、電力が足りる足りないの論議。電力会社は足りないというにきまっている。

足りないなら足りないなりの生活をするしかない。

こよなく自然を愛し、自然と共生することを選んでいた村。そこに、あの“よこしまなもの”が降った。あの日、風向きは決まっていたのだろう。そこに“よこしまなもの”が入り込んだ。

あの頃、毎日、テレビの天気予報で風向きを気にしていた。西風が吹けばいいと思っていた・・・・。

福島県の沖に洋上の風力発電所を建設する計画がある。漁民は反対しているとか。漁場が無くなるとして。

自然と人間との果てしない関係。誰も正解はもたないのだろうと。

2012年3月27日火曜日

子供たちに教えられているということ

郡山にある児童詩誌「青い窓」。最新号でやっと震災特集を組んだ。
子供たちに書かせるのではなく、子供たちが書きたいと思って書くまで待ったような。

震災後も子どもたちは「言葉」失っていなかったように思う。ため込んでいた胸の内を文字にすることによって、書くことによって子どもたちは“解放”され、次へと向かう。

青い窓の巻頭の詩をお借りする。根木屋小学校六年の清信龍弥君の作品。

「ぼくには夢がある それはマッサージ師になること 三月十一日に震災がおきた だから 役に立てる人になりたい  それが出来なかったら 車を売る人になりたい 車がきゅうにこわれたら すぐに 直せるから
こまっているひとがいたらできるから
ぼくは いろんな人がこまっている時 たすけたり はげましたりすることが
好きだから なりたいんだ まだ震災が終わったわけではない だからたすけたい そう思う だから たすけたい たすけたい」。

清信くんは卒業した。卒業式で校長先生は「はなむけ」に子供たちに詩を贈った。毛利武という詩人の書いた「親から子に伝えたい17の詩」の一編。それを借りる。

                ~名前は祈り~
名前は その人のためだけに 用意された美しい祈り 若き日の父母(ちちはは)が 子に込めた  幼きころ 毎日 毎日 数え切れないほどの 美しい祈りを授かった 祈りは身体(からだ)の一部に変わり その人となった だから 心を込めて呼びかけたい 美しい祈りを

詩を通しての子供と先生とのこころの会話がそこにはある。

再び「青い窓」から引く。桃見台小学校六年の齊藤夏希ちゃんの詩。
          
            ~今、私に出来ること~
今、私に出来ること 家の人の手伝いをすること 地域の人にあいさつすること 節電をすること 毎日を楽しく過ごすこと そしてなにより
東日本大震災の悲しみに負けないこと 今も他県にひなんしている人に
復興のためにがんばっている人に 私達は元気だと伝えたいから
前とかわらない日々を当たり前のことをして過ごしつづける

多くの大人たちは、夏希ちゃんと“往復書簡”を書けるのだろうか。

選抜高校野球。聖光学院が初戦を突破した。福島県民は彼らから元気を貰った。

センバツ。あの言葉も忘れられない。選手宣誓。石巻工業の阿部翔人君。

「宣誓。東日本大震災から一年、日本は復興の真っ最中です。被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も、当時のことや、亡くなられた方を忘れられず、悲しみに暮れている方がたくさんいます。 人は誰でも答えのない悲しみを受け入れることは苦しくてつらいことです。しかし、日本が一つになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に必ず大きな幸せが待っていると信じています。だからこそ、日本中に届けましょう。感動、勇気、そして笑顔を。見せましょう、日本の底力、絆を。 我々、高校球児ができること、それは、全力で戦い抜き、最後まで諦めないことです。今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」。 

仲間と練りに練って読み上げた選手宣誓。球史に残る言葉だろう。

試合後、彼はこうも語っている。
「試合を頑張って、いろいろな客席のみなさんが『ありがとう』と声をかけてくれて、それが一番うれしくて。勝利を届けられなかったのが悔しくて、『ありがとう』と言ってくれたのが、本当にうれしくて、そこで涙が出ちゃいました。自分たちが、石巻・宮城・被災地を明るくできるのは、自分たちが貢献できることがあれば、全力でやりたいと思っている。自分たちがきっかけで、何かが動いてくれれば・・・」。

子供たちに大人は教えられている。毎日・・・。

2012年3月26日月曜日

警察官になりたい・・・

児童や教職員79人が津波に流され、5人が行方不明のままの宮城県石巻市の大川小学校。
そこを卒業した子供。卒業式の後。校舎に向かって誓った。「警察官になります」と。

彼は母親と妹、祖父を津波で失った。「失われた命」を体感した。そしてきっと見たからだろう。不明者の捜索や救助、町の復旧にあたる警察官の姿を。

警察官になるために中学校では柔道部に入りつもりだ。悪いことをする人達、犯罪をする人達に命の大切さを知ってもらいたいからー彼は、そう“志望動機”を語っているという。

我々は見た、知った。被災地や原発現場で事に当たる多くの警察官や消防士、そして自衛隊員の姿を。米軍のトモダチ作戦の姿を。彼らの姿は「美しかった」。それが任務であり、使命であり、仕事であったとしても。

被災地の子供たちに増えているという。大きくなったら自衛隊員になりたい、消防士になりたい、警察官になりたいという子たちが。
「人のために役に立てる仕事につきたいから」「世の中の役に立ちたいから」。それが彼らの体験を通して生まれた“未来”。

震災を体験して、さまざまな経験をして、生かされたという思いを持った子供たちが決めた将来。震災は、子供たちを確実に変えた。何も変わっていなかったのではなかった。子供たちは変わった。

なんとか塾とか、なんとかという集まりでは、しきりに「利他の心」とやらを説く。決して悪いことではないが、説かれなくても、塾に入らなくても、子供たちは分かっている。「人のために役立ちたい」ということを。

「警察官になりたい」。そう願った子供の心を踏みにじっている警察官がいる。己の“欲望”を果たすために、職務を“放棄”し、温泉旅行に出かけ、使命感のかけらも持ち合わせずに怠慢行為をした警察官。殺されなくてもいい命を救うこともせずに、みすみすストーカー殺人を起こさせてしまった警察官達。それを組織的隠ぺいを図っていた警察。

遺族は言うかもしれない。子供たちに。「警察官にはなるな」と。

千葉県警習志野警察署。関係者は”犯罪者“だ。職を辞し、石巻に行け。そして、警察官になりたいと誓った子供の前で土下座して詫びろ。子供の志を、立志を傷つけたその所業の代償はあまりにも大きいのだ。

郡山に金透小学校という学校がある。そこの校歌は一番だけしかない。そして、校歌に題名がある。「立志」。その歌詞。
立てし心し 変わらずば石に立つ矢も ありというつとめはげみて ひろき世のまことの人と うたわれん

石巻小学校卒業生。只野哲也くん。君が「まことの人とうたわれん」ことを願う。

2012年3月25日日曜日

アクロポリスの月

郡山に郷さくら美術館とういう日本の画家の作品を収蔵した美術館がる。
作った人は郡山の実業家。自宅に収蔵していたものを美術館を作って公開したのが約6年前か。
懇意にしていた人の故か、そこに足を運んでいなかった。何回も機会があったのに。

きょう。縁あってその郷さくら美術館に。新たに購入した作品も加えると90点あまり。

作品を見ているうちに奇妙な感覚にとらわれてきた。涙が出てくるのだ。泣いているのだ。なぜだ。
音楽を聴いて泣いたことはしばしばあってけど。絵画で泣くとは。

作家が何かを伝えているのか。見る側の情感なのか。

しばし、その前を離れられなかった作品。
村居正之という人の「アクロポリスの月」。ここにその絵を載せるわけにはいかないが、アテネにあった神殿、宮殿の廃墟。その宮殿の背後の夜空に浮かんでいる月。漆黒の闇を照らす月。

傍らにある「コメント」にはこう記されていた。

夜空を背景に立ち尽くす風化寸前のアテネ、アクロポリスの建物が、
神秘的な月の光に照らされて浮かび上がり、私の心を捉えて離さない。
かつては喜劇や悲劇が上演された円形劇場も、今は静かな眠りの時を迎えている。
夜の聖域は、昼間の雑音や余分な色も消え、静寂だけが支配する冷え冷えとした世界となり、今にも往時の人々が語らう声や奏でる美しい音色が聞こえてきそうな気持ちになる。
ヨーロッパ美術の源流を確かめようとギリシャに渡って以来、何度も足を運んできた。悠久の時を感じ、歴史を映す生き証人ともいえる古代遺跡を、日本画でどこまで表現できるか模索しながら制作してきた。

絵を眺めながら、見入りながら、悠久の歴史とは無縁であろう、被災地の光景がだぶってくる。重なりあう。
津波に流され、無人となった街。津波の痕跡をとどめるむき出しのコンクリートだけの建物の残骸。

被災地のあちこちに見られる光景。まさに廃墟。そこにも月が昇る。漆黒の街と対象的に明るい月が・・・。

アクロポリス。それがあのパルテン神殿なのかどうかはわからない。そこには数多くの人が行きかい、住み、笑い、踊り・・営みがあった場所。

作者の「コメント」を多少置き換えて見れば、古代と近代が“同居”したかのような。

福島県を含めて、被災地のも数多くの文化があった。伝統文化もあった。画家も文学者も輩出している。
その文化を「震災」があったからといって絶えさせてはならない。いや、文化こそが救いであり、心の糧になるのだと。

日々、ままならない暮らしの中にあっても、いまそこにある文化に触れる。そこで何か呼び覚まされるものがあるかもしれない。非日常へのつかの間の脱出が出来るかもしれない。

きょう、パソコンが完全にウイルスに犯された。文明の利器は弱い。文明の利器は、だれかのイタズラによって破壊寸前にもなる。

犯されたパソコンはもちろん遺跡にもなりえない。

美術館にも時々足を運ぶことになりそうだ。その作品に呼ばれているような気にさえなって。

2012年3月24日土曜日

あの話し、その後どうなったんやね

きのう、支援物資のことを書いた。今、「支援物資」はどうなっているのだろう。多くの、大多数の支援物資には、それなりの“善意”が込められていた。手書きのメッセージが添えられていたものもある。無駄なく、それを必要としている人たちに行きわたったのかどうか。

倉庫などにうず高く積まれていたものはどうなったんだろう。もちろんパンなどで消費期限の過ぎたものは破棄されただろうが。

被災地の自治体が他の自治体に、依然として必要な物資を支援要請しているのだろうか。
配布もままならず、眠ったままに、それこそお蔵入りになっているものはないだろうか。

たまたま物資に書かれていたメッセージを頼りに受け取った人と送った人との間に“交流”が生まれたという話は聞いたが。

メディアは一時、支援物資の必要性を伝え続けた。送った人達は、それに対する見返りを求めていないと思う。でも、その物資がどうかなったかは知りたいかもしれない。

「顔が見える支援」。そうした新しい試みが民間で芽生え、支援ファンドが作られた。お互い顔が見える支援。

物資がどうなったか。その結末を伝える記事やレポートをみてみたいような。

どっかの新聞に出ていた「社告」。今月いっぱいで義援金の取り扱いは終わりにするという。

新聞やテレビで呼びかけられた、街頭で呼びかけられ、集会で呼びかけられた義援金問題。
それの配分は、それが問題視されてから、もうずいぶん経ったとうのに、何億円、何十億円と言う義援金は行きわたった、配分はされたのだろうか。

自治体が有効に使っているという報道は見た事あるが、ちゃんと出来たのだろうか。
それに関する後追い報道には出会はない。

「ニュース」は毎日生まれ、毎日輩出される。震災以外にも伝えならねばならないニュースがあることは事実だ。それは必要だ。

「検証もの」も必要だけど、しなくちゃいけないことだけど、多くの善意の行方はどうなったのか。それが、それこそメディアの好む言葉である「透明性」を持ってつたえられなければ、その任にあたった人達が、ちゃんと処理しないと、今後に禍根を残すことは必定かと。

神奈川県の小学校の子供は「被災地が忘れられ始めている」と感じた。その子や友達はチラシを作った。「忘れないで」と手書きした。それをお惣菜屋さんに置いてもらい、包み紙に使って貰っているという。
この子たちに「復興未来行き」の切符をみる思いがする。子供たちの手書きのチラシはまさに未来行きの、諦めない限り有効な切符なのだ。
ちいさいような、そして、とても大きいような「抜け落ちたようなニュース」の存在。

2012年3月23日金曜日

超法規的措置

「3・11」後、ずっと浮かんでは消え、消えては浮かんできていた言葉がある。
「超法規的措置」。

1977年にあった日航機ハイジャック事件。赤軍派の要求に応じて、時の内閣総理大臣、福田赳夫が日本赤軍のメンバーなど6人を釈放、身代金つきで払い、人質を解放させた事件。その時に使われた言葉。そして福田の名言。「人命は地球より重い」。

3・11後。多くの人命が軽んじられている気がしてならない。被災地の話である。多くの支援物資が避難所に送られてきた。食料の炊き出しも。
支援物資は、そこにいる人数分集まらないと配れないと行政は言う。炊き出しには保健所が口を挟む。「食中毒は大丈夫かと」。おにぎりを握る女性たちは、暗に中止を求められたように受け取ったという。暖房の無い体育館で温かいものをとボランティアが炊き出しをしようとすると、「ここは火気厳禁です」と断られたという。

この手の話は前にも書いた。ビッグパレットに差し入れにいった郡山仏教会が数がそろっていなから、不公平になるからと言って受け取りを“拒否”されたという話を。
岩手や宮城の“行政”のあり方、かかわり方についても、行った人から「おかしい」という話を聞いた。

この話、今日の朝日新聞の記者有論というコラムに盛岡総局の木瀬公二という記者が書いていたこと。

またまた懐かしい名前に出会った。木瀬くんは20年以上前、会津若松通信局員だった。何かで親交を得た。いわゆる地方記者である。各支局や通信局を回る。若松の後は、たしか神奈川県の三浦半島のどこかの通信局に転勤してたはず。いつの間にか音信が途絶えていたが。

まさか盛岡にいて震災取材にあたっていようとは。なんともいえない”再会“である。そして相変わらずいい記事を書いている。

彼のコラムはこう書いている。法律や公務員の規律は本来、人が人らしく暮らすための道具であるはずだ。なのになぜ機能しないのか。悩んだ彼は秋田に住む、あの「たいまつ」で有名な元朝日新聞記者、むのたけじさんに聞きにいった。むのさんは即答したという。「人が法律の家来になっているからだ」と。そして、法律を生活の中で、日常雑器のようにがちゃがちゃつかわないといけないと。そして「法律を使う主人公になれ」と。

コラムのタイトルは「法律の家来になるな」だった。

折を見て木瀬くんに手紙を書こうと思う。久闊を叙すとともに、やっと、新聞がこのことを書いたなと賞賛しようと思っている。

この話は被災地の公務員だけの話ではない。また、そうでない人たちもいる。ボクの知ってる限りでも。だから一概に論じたくは無いのだが。

そしてこの話は国についても同じである。国会議員までもが、「家来」になっている。行政府もそうだ。
そして、なにかというと「マニュアル」という言葉を持ち出す。平時に出来た、作ったマニュアルが何の意味も持たないことを、あるいは、それをわかっていてても、それを盾にとって”防御“に走る・・・。東電とて然り。いや東電は、法律を逆に悪用さえしている。しようとしている。

家来か・・・。ボクは誰の家来でもないし、家来ももたないけど、強いて言うなら「自分の家来」かな。

福田赳夫の「超法規的措置」にはいろんな議論があった。今、いろんな意味で人命が軽んじられている事例は山ほどある。

非常時なのだ。超法規的措置があっても少しもおかしくは無いはず。

2012年3月22日木曜日

「名」と「実」と

大阪の泉佐野市が財政破たんを避けるために、市の名前を売りに出しているとういう。企業から広告料をもらう代わりに市の名称を企業名や商品名に変更する自治体名の命名権(ネーミングライツ)売却に乗り出す。ということらしい。

たとえばちょっと前によくあった野球場などを企業の名前を冠に使った、企業名の野球場にしたというようなことか。

泉佐野市という「名」がなくなるのか。市の名前は消えても、そこに住んでいる住民は残る。住民からは反対の声があるという。当然だ。
香川県が「うどん県」と呼称を変えるといった話とどう違うのかはよく分からないが。


くどいようだが、地名を変えることに大きな抵抗感、というより絶対反対の亭主。業平橋駅が東京スカイツリー駅に。業平橋そのものは名称なくならないとおもうが。
「商業主義」っていうのが妥当かどうかはともかく。
かつて、東京本郷の真砂町って名前が本郷何丁目と変えられた時にも激怒したが。
市町村の名前は、やはり一つの「文化」である。その名前の由来がその土地の歴史。

市の町の名前が消えるということ。

福島県。双葉郡の各町村は、「実」としての町村は存在しなくなった。住民がいないから。いつか戻れると思っている人たちは、その町村名を名乗ることによって、あるいは希望の光とし、生きる目標としている。

そんな中出現したおかしな名前。「仮の町」。なんという空虚な響きの言葉か。「仮の町」がじつげんするのかどうかはわからないが、もし、新しい町を作るのなら、せめて「新」という字をつけた町村名、たとえば新富岡とか新大熊とか。
平成の大合併とやらで多くの消えた、消えかかった地名がある。あじもそっけもない地名つけられ。

地名。それは、そこに生まれ育った人たちにとっては、ある意味自分自身なのかもしれないのに。
「名」が消えることの原因が、大合併の原因が、地方財政の問題だとするなら、地方自治って何だろうと。
そして、まのあたりにしている「実」のない自治体が存在していることのいいようのない悔しさ。

2012年3月21日水曜日

本にまつわる「3・11」前後譚

「絆」。嫌いな言葉である。ただ、それをだれが言うかによって好きにもなれる時がある。
選抜高校野球開幕。選手宣誓。彼が口にした絆という言葉は素直に受け取れる。
そして思う。こういう子たちがいる以上、やはり「未来」はあるし、未来を信じようと思う。その礎を築くのは我々大人だが。

「3・11」。もちろん去年のあの出来事。

きのう書棚の整理を試みてみた。1時間でギブアップ。一応読んだ本と未読の物とを整理するのでいっぱいいっぱい。老いとはこういうことか。

そして改めて気付いた。「3・11」の前、なぜか戦争の、戦後のこと、それに関する本をそこそこ買っていたことに。大半が未読。たとえば「それでも日本人は戦争を選んだ」。加藤陽子。「昭和史」2冊。半藤一利。

多分、昭和という時代をもう一回整理しておきたかったのだろう。そこを生きてきた者として。

戦争体験者として、あの劫火の中を逃げまどい、戦後の生活を体験したものとして、あの戦争は何だったのか、昭和という時代を自分なりに検証したかった。
そして、それらの関わる多くの本を読んだ。
たとえば、五味川純平の「人間の証明」。たとえば、松本清張の「昭和史発掘」。たとえば、大西巨人の「神聖喜劇全巻」。

自分の中に語り継ぐ戦争があり、それを理解したい昭和があった。

なぜ、去年のあの時期のちょっと前に、それらの「再検証」をしたかったのか。たぶん、そういう時だったのだろう。

未読のまま迎えた「3・11」。それを理解し、受け入れるために多くの言葉をさがした。詩人や文学者やジャーナリストと称する人たちが、そして宗教家が数多くの言葉を発した。しかし、残念なことに、それらは僕の心には届かなかった。

すべてが、他人事のように聞こえ。

心にとまったのは被災地の人間の発するナマの、訥々とした言葉。それと、言葉を選りすぐり凝縮させた短歌だった。

「3・11」後。災後。手当たりしだいとういってもいいくらいに本を買った。
その多くが、「記録」であり、ノンフィクションであり、大半は原発に関わるものだった。読破したものもあり、途中で投げ出したものもあり。

「説教臭い」ものには辟易させられ。

そして気付く。あるいはどこかにあるのかもしれないが、「3・11」を書いた文学が登場してこないことに。小説が登場してこないことに。
文学者、作家は“沈黙の森”にこもってしまったのか。

小説、文学は物語の中に、著者の限りないメッセージが込められている。ストーリーの展開のの中でつまびらかにされていくメッセージ。メッセージはわずか数行で書かれてもいいようなものだとしても、それが物語として綴られていくことによって、読む者の中に染み込み、刻まれていくものだ。

村上春樹は地下鉄サリン事件をテーマに「アンダーグラウンド」という大作を書いた。しかし、それが完成するまでにはかなりの時日を要したようだ。アンダーグラウンドはやがて1Q84に昇華していった。

多分、文学者が、それを、3・11を書くには、まだかなりの時間が必要なのかもしれない。なぜなら、すべてはまだ進行中なのだから。

もしかしたら、気の長くなるような待ち時間かもしれない。ボクの残された時間の中で、その文学作品に出合えることを待ち焦がれている。

さまざまな意味で言葉が失われてしまったような3・11後。再び言葉を取り戻すための作業をしてくれるのは文学者の、小説家の使命だと思うから。
誰が書くのだろう。ボクはひそかに高村薫に期待している。彼女の思索は深いと思うから。そして、他にもまだまだいるはず。それを書ける文学者が。

2012年3月20日火曜日

彼岸花 揺れる

きょうは春分の日。お彼岸の中日。墓参り叶わぬ身、またもや弟に託して、花を求め仏壇に供え、手を合わせました。手を合わせるという行為。それは祈りの行為なのでしょう。

「右ほとけ、左われぞと合す手の、中ぞ床しき南無の一声」。そんな古い歌がある。

去年のお彼岸の日を思い出します。ほとんどの墓所は墓石が崩れ落ち、惨憺たるありさまでした。それでも、それこそ放射能で「外出自粛」が言われていた頃、倒れた墓石の中に、先祖の霊を弔おうと訪れた人達が数多くいました。

昔からの風習なのでしょうか。生花とともに、風車のようなものを供えます。赤や黄色の紙かセルロイドで出来た風車が、かすかな音を立てながら回っている。風に揺れている。

破壊しつくされた墓石と極彩色の彼岸花。そのコントラストは藤原新也の詩画の世界のようでした。彼の写真が切り取って来た世界。「日本浄土」や「何も願わない手を合わせる」。本の帯に書かれた数行。「愛するものの死をへてたどりついたもの。それは何も願わない ただ、手を合わせる」。

数字で表すことに抵抗感があるものの。1万5千人余りが、いや2万人に及ぶ人達が一瞬にして奪われた命。整えられない死者。
生者は、生かされた人達は、亡くなったであろう、無くなった場所を見つけて花を手向け、彼岸の祈りを捧げていることだろう。

たぶん、きょうは被災地にも穏やか天気があるだろうと。

藤原新也の本。メメントモリ。死を想う。

おそらく、あの津波にのまれて亡くなった人。その後の関連死。その人達はボクとは無関係な人達である。知人という意味では。だけど、その人たちの「死」をあらためて想う。

原発避難地。墳墓の地を追われた人達も、出来るだけその地におもむき、その地に近づき、墓に、またそれに類するものに手を合わせているだろう。
田舎人だから持っているのか。故郷論でも書いたが、墳墓の地が、先祖の霊が眠っているという地。そこはやはり「故郷」なのだ。春、夏のお盆、秋の彼岸。そこで祈り、語ることが生きているものの使命であるかのように。
死者と生者がどういうかかわりを持っていくか。

統治機構としての国が変わっていない中、突然に遭遇した、突然に襲われた多くの死者を見た人、体験した人。その死生観は大きく変わったのではないだろうか。

2週間前、我が家に出入りしていたクリーニング屋さんが突然亡くなった。突然に。その予兆は少しはあったものの。現実としてはあり得ないだろうと思っていた予感めいたものはあったものの。それは彼が亡くなってから、はじめて想起されたものだったけど。

彼が祀られた祭壇に花を手向けてきた。クリーニングに出したままだったシャツを奥さんから受け取ってきた。ビニール袋に入ったそのシャツは、いつもとは違うたたみ様に思える。そしてその仕上がったシャツが、彼が最後に手を触れたものだったのかもしれないと勝手に思ってしまう。そのシャツに手を通す気にはなれない。静かにしまっておきたいと思う。

1年前は崩れたままだった墓所も、大方は復元されている。その“他人”の墓所の前を通る。たしかに、手向けられて彼岸花が、花の使命を全うするかのように、穏やかに揺れていた・・・。

2012年3月19日月曜日

「情報化社会」とは・・・その4

去年の3月12日。東日本大震災の翌日。長野県の栄村でも大きな地震があり、家屋は倒壊し、インフラも壊れ、道路も橋も。甚大な被害。

そのことはやがて若干伝えられるようになったが、世の中の耳目は、完全に東北に向いていた。まして原発事故。栄村の災害は殆ど伝えられていなかったに等しい。
未だもって、栄村に住み続けている人達は、あるいは原発避難民より過酷な状況にありようだ。

福島県でも須賀川市は大きな被害を受けた。藤沼湖のダムが決壊し、いまだ幼児一人が不明のまま。家屋の倒壊も郡山市より甚大だ。旧市内もかなりの被害。しかし、それを伝えるメディアの「扱い」は小さかった。

千葉の浦安の液状化も酷い。放射線は茨城県の一部にも飛散してるはず。事実、農作物への影響も大きく、当然賠償対象になるはずだが。それもあまり伝えられない。

「情報格差」と呼んでいいのかと思う。基本的にメディアは「横並び」である。同じようなところを集中して取り上げる。多くの人の関心を呼びそうなところに目が行く。

栄村の住民はほとんどが高齢者。情報弱者である。発信する術を持たない。

気仙沼の幼稚園の園長先生。園児達と一緒に、屋上で寒さに震え、近くで発生した火災の恐怖の中で地獄のような一夜を明かした。海外にいる息子にメールを送った。短い言葉で数行。海外にいる息子はツイッターを使い、惨状を発信した。拡散されたツイートが東京都の副知事の目にとまり、東京消防庁の防災ヘリが全員を救助した。

情報。そこに含まれる様々な問題点を考える。

逆の視点で見ると。例えば「瓦礫」。例えば「放射能」。伝えられる情報は全国同じである。しかし、それを受け取る側には、よく言われる「温度差」がある。

身近で感じているものと、直接接しているものと、そうではないところで見聞きしている人たちの、情報を受け取ることの温度差、格差。

だから、ボランティアで現地入りした人達は、大方、来てよかったという。自分で接したことによって考え方が変わったという。

少なくとも、あの瓦礫に覆われた町を見た人達は、処理反対などとは言えない。現地を見た人達の“情報”は、メディアの情報よりも、すぐれて真実を伝える。

放射能に関する情報も然り。そこで暮らしている人達。そうでない人達。同じ内容がメディアで伝えられても受け取り方には月とスッポンの違いがある。受け取る側の情報格差。
その差は埋めようがない。

受け取る情報は、情報としては“共有”出来ても、受け取り方にある大きな格差。

震災のずっと前から、「格差社会」とか「無縁社会」とかがメディアで言われて来た。それは“悪”だったはず。
しかし、震災で顕在化した、被災地をめぐる格差を解消するための方途をメディアはさがしあぐねている。

今日は3月19日。からから亭日乗をなんとか再開出来た日。「この国の姿」というタイトルで数日語った。去年の3月19日の記述にも、やはり「情報」という言葉が登場している。そして思う。一年前と一年後と。この国の姿は、根底においてなんら変わっていないような。

2012年3月18日日曜日

「情報化社会」とは・・・その3

今月で被災3県もテレビはデジタル化しないと見られなくなる。
地上波テレビのデジタル化。
そのお題目の一つにあったのが「放送と通信の融合」。放射線量。詳しくは県のホームページをご覧ください。????。
BSのチャンネル数が増えた。そしてテレビ番組のオンデマンドという、いくらか金を払えばパソコンで“再放送”が見られる・・・。とりあえず思いついた二つの事例だが。

「融合」するはずだったのが、「情報」というカテゴリーの中では、両者は時にいがみ合いを演じる。特にネット社会からのテレビへの“役立たない“攻撃。
「4月からはテレビは見ない」と断言する人も。もちろんネット派だろうが。

アメリカでは新聞が大幅な部数減にあるという。ネットですべてこと足れりと。
日本でも、それは、顕著になりつつある。もっともそれは、情報の問題としてではなく、広告媒体としての価値という観点からだが。

その意味ではテレビも視聴者を減らしている。減収。勢いコストカット。何を指すかはともかく“良質の番組”は減った。元テレビ屋としても見るに堪えないものが多すぎる。
そんな現状を知っていながら、世界一高い電波塔を作って悦に入っている。それを東京名所として喧伝してる姿は奇っ怪にすら思えて・・・。

「情報弱者」という言葉がある。いや、そういう言葉が生まれた。デジタル化出来ない場所の人やデジタル化出来ない人。テレビだけが唯一の情報源だ。そう思っている人はまだまだ多い。

スマートフォン、ipad。もちろんパソコンも。高齢化社会の中にあって、それらを情報ツールとして使いこなしている人、それらに信を置き、慣れ親しんでいる人がどれほどいるのか。

例えば仮設住宅。避難所の時は毎日新聞が無料で配られていた。テレビは一台しかなかった。

仮設に移って、パソコンを設置し、情報収集から情報発信から、役立てている人もいる。
知り合いの仮設の住民。高齢者夫婦だったり一人暮らし。その人たちの情報源は、集会所の張りだしと、回ってくる“回覧版”。テレビだけが情報源。事実です。

何をどう伝えたか。新聞やテレビの検証記事や番組が始まるようになった。徹底的に検証してもらいたい。それは、社内の、取材にあたった記者達同士の議論から始めなくてはならない。中央で、本社で書いていた記事と、現場をはいずり回って書いた記事との「乖離」。

テレビも同様。

その時、何をどう伝えたのかの記録ではなく。

これから、「何をどう伝えて行くか」。その論議を徹底的に尽くしてほしい。少なくとも新聞は、「検証報道」や「調査報道」が出来る。

そして内部論議を尽くし、公開して欲しい。これからの情報化社会が成熟していく一里塚として。

そして原発問題にかかわる記事。朝日新聞の「原発とメディア」という連載が試みているように、メディアがこれまで、それをどう捉え、どういう論調で、論陣をはって来たか。とことん踏みこんで、もっともっとやってほしい。そして、「原発」に対する社論を明らかにしてほしい。くだらない政治報道にうつつを抜かしているよりは。

「情報弱者」。それは、ハードだけのことではない。受け取る側のリテラシー問題にもかかわってくる。それを考えると、次の課題が浮かぶ。「情報格差」という課題。送る側も受け取る側にもありうる課題。

2012年3月17日土曜日

情報化社会とは・・・その2

携帯電話はもとより、通信手段が途絶された去年の今頃の避難所。テレビはある“試み”をした。

フリップ状の紙に名前や居場所を書いてもらい、知人や肉親に「安否」を伝える。探している肉親の安否を問い合わせる。いわば“テレビ伝言板”。
皮肉にも、情報機器が大量に出回っている中での、古典的、伝言板手法が有効な情報ツールだった。

やはり去年の今頃。いや、昨日か。福島中央テレビの「情報カメラ」が3号機の爆発の瞬間を捉えた。原発から17キロ地点に据え付けられていた情報カメラ。もちろん無人。郡山の本社でのリモートコントロールで向きを変える。
キー局の日本テレビはそれを使うことをしばし躊躇したというが、結局それを放送した。
情報が入らず、混乱の極みにあった官邸。映像は見たものの、それについてのコメントが出来ない。枝野は会見で言う。「なんらかの爆発的事象があったことは承知していますが・・・」。

あの映像情報が、さまざまな意味で与えた影響は大きい。偶然とは言え、テレビ史に残るものとなった。

ETV特集でやった「汚染マップ」も出色だった。しかし、それは事故後ずいぶん後の話。

原発事故後、テレビも新聞も、政府や東電、保安院の発表を「たれ流す」以外に情報を伝えるすべを持たなかった。もどかしい。そして登場してきたのが「専門家」と言われる数多くの学者。彼らだって「真実」はわからない。すべて推測。安全を言う学者は御用学者と評され、ことさら危険を言う人が珍重され。そして、その学者さん達の言は日替わりメニューのようにコロコロ変わったり。

大量に吐き出され、混乱する、錯綜する「情報」。それらがやがてメディア不信につながり、それは、今も解消されていない。

「匿名」のネットからは真偽取り混ぜた「情報」が。人心はますます混乱する。口コミというメディアが最大の情報とされてみたり。

成熟してない、成熟過程でしかなかった「情報化社会」。その中で起きた原発事故。

事故以前に「マスコミは、もはや政治を語れない」。新聞・テレビからブログ、ツイッターへ。そんな論陣を張った佐々木俊尚しは「キュレーター」をにんじるようになった。キュレーター。学芸員と訳せばいいのか。ある程度の専門知識を持った人が事象を読み解き、解説するということか。

その佐々木氏は最近こう言っているとか。「マスコミvsネット論は撤回する。今後は当事者性vsないものねだり論者という新しい対立軸で論考して行きたい」と。

「情報化社会のリスク」。それに我々は翻弄された。そのリスクをどうやったら回避できるのか。情報リテラシー能力を持てるのか。

「まず、接した情報を疑うことから始めよう」。それは「なぜ、僕は生まれたのだ」という哲学的思考、疑問から解決の道を探るような視点と同様に。

はきだされるすべての情報は、すべてが正しいものではない。立ち止まって考えても間に合う場合が多い。それは、去年のあの緊急避難時のことではなく、今の事であるのだが。

こんなことを書きながら、きょうも、実名、匿名入り交ざったツイッター画面を見ながら、リツイートされた数多くの「情報」に接しながら、「見極め」に頭を痛くしている亭主。

2012年3月16日金曜日

「情報化社会」とは・・その1

情報化社会と言われるようになってから久しい。多くの人が、さまざまな手段で情報を手に入れ、それを以ってさまざまなことを判断していく。高度に文明が進化した社会。

でも、ちょっと立ち止まる。まず「情報」って何なのだろうと。もしそれを定義づけるとしたら・・・。

少なくとも「正確さ」というのがそれに求められている定義の一つではないのかと。

「3・11」後、避難所に満ち溢れていた言葉は、人々が必要としていたものが「情報」。情報が無い、情報が無い。何も目に入ってこない、耳に出来ないということで、パニック寸前の状態もあった。原発情報、避難情報も然り。

通信回線の途絶。それは情報化社会から断絶されてことを意味する。

<ここまで書いて来て、ボクは気づいた。携帯電話が手元にないことに。探したけどない。家に忘れて来た。それだけのことで、すでに、いささかパニック状態になりそうなボクがいる>

ロスタイム1時間弱。携帯はとってきましたが。だからか、この項、本日のアップ遅れました。

携帯電話、スマフォと使っていますが、これとて、広義の意味で情報ツールなのです。

ラジオ、テレビ、新聞、週刊誌、雑誌、単行本、ネット。ネットも幅広い。ツイッター、フェイスブックも含めて。さまざまな情報が、毎日、とんでもない数が飛び交っています。

たまたま、長年、テレビという情報を提供する側に立って仕事をしてきたせいか、情報にはやはり敏感です。

朝起きると、珈琲を飲みながらテレビを見る。情報番組を。いろんなことをやっている。今朝は新ipad。徹夜で並んだ人達を映し出し、まさに狂騒曲が奏でられているような光景。Ipadを情報ツールとしてみるのか、記録媒体ととらえるのか。それも様々でしょうが。それはともかく、テレビを切り上げ、新聞に。日によってざっと目を通すだけもあるけど、じっくり目を通すことも。しかも切り抜きまで。そしてネット。パソコン開いて、いざ・・・。スマフォでは字が小さくて読むのが無理だから。

ツイッター。140文字の範囲内で吐き出されている文字の数々。まともに付き合っていたら、いくら時間があっても足りない。どっかで適当に切り上げないと。しかし、この作業で午前中は終わってしまうのです。

昨日、今日。ネット上でかまびすしかったのが二つの誤報、嘘報、ねつ造記事。悪意に満ちた記事をめぐる様々。

週刊ポストにあった福島県や栃木県の高層道路のサービスエリアに大量に捨てられているという福島県産の土産の話。そして、フリージャーナリストと自称する上杉隆なるものがzakzakに書いた郡山の放射線量にまつわる話。

この手の話は無視するのが一番なのですが、相手にしない方がいいのですが、上杉になるといろいろ問題をはらむ。彼は田原総一朗に“珍重”されている人物だし、小沢一郎の“秘書”みたいなことやってる人物だし。

去年の大晦日、郡山発でやった田原総一朗の朝まで生テレビにも出演していた奴だし。信奉者もいるらしいし。彼を巻き込んで、ネット上でどんな論議やケンカが展開されているかはつまびらかにしないけど。

その記事の一つ一つを、一行一行を取り上げていちいち反論する気にもならないが。悪意に満ちたものとしか言えない。

もちろん、これも無視すればいいことだけど、あれだけネットで駆けめぐると、それ自体が「情報」になってしまうという矛盾というか危険性というか。

報道の自由なんだよね・・・言論の自由なんだよね・・・。

情報という名のリスク。放射線のリスクより高いかもしれない。数日、書いてみることにします。決っしてうっぷん晴らしということでなく。

2012年3月15日木曜日

終わりと始まり・・・3・11後に語る

ほとんど私事のことですが・・・

記憶をたどると、去年の3月15日は原発が最大の“危機”に陥っていた時のような気がする。テレビをメインにして、新聞やラジオ、あと限られたツイッター。それが情報源だったけど。パソコンはまだ使えなかった。

たしか菅が東電に乗りこんで行った頃かと思う。テレビを見ながらひとことつぶやいた。

「この国は終わった・・・・」と。

多くの家や建物が津波で流され、死者や不明者の数が日に日に増えていく。
原発避難民が続出している。その事実を見て「終わった」と思ったのではない。

たまたまその時の一国の指導者が菅であり。うろたえている姿やヒステリックに騒いでいる様子を見て、そして記者会見で彼が発しったメッセージを聞いて「終わった」と思ったということ。

菅だけじゃない。枝野を含めた政権。原子力保安院などの関係行政。すべてがお粗末過ぎた。

統治機構として、それは致し方ないことだと十分承知していても、あまりにも頼り無く、無能なリーダーのもとに置かれているという本能的実感。

そして、県民に対して力強いメッセージも発せず、それこそうろたえる県知事、佐藤雄平。「終わったな」。そんな無力感、脱力感が今も残っている。

東電に乗りこんだ菅が言ったという言葉がきょう、改めて伝えられている。そこにある「このままでは日本はおしまいだ」と言ったという記録。そのこと自体が彼の資質を物語っていると。

我々は、その身を託せるリーダーを持っていなかった。それが「終わり」と思わせた最大の心象的要因。

何をもって「終わり」というかは難しいが、今の、昨日の永田町というところに生息する、我々が選んだ議員さんたちの言動、行動を見るにつけ、「終わった」という感覚は無くなっていない。

昨夜は、久々、緊急地震速報が流れ、携帯が鳴り、津波注意報が流されていた。

終わったと思っていた余震はまだまだ終わっていなかった。

何かをしなければいけない。焦燥感。自分が出来ることを。

自衛隊、機動隊、消防。それらの活躍を見るたびごとに焦燥感が湧く。30キロ圏避難。我が家と原発の距離を思い浮かべている自分。半ば自己嫌悪。

そして一つのことを決めた。書くということ。このブログを、この被災についてだけ書くこと。毎日。

ネット環境はまだ復旧してない。知人のipadを彼の事務所に行って借りて、慣れない手つきでとりあえず書いて送信した。「無事です」と。たぶん多くの人が心配していてくれると思ったから。

そして回線が復旧してから、それは3月19日だった。「この国の姿」というタイトルで書き続けた。書くことを始めた。書いたことはもちろん災害についてだが、私事もあり、メディアへの対応であり、政治への非難だった。

毎日書く。そう決めた。それを始めた。「3・11」前はほとんど戯言だったこのブログを、しばし、怒りの言葉で埋め尽くして行った。

毎日書く。辛い“仕事”。くじけそうになった時もあったけど、体調最悪の時もあったけど、以前は勝手に数日間も書かなかった時もしばしばだったけど。

それがボクにとっての「3・11」後の始まり。そして、それを今でも続けている。それが何の役に立つのかはわからない。単なる自己満足にすぎないと思いつつも。

2011年3月15日。それはボクにとっての終わりと始まりの日だった・・・。

2012年3月14日水曜日

二つの新聞記事・・・。3.11後に語る。

3月11日の読売新聞の一面トップは「編集手帳」という、いつもは最下段にあるコラムの拡大版だった。一部を引用する。

「使い慣れた言い回しにも嘘がある。時は流れるという。流れない時もある。雪のように降り積もる。<時計の針が前に進むと“時間”になります。後に進むと“思い出”になります>。寺山修司は“思い出の歴史”と題する詩にそう書いたが、この一年は詩人の定義にあてはまらない異形の歳月であったろう。津波に肉親を奪われ、放射線に故郷を追われた人にとって、震災が思い出に変わることは金輪際あり得ない。復興の遅々たる歩みを思えば、針は前にも進んでいない。今も午後2時46分を指したままである」。

「口にするのも文字にするのも、気の滅入る言葉がある。“絆”である。その心は尊くとも、昔に流行歌ではないが、言葉にすれば嘘に染まる・・・ダンシングオールナイト。
積まれたがれきは、すべての都道府県で少しずつ引き受ける総力戦以外には解決の手だてがないものを、“汚染の危険がゼロではないだろうから”という受け入れ側の拒否反応もあって、がれきの処理は進んでいない。羞恥心を覚えることなく“絆”を語るには、相当に丈夫な神経が要る。人は優しくなったか。賢くなったか。一年という時間が発する問いは二つ」。

「雪下ろしをしないと屋根がもたないように、降り積もった時間の“時下ろし”をしなければ日本という国がもたない。ひたすら被災地の事だけを考えて、ほかのすべてが脳裏から消えた1年前のあの夜に、一人ひとりが立ち返る以外、時計の針を前にすすめるすべはあるまい。この1年に流した一生分の涙をぬぐうのに疲れて、スコップを握る手は重くとも」。

いいコラムだと思う。そして、社説として大上段に振りかぶったものでなく、長文のコラムを一面に組んだという、まさに、言葉を借りるなら、異形の版立てを評価したい。

しかし、あえて言わせてもらう。昔の歌謡曲ではないが、ちょっと待って、ちょっと待って、プレイバック、プレイバック。
使い慣れた言い回しの“嘘”を書いては来なかったのか。“絆”という気の滅入るような言葉を大きな活字で使ってはこなかったのかと。


そして翌3月12日の朝日新聞。一面。「悲しみを抱いて生きていく」。横に大きく抜かれた見出し。
国主催の追悼式典での遺族代表、石巻市の奥田江利子さんの言葉。記事を書いたのは、南三陸日記をいうコラムを書き続けている三浦英之記者。自ら、南三陸支局駐在を願い出て赴任した記者。
彼は、奥田さんを書くことによって、全体像に迫ろうとしたのだろうか。
奥田さんは追悼文の最後を「戻れるなら1年前に戻りたい」としたいと考えていた。しかし、何回も書きなおす中で、「それはいくら願ってもかなわないこと。今は、今の家族を大事にしたいから」。そんな思いで選んだ言葉が「悲しみを抱いて」だった。

「愛する人たちを思う気持ちがある限り、私たちの悲しみは消えることはないでしょう。遺族はその悲しみを一生抱いて生きていくしかありません。だから、涙を超えて強くなるしかありません」。

悲しみは、いくら時間が経っても消えないのだ、解決しないのだ。

悲しみー。一つの言葉を思い出した。常懐悲感 心遂醒悟」。常に懐に悲しみを抱えていると、やがて自己に目覚め、悟りに近い気持ちになれるというような意味だろうか。法華経にある言葉。

悲感という二文字には、抑圧され、軽視され、屈辱を味わい、断腸の思いをもったやり場の無い怒りという意味が込められている。

まさに悲感の日々が続いていくのだ。

新聞記事。時々読ませるものがある。まだまだ捨てたもんでもないとも。

この話は、昨夜の塾でも使った。塾生各自がどう受け止めたのかはわからないが。
彼らに多少なりとも醒悟の念を与えられたらなと思う。

2012年3月13日火曜日

言葉は”摩耗”されている・・・「3・11」後を語る。

「3・11」の少し前から、積極的にテレビ・新聞に接しようとして、可能な限り、それらを吸収しようとした。見た。読んだ。そして、それらから感じた事を断片的に語って行く。ひとくくりで語ってしまえばそれまでだが、それでは意を尽くしたことにならないし、伝えようとした人達に対して、逆に失礼にもあたるから。

「3・11」。それは多くの言葉を産み、また、多くの言葉を失った。
「絆」という言葉が生まれ、(もともとあったもにだが)、その言葉に生命が吹き込まれたようだった。「日本は一つ」「つながろうニッポン」。
これらの言葉も時間が経つにつれて、その輝きを失ってしまった。

「絆」。3・11の夜、被災地ではロウソクの灯りで作られたその文字が、海辺に輝いていた。悲しくなった。まだ、彼らは、その言葉を信じているのだなと思いと。その「言葉の力」に何かを託しているのだなと思うと。

絆という言葉は、すでにして、摩耗された言葉になってしまった。思いっきり、いいように使い古され・・・。

もし、今年の漢字というのがあるなら、「崩」か「壊」が相応しい。希望を削ぐと言はれるかもしれないが、それが現実なのだから。

被災地から届けられた言葉に感銘を受ける。
海に出て、静かに黙とうする男。かれはつぶやいた。「黙とうはする。だけど、俺は手を合わせない。手を合わせたらあいつは死んだことになる。俺の中では、まだあいつは生きている・・・」。
「合同慰霊祭とか、そういうのあるけど行きたくないな。行かない。一人静かに祈りたい。亡くなった家族もきっとそう思っていると思うよ」。

そして、言葉ではないが一つの形。三陸鉄道の切符。「釜石から復興未来行き」、諦めない限り有効。300円。ただ、泣いた。

数多く、かなりの時間を割いて作られたテレビの特番。テレビのスポット。相変わらず「絆プロジェクト」という言葉があり、多くのキャスターたちが、番組の締めに用意した言葉を発した。
「私たちは忘れません」「風化させてはいけない」「伝え続けます」「あらためてさまざまな事が問われています」。などなど。

用意された言葉は、練りに練られた言葉は、逆に上滑りしているかに聞こえる。
いわばテレビの常套句。

マイクを向けられ、咄嗟に反応して被災者たちの言葉の方がはるかに重い。その言葉に信を置く。

そして子どもたち。親を亡くした子供たちが、内面を覆い隠してつとめて明るくふるまい、けなげに言う。「勉強して消防士になりたい。看護師になりたい。なんでも人の役に立てる仕事につきたい」。つたない表現であっても、それは大人の心に突き刺さる。

摩耗された、大人が発する上滑りな言葉の洪水の中で、子どもたちは“真実”を言っている。

「3・11」が生み出したものがあるとすれば、強い子どもたちが生まれたことだけか。そこにだけ“希望”を見る。

「諦めない限り有効」。その切符そのものは持っていないが、その切符の中に込められたものを300円でボクは買ったつもりだ。そして、その切符を懐の中にしまいこむ。

陳腐で好きではないが、人生という旅。ボクの人生に、その切符を使わせてもらいたいと願う。

2012年3月12日月曜日

“神隠し”の時間と日々。

祭りの後の侘びしさ。宴のあとのはかなさ。そんな想いの今日、3月12日。
去年の今日、ほとんど寝てないまま、テレビに見入っていました。民放のCM無し。L字に区切られたテレビの画面から送られてくる惨状の数々。

それは覚えているけれど、何を食べたか、どうしていたかはさっぱり記憶にありません。数日間の記憶が飛んでいます。

近くの旦那に誘われて水を買いに並んだのは覚えています。それが何時だったのか。公ちゃんが、チカリさんと一緒に、水とカップ麺などを持って来てくれた。それは多分、“今日”だったと思う。

まだ、あらゆる通信機能が回復していなかった。固定電話はもとより、パソコンもダメ。携帯も時々つながるメールだけだったような。

イッセイが多量の水と米、肉と野菜を持ってきてくれた。それが何時だったのか。

壊れたテレビは玄関に放置されたままだった。小さなテレビを大ちゃんに持ってきてもらった。壁のひび割れ、傾いた土台。地滑りした痕跡を物語る塀。壊れたまま散乱している食器の数々。

それらを写真に撮った。たび重なる余震。テレビの緊急速報。それだけな鳴る携帯のアラーム音。

幸い電気はついていた。水道はダメ。数日間。

何かをしなくてはならないと思いつつも、何も出来なかった・・・。

やがて数日経って、物流が動き出し、兄弟や知人から「支援物資」が送られてきて。

携帯電話がほぼ復旧してから、ツイッターには「拡散希望」が踊っていた。

亮介がタイベックススーツのようなものを持ってきた。風呂には何日も入っていなかった。突然、郵便受けに見舞いの葉書。郵便の回復は早かった。

そんな、こんなの断片的な記憶。気がついた時には避難所になったビッグパレットに通う日々。ゲンキ君の日課の散歩も無くなった・・・。

神隠しにあったような時間や日々。

それは昨日まで続いていたのかもしれない。きのうは何事も無く、黙とうを捧げ、所用で出かけた途中に出会った「原発反対デモ」に嫌悪感をもよおし。

メディアが伝えていた開成山球場のその集会。東京から来た多くの人達。それに混ざった、混ざらされた福島の人達。デモの旗には「なんとか労組」が並び。
くわえたばこで歩き、その吸殻を道端へ・・・。

郡山の空間線量とタバコ一箱との線量を比較する気はないけれど。

そして今日。何事も無かったような日になっている。テレビは通常編成に戻っているし。

去年の今日は、締め切りが迫っているタウン誌の原稿が気になっていた。パソコンが起動しないまま、何を書こうか考えていた。数日後届けたが。

そして今日、明日の塾の話の内容を考えている。

きのうまでの数日間、見ていた範囲でのテレビや新聞について、思うところ大なのだ。徐々に書く。

冒頭に書いた「祭」という字。そこには祭祀の意味が多分に込められている。

どう考えても、きのうは、静かに祈り、悔やみ、悼む日だったのだと。東京の銀座、和光の前でも黙とうがささげられた。新宿でも。そして日本各地でも。もちろん被災地各所でも。
開成山球場のシュプレヒコールが、それらと重ならない・・・。

2012年3月11日日曜日

去年のこの日に生まれた「虎」ちゃんへ

平成23年3月11日。去年のこの日。被災三県で約100人の新しい命が誕生している。
本震、余震の中で。迫りくる津波の中で。そして、福島では、数日後には放射能の恐怖がキミたちを襲った。

多くの人の命が失われた中で、新たに誕生した命。母親の恐怖はキミ達に届いているのか。

宮城県仙台市在住としかわからない。新たな命の一人に「瀬川 虎」ちゃんという子がいる。新聞で見た写真。なぜか、不思議に、ボクの子どもの頃によく似ている。瀬川という姓は全国でも少ない。順位でいくと800番台。

同じ姓であっても、虎ちゃんとボクの間には何もつながりはない。係累でももちろん無いし、キミの両親も知らない。

だけど妙にボクはキミの事が気にかかる。写真のキミの顔は不思議そうな表情でレンズを見つめている。レンズに向かって何か問いかけているような。

虎ちゃん、100人の赤ちゃん。満1歳の誕生日おめでとう。キミ達のこれからにはどんな前途が待っているかわからないが、生まれるべくして生まれた、希望の光であり、大きな宿命を持ってこの世に登場した“救い主”かもしれない。

虎ちゃんと見ず知らずのおじさんは、キミに何もしてあげられない。でも、キミの名前は忘れない。

虎ちゃん、そして100人の子供たち。「生まれてきてくれてありがとう」。それぞれのお母さん。「産んでくれてありがとう」。

福島県でも30人の君の“仲間”がいる。そして、君たちに、君たちだけの手作りの椅子を送るというプロジェクトクトもあるという。

椅子は貰ったかい。その椅子は、君が大きくなってからも、座れなくなってからも、君の大きな宝物だ。

きょうはキミ達の誕生日だ。周囲の大人たちを困らせ、甘え、笑わせ、楽しい一日を送るがいい。キミ達の代わりに亡くなった多くの人達のためにも。

キミ達に一つの言葉を贈る。「ひこばえ」。ひこばえとは大きな樹から生まれて来た春の新芽を言う。そして、その樹の根、原点を忘れるなという意味がこめられている。

もう一つ。「ゆずり葉」。老葉が落ちて、若い葉に代わることを言う。ゆずり葉は柏の葉を指すともいう。虎ちゃん、端午の節句には、がんばって、大きな柏餅を食べてね。

西洋のことわざに「銀の匙をくわえて来た赤ん坊は幸せになれる」という言い伝えがある。椅子は作ってあげられないけど、せめておじさんはキミ達に、この文章の上でだけだけど「銀の匙」をプレゼントに贈る。

そして、あらためて、虎ちゃん。ずっと、あのレンズに向けられていた眼(まなこ)で、この世を見ていてね。キミのつぶらな瞳に、よこしまな心を持った大人たちは絶対に負けるから。

そして。一年後の今日も、新たな命が誕生しているはず。

2012年3月10日土曜日

そして明日・・・  3・11へ

去年の3月10日は木曜日でした。だれしもがそうだったように、普段と変わらぬ単なる冬の一日。

67年前の3月10日は東京大空襲があった。瓦礫だらけだった東京は30年後には復興を成し遂げていた。30年か・・・・。

去年の今日、2日前の塾での講義の内容をなんとなく振り返っていました。講義録を書くためにも。
「便利さがもたらしたもの」。それが講義のテーマでした。さまざまな文明の進化によって、我々は、あらゆる、想像しうる便利なものを手にした。豊かさを味わってきた。味わっている。安心・安全な“道具”も手にした。だけど、ちょっと待って。プレイバック、プレイバック。その代わりに何か失っていないか。

なんで引用したのか。夏目漱石の言葉を紹介していました。

「人間の不安は科学の発展から来る。進んで止まることを知らない科学は、かつて我々に止まることを許して呉れたことがない。」

なんとなく、まさになんとなく漠然とした不安を伝えたかった・・・。明日を予見したわけでは決して無く。

午前中、5月に予定されている講演の打ち合わせに東京からわざわざ足を運んでくれた会の運営者と打ち合わせ。午後には、「お悩み相談」受け付け(笑)。

そしてこのブログ書き。呑気なブログ内容です。このブログの主旨の一つだった“酒場談義”。

「ニッコウのから揚げください」「は?」「このメニューに書いてあるじゃないですか、日光の唐揚げって。珍しそうだから」「すいません、そ・れ・は・・・メヒカリです。。」
「なんだメヒカリか、じゃいらない」。
前日、居酒屋で遭遇した光景だったのです。ありふれた日常でした。

夜は誰かと酒を飲んでいました。酔って帰って、風呂入って寝て。

そして3月11日へ。ブログを書き終えて、連載のタウン誌の原稿を書きかけていたところに激しい揺れ・・・。混乱と散乱とにうずもれた神隠しの時間に・・・。

今夜、5月にある新樹会の打ち合わせ。おじさんたちとの酒飲み。新樹会のシンポジュウムの打ち合わせ。

去年は講演会の打ち合わせだった。今年は講演会ではないが、似たような集まりの打ち合わせ。

明日はー。多分何もないでしょう。ボクの周りでは。「祈り」の日にするつもりです。

「あれから一年」。そう銘打ったテレビの番組の数々放送されています。新聞も特集だらけです。テレビの映像とどう向き合うか。同じことのような新聞記事とどう向き合うか。

あの日の映像からは目をそむけたくなります。しかし、可能な限り凝視します。新聞も可能な限り読みます。疲れます。腹も立ちます。

キャスターと称する人たちが繰り出す薄っぺらな言葉の数々。疑問を投げかけるだけ、言葉だけで自己の責任を言うだけ。「風化させてはならない。だから伝える」と。

伝えるということが、それこそ津波のように一斉に同じようなことを、同じような場所で、まるで、それが「当たり前」のように特番を作っていることなのか。特集を組んでいることなのか。

見るのに疲れた人や嫌悪感を催す人は外に出て行くでしょう。広場に向かっているでしょう。それもよし。

しかし、僕は疲れても、辛くても、今の彼らが作っているものを見る。読む。それをしないと、彼らを時には批判し、時には共有するものを得ることが出来ないから。

そして思っています。

とにかく一年。「何にも変わっていない」、「変わらなかった」一年なのだと。明日から何か始まるのでしょうか。あすからがメディアの本質が問われる。それをわかっていてくれる人たちが必ずやいることを願うのです。

2012年3月9日金曜日

そして、「倚りかからず」。 3・11へ

「3・11」後、しばらくして、一冊の本を、詩集を捜していた。あの地震で書棚は倒れ、部屋中の散乱した本を、とりあえず棚に戻した。乱雑に。

本は、その日以前とは、すっかり、その“定位置”を変えてしまった。何が、何処にあるのか。書棚の前でうろうろしながら、目を上下左右に動かし、どうしても読みたい本を捜した。
その本は、茨木のり子の「倚りかからず」という詩集。

もはやできあいの思想には倚りかかりたくない 
もはやできあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはやできあいの学問には倚りかかりたくない
 もはやいかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目じぶんの二本足のみで立っていてなに不都合のことやある
 倚りかかるとすればそれは椅子の背もたれだけ

その毅然とした生き方に、何度、こころの安定とあるべき姿を見て来たか。わずか10数行の詩は僕にとってのひとつの“バイブル”のようなものだった。

近づく3・11。その日を前に、またもこの詩に”没頭“している。

そして思う。「3・11」に最もふさわしい詩なのではないかと。

出来あいの思想。それを反原発運動とするならば、その思想には賛成だ。いや、声を大にしても言いたい。しかし、それが一種のイデオロギーとされ、ある種の人達の”運動“のお題目とされていることに反目する。

3・11。郡山の開成山球場で、反原発集会が予定されている。もちろん地元の市民運動団体が積極的に受け入れるものだろうが、基本的に東京からのバスツアー。バスの中で東京で積み込んだお弁当を食べて、市役所方面に向かってシュプレヒコールをあげ、拳を突き上げる。何の意味があるのだろう。運動のための運動、反対のための反対。

郡山や福島市はこの種の運動にもっとも相応しくないところ。そこがなぜ拠点なのか。郡山市民は、多くが、原発賛成、推進などとは思ってもいない。皆「被害者」なのだ。被害者に拳を突き付けてどうするのか。

福島県内でも、さまざまな集会がある。たとえば鎮魂を語り、たとえば復興を語る。
参加者たちは「倚りかかる」。

出来あいの宗教。震災直後は「無常感」をいい、それで、人の有り様を説こうとした宗教家たちも、底なし沼にような原発被害に対して、無常感という思想は無意味なものだと気づかせている。

いかなる学問。多くの科学者たちの言説にはもう飽き飽きしている。かれらの知見は、その多くが人心を惑わすだけのものでしかなかった。

いかなる権威。そう国家権力を権威とするならば、それは、全く機能せず、そればかりか、「被害」を拡散させているようにしか思えない。

そうなんだ。自分の耳目、自分の足で立つしかないのだ。肉体的にそれが可能である限りは。

倚りかかるとすれば、それは。4本の足で走り回っている「ゲンキ」を寝かせ、軽やかな寝息を立てているその小さな背中。
犬の背中はこんなにも安らかなのだと・・・。

そして、また思ってしまった。倚りかかりたくないもの。メディア・・・・。

2012年3月8日木曜日

「余震」と「前震」と。 3・11へ

このところ、またもや地震が多いような気がする。福島県沖、茨城県沖,
宮城沖・・・。

3・11の前、3月9日午前11時45分、本震前51時間。宮城県で最大震度5弱の地震があった。津波注意報も出された。
翌、10日にも地震があった。午前6時23分。最大震度4。しかし、誰も3月11日午後2時46分を予想しなかった。出来るわけがない。

3月11日は一日中、余震が続いていた。それこそ30分おきくらいに。4月11日には大きな余震があった。

連日、あのテレビの電子音、携帯電話のアラーム音が。余震は1年以上続くと学者は言う。
今、時々起きる地震は、その余震なのだろうか。

前震というのもあるそうだ。まさに3月9日の地震のように。余震ではなく、それが誘発地震であっても、3・11直前の地震は神経に突き刺さる。

なぜ今なのか。それはわからない。昨日、一昨日、首都圏に震度7の地震が来ると言う「予測」が政府や学者から相次いで出されている。そして、その被害の予想を伝え、やれ高速道路通行止めや、避難訓練など、それへの「備え」が連日報道されて・・・。

つい先日まで、それこそ連日、自分たちのために作られたスカイツリーの完成に歓喜の報道。このところ報道されるのは、もし、地震が来たらの高層ビルの被災のシュミレーション、予測CG。テレビ報道の締めの言葉。「十分な備えをしてください」。

何を、どうして備えればいいのか。避難グッズが大量に売れているという。水や食料からはじまってあらゆるグッズが。

あの東京で、たとえそのグッズを持っていたとしても、どこに、どうやって逃げればいいのか。CG画面には必ず大規模な火災の様子がおどろおどろしく映し出される。

帰宅困難者対策にも懸命だ。3・11で凝りたから。被害総額や死者の数の予想も。

備えろって、どうそなえればいいのか。学者の中にはこうも言う。震度7が来たら、家具を固定していても無駄だと。
そして、東京湾に津波が発生したら・・・。

なんで、この時期に、この発表なのか。不思議だ。言い方悪いが「めくらまし」のような気さえする。しかし、前震だったのなら。ここ数日のが。

学者の一人は言う。GPSなどを使っての予測や、過去の動向をデータ化してのある程度の予測は可能だが、「地下のことは、はっきり言ってわからない」とも。

いずれにしても、地震列島。今は、その地震活動が盛んな時期。原発が次々作られて言ったのは、たまたま地震活動が静かだった時期。

「再稼働」。馬鹿なこと言ってるんじゃないよ。列島全部、活動期なんだよ。

双葉町の町長が東電に対して160億円の損害賠償請求をした。立地地域では初めてだという。町長は原発の視察もしたと伝えられている。

知事はどうしたんだろう。少なくとも彼が原発を視察したという報道には接してない。行って無いのだ。誰かのお供で避難所を回ったというのでは。
原発の現状を見て、20キロ圏内の惨状を見てくるべきじゃないのかな。市町村にふるだけ、国のせいにするだけ。違うんじゃないかな。行く“権利”はあるんだし。

2012年3月7日水曜日

「否定」と「満足」の自己   3・11へ

確かに、3・11へ向けて新聞、テレビを中心に「特集」が始まっています。それらを見、それらを読む。そして多少考える・・・。疲れます。正直。

NHKスペシャル。揺れる画像と、押し寄せる、呑み込んで行く津波の映像。いたたまれないような思いで目を凝らしています。正視するのは辛い、辛すぎる。でも、見ておかねばならない、いや、見るべきだと。

「辛かったら見ないでください。消してください」のスーパー。なんか言い訳っぽい。堂々とやれよ。それが使命だと思っているなら。

新聞の特集記事。内容は豊富です。読むのに時間がかかります。かなりの時間を費やします。この日々がまだ数日は続くでしょう。

「なんで、流される人を助けられえなかったのだ。なんで手を放してしまったのだ。原発退避の指示が無ければ、助けを求める声の人をどうにかできたのかもしれない」。そんな“うめき”にも似た声が聞こえます。

「あの時こうしていれば、家族は・・・」。そんな後悔にさいなまれている人たちも多くいます。

そして、その人たちは言います。「生きている自分とは何なのだ」と。激しく「自己否定」する人が多いのです。

哲学的な話をしているのでなく、「自己否定」という言葉でしか表現できない人たちがいると言うこと。

人を助けるべきだったのか、カメラを回し続けるべきだったのか。未だ持って悩み続けている報道の人もいます。職業に、仕事に徹するべきだったのか。人が人であるべきだったのか。自己否定にもつながりかねない悩みを未だ抱えている人たちもいる。

防災ヘリの上から、取材ヘリの上から、情報を送ると言う使命を託されたがゆえに、助けを求める人たちをそのままにして飛び続けるしかなかった人達。

自衛隊も消防も警察も。被災地に触れた人たちには、多くの「こころの傷」を負い、ケアが必要になった人も数多くいる。

生き残った人たちに、何を語ればよかったのか。死者に対してどう向き合えば良かったのか。自己を否定し続ける仏者もいる・・・。自己の判断が正しかったのかどうか、なんら解決を得られないままの医者もいる。

「自己否定」からは何も生まれないということは承知の上で。

自己満足に納得している人たちもいる。
「反原発集会に行ってきた」。
「義捐金を送ってきた」。
「ボランティアに参加してきた」。

それぞれの人がそれぞれの立場で行ってきた事の様々。自己満足という形での自己の思いの完結。

思いでも、行動でも、自分で自分が納得できるというはいいことなのです。でも、その満足は完結させてほしくない。次の満足につなげて欲しい。

求めたいたものを得られた「幸せ」がある。得られたら次の「幸せ」を願う。それと同じように。

でも、小さな満足の積み重ねが、多くの人への満足につながるのかな。

ワカラナイ!!

学生時代、時折、安保反対デモに参加していました。どこのセクトにも属さない単なるノンポリ学生。殴られ、蹴られ、水をかけられ、ボロボロになって帰ってきました。
自己満足もありました。だけど、どこかに空虚感がありました。そして、なんにも変わらない、変えられないという自己否定への思いを強くしていた時代もありました・・・。

そして今、自己否定もせず、もちろん自己満足も出来ずに、どこかで茫然として現在を見つめ、去年の映像に接している俺。

自己否定の反対語は自己肯定だったかも。俺って、何にもせずに、勝手に自己肯定してる奴にすぎないかも。いやだね!自己嫌悪が待っているかも。

2012年3月6日火曜日

ジャーナリストとは・・・ 3・11へ

「3・11」後、とみに目にし、耳にする機会が多くなったような「肩書」いろいろ。

専門家。何々に詳しい人。ジャーナリスト。それぞれに“定義”がはっきりしない漠然とした呼称と。そうそう、それに有識者ってのも。

専門家と呼ばれる人は、だいたい、学者さん。どこどこ大学なんとか学部教授という具合になるんでしょうが。詳しい人っていうのも、こんな具合か。

先日開かれた女性宮家に関する有識者会議。そこで意見を述べた人が田原総一朗氏。テレビやネットでおなじみの。彼の肩書はジャーナリスト。きのう対談していた桜井よし子さんもジャーナリストって書かれてた。
鳥越もそうだし。元新聞記者じゃだめなのかな。

ジャーナリストの定義。はっきりしたものが無い。ジャーナルする人ってことか。
ジャーナルもよくわからない。単に伝えるということか、批評、解説という意味も含むのか。

そういえば、なんとかリスト、まだまだある。アナリスト、コラムニスト、エッセイスト・・・。ジャーナリストもさらに分けられているような。例えばフリージャーナリストとか。

新聞記者も、テレビ記者も、雑誌の記者もたぶんジャーナリストなんでしょう。世間一般の認識としては。ジャーナリズムって言葉に象徴されるように。
だけど会社に所属している人は、多分、社名で仕事している。

社名が無い、いわば“無所属”な人達をジャーナリスト、あるいはフリージャーナリストっていうのか。

それは他称なのか、自称なのか。

ジャーナリスト。なんか“偉そう”な気がする。

その人たちから貰ったことないけど、名刺にジャーナリストって書いているんだろうか。田原氏のには、たぶん“肩書”無かった。

論旨定まらないけど、なんでこんなこと書いているかというと、「3・11」後、特にネットを中心にジャーナリスト、フリージャーナリストという人が多数登場してきて、いろんなことを言っているから。

フリージャーナリストと称する人たちも「自由報道協会」という“団体”を作り、そこに所属する。そして、ここのメンバーは時々物議を醸す。
先日の週刊文春の記事も然り。

彼らは一匹オオカミかと思いきや、いや、一匹オオカミだろうけど。
これは新聞・テレビという既存メディアを決して擁護しているのではないが、一匹オオカミの自己完結ジャーナリズムは怖い気がする時あり。それは、なんらのチェック機能なく、勝手きままな、さまざまな言辞が吐き出されていくから。

著作物があり、既存メディアに登場した人たちは「著名」という冠も付くし。著名な人も、無名な人も。あちこちにいるジャーナリスト。
著名な人はそのまま「有名人」。彼らが言う、オピニオンリーダーともなる。

ジャーナリストという“職業”か。世の中を「大所高所」から見て、動かしていると思っている人か。

津波で輪転機を流された石巻日日新聞。翌朝、ロール紙にマジックペンで書いた新聞を作り、避難所に配った。「情報」を与えようと。被災地の人はそれをむさぼるように読んだ。

そこの若い記者が後日言っていた。「僕たちはジャーナリストとは思っていません。ローカリストです」と。いいね、この「ローカリスト」って言葉。

この石巻日日新聞の逸話。今夜、テレビドラマで放映されるとか。
見る気はしませんが。

かつて持っていた、テレビドラマのジャーナリズム性は無くなってしまったような気がするし、俳優が大声で「演技」しているのは、絶対しらけるから。

3・11へ。新聞各紙にも、もちろんその名刺には社名があるだろうけど、ローカリストたらんとしているような記者がいい記事を書いている。読ませてくれる。書くことで「寄り添って」いるような。

報道の自由とは。その思想が染み込んでいるような日本。自由が保障されている故にか。さまざまな「報道被害」が世を覆っているのも事実。

今朝の新聞記事にも、週刊誌の広告みても「煽り」があまりにも多すぎる。でも、何を書いても「自由」なんだもんね。この国は・・・。

2012年3月5日月曜日

たとえば「ボランティア」 3・11へ

東日本大震災後、どれだけ多くの人が「ボランティア」として現地に入っただろう。延べ何十万人、いや何百万人。避難所で食糧支援を手伝い、家の片づけをこなし、瓦礫の片づけに携わった。

一日、2万人近い人が全国各地から集まった。集まってくれた。

そのボランティアの数が急減している。一時の10分の一に。一日2千人弱に。

「ボランティア」。その“定義”は難しい。人を助ける。その一字では一致しているものの。何をするのかを含めて。

NPO法人としてのボランティアもいれば、個々人としてのボランティアもいる。

なぜ減ったのか。そこにもさまざまな問題が。ボランティア、それは「自己完結」が要求される。いや、そうだとされている。装備を自分のカネで整え、交通費を払い、食糧を調達し、寝場所も自分で確保・・・。

「行きたいけど行けない」。そう言っている人がいる。その人は決して裕福ではなく、仕事も持っている。でもボランティアに参加した。持ち出しになった金額は600万円を超えたという。無理だと・・・。これ以上は・・・。

ボランティアの現地での受け入れ窓口は基本、社会福祉協議会。そこの受け入れ態勢は未だ不備のまま。来られても対応出来ないと言った現実もあったという。それがメディアの話題になる。「来てくれなくてもいい」。そんな受け取り方をされるような報道も、参加意欲を削いだ。

現実。ボランティアは必要なのです。復旧・復興の文字や話題も上がる中、助けを必要としている人たちがいる。

東北の冬は寒い。きょうも季節外れのような雪。高齢者が多い仮設。雪掻きもままならない。

例えば福島県。医療従事者が足りない。医師も避難していった。看護師も。放射線技師だって。本人の使命感とは別に、家族からの避難要望。

医療機関の実態をつまびらかにしているわけではないが、そんなボランティアはなりたたないのだろうか。

ボランティアに参加した人たちは、直接、被災者と向き合う。被災地を見る。現実がわかる。そこにだけは、少なくとも“絆”が生まれる。

一過性のボランティア活動に参加して、それでよしとしている人たちは少ないのかも。また行きたいと思っている人たちが大勢いることを信じる。

雪が溶けて、雪がおさまって、春の気配が感じられるようになったら、またボランティアが来てくれることを願う。被災各地に。

蛇足のようだけど「反原発」を叫ぶためにだけ来る人たちはいらない。

三陸地方では早くから始まったという「復興ファンド」。福島の天栄村でも、米の「ファンド」が作られたという。都会の人が「参加」してくれているという。

もしかしたら、こういうことも「ボランティア」の一つかもしれないし。

2012年3月4日日曜日

例えば“瓦礫” 3・11へ

静岡県島田市の桜井市長がはっきり言っていた。岩手の瓦礫処理問題で。
「少数意見は切り捨てる。私は東北を思う。東北の復興に力を貸す」と。少数意見とは瓦礫処理反対を言う“住民”のこと。そしてその“住民”のうしろには、あの“市民団体”なるものの影が・・。

少数意見は切り捨てる。とんでもない発言です。民主主義の理念を否定するものです。世が世ならば。それをあえて承知で言ったと思う桜井市長の発言。彼を断固支持します。

この“非常事態”の時に、お題目言ってるのが正論だというなら、そんな民主主義はくそくらえだと。

国会を見てください。民主主義の名のもとに、少数意見の尊重という思想が当然のように語られている。少数政党の消長がかかっているということで、選挙制度改革も前進しない。
議会制民主主義の名のもとに、国民の代表として選ばれた国会議員。
この「国難」に際して、今や、考えるには自らの身分保障だけ。その身を捨てる覚悟無し。
選挙が怖い、選挙が怖い、その一点。

桜井市長は、いつだかしらないが、次の選挙では落とされるかもしれない。でも、それは覚悟で「正義」を唱えている。そう推測する。ネットや一部メディアで叩かれ、さまざまアングラ醜聞がまかれるかもしれないことを覚悟の上で。そう推測する。

神奈川県の黒岩知事も瓦礫受け入れを表明した。反対の声があがる。説明会。会場のこだまする「帰れコール」。その中にまた居た。あの連中が。
そしてテレビはその連中の中の“有名人”を時々番組に引っ張り出す。

双方の意見を公平に。建前だけのテレビの論理。

少なくとも、宮城・岩手の瓦礫に関しては、メディアはその主張を、立ち位置を明確に言うべき。出すべき。書くべき。

放射線量を検査して100ベクレル以下のものしか受け入れないと神奈川県知事も言っている。放射線量は焼却すれば濃縮される。100が3,000になることもある。

じゃ、それが、どれだけ「健康」(一番わかりにくい言葉、定義のない言葉だけど)に影響を与えると言うのか。これまでに、核実験の影響で大気中をさまよっていた放射線量は・・・。

瓦礫処理が、低線量被曝も含めて、外部、内部被曝含めて、危険だ、怖いといおうことか。

一概に比較する気も無く、放射線という物は各種あることを承知の上で言う。

反対という人は、人間ドック行くのやめなさい。行ってもX線検査は拒否しなさい。病気になってもCT検査拒否しなさい。それでしか癌の検査はわからないにしても。
“エホバの証人”に信者が輸血を拒否しているように。癌にかかっても放射線治療は拒否しなさい。あなたがたは「アレルギー」なんだから。

3・11以降、この国を覆ってしまった「不信」という空気。その延長線にあるかと思う瓦礫の問題。線量は問題ないのです。福島県の瓦礫ではないのです。

日本は一つだ。絆だ。あんな言葉に酔いしれていた人々。現状を見るに、あの言葉達は意味を失った。言葉が泣いている。

通信社の調査では全国の地方自治体の86%が瓦礫処理に難色を示しているとか。そういう報道。

かたや、瓦礫受け入れの自治体の動きあり。沖縄や秋田や。いわれなき反対運動の無い事いのるのみ。

老いの繰り言。昔の日本人は苦しみや悲しみを分け合った。分け合ったがゆえに、戦後の復興が成し遂げられたとおもうのだが。

何回も書く。富の分配の時代は終わった。負の分配がこの国を支えるのだと。

2012年3月3日土曜日

たとえば「風評被害」 3・11へ

昔、あることでよく交わした言葉。「去るも地獄、残るも地獄」と。
福島県から県外に避難した子供が「いじめ」に会い、山梨では保育園への入園を断られたとか。

まさに、逃げる(放射能から)も地獄、残るも地獄と。
なんでこうなるんだろう・・・。

原発事故後、こりゃ「風評被害」来るなって思っていました。案の定。しかし、ここまで蔓延するとは。
子供に関することは、風評被害どころじゃない。もはや立派な「犯罪」の領域。「差別」の領域。
親は、逃げた、避けたという自分の判断を責めるだろうし。

風評被害・・・・。あまり好きな表現じゃないのですが。

被害者がいるってことは加害者もいる。しかし、この件だけは「裁判」にかけられない。
立証出来ないから。「被害者」は東電に賠償求めることしかできない。

加害者。その元は、やはりメディアなんだと思います。いろんなメディアがあるけど。悪意がある無しに関わらず。善意の報道も、時によっては加害者になっている・・。

もう再三書いてきたことですが。

テレビでやっていました。スキー場の光景。まったく人がいない。スキー場の支配人は、例年の10分の一だという。たしかに映し出される光景はゲレンデのみ。

ただ、これは中継の映像ではない。いつの映像か。レポーターはいつ行ったのか。土日はそこそこ入っていると、そこの人からは聞いているのですが。平日の早朝なら、お客がいないのはありうる。

もし、人がいたら・・・「おいおい、これじゃ意図が違うよ、絵にならないよ」。そんな”悪魔“のささやきがカメラの脇から聞こえてくるような。そういう勘ぐりする元テレビ屋。

見ていた首都圏の人は思うでしょう。みんな行かないところなんだから、行くの辞めようって。誰もいないスキー場なんてつまらないしと。

県内の人達はボードも含め、家族連れで行ってますよ。

「被害」を訴えるのは当然です。スキー場のみならず。でも、それを訴えて、それを伝えて、何かが解決されるのか。不安は不安を増幅させる。それが大衆心理。

そう、この大衆心理というやつも風評被害の元なんです。人の「不孝」を見て、聞いて、気の毒だとは思いながらも、深層心理ででは、それで自らの「安心」を確認している。

だからテレビにお願い。福島県で、普通に暮らしている人たちがほとんどだという、普通の姿を伝えてくださいよ。

たしかに6万人以上の人が県外に避難しています。それは数字として事実そのものです。でも、その数字を大きく伝えることが、かえって「福島は危険だ」という印象を増幅させる。

責める気はないけれど、避難先で、避難した人たちが「恐怖」を語る。それが、また、一つのイメージを作っていく・・・。

NHKのクローズアップ現代の避難マップの報道も、結果、そういう増幅作用を起こすものだったような。

データは事実。それをどう受け止めるかは心理。

極論すれば、風評被害という言葉が無くならない限り、風評被害は収まらない。

3・11以降ずっと思ってきたこと。「伝える」ということ。その難しさにメディアは改めて真摯に向き合ってほしいのです。
一年――。新聞の特集、テレビの企画。とかく「検証物」に行きがちです。もちろん検証も絶対必要だけど、現状、そう現状をどう伝え、どう打破するかにあらためて視点を向けないと。決して興味本位でやっているとは思はないけど。

「差別」に対して、メディアは事実を伝えるだけで事足れりとするのかどうか。

2012年3月2日金曜日

ボクと「ふくしま」と、3・11へ

数日前、「闇米」と書いた。そしてあることを思い出しました。福島とのかかわりを。

戦後まもなくの頃。東京に住む我が家は、まさに食糧難でした。親、祖母、弟妹。来る日も来る日も「すいとん」。醤油出汁の湯の中に、小麦粉を練った〝球“を入れたもの。やけくそのように”球“を投げ込んでいたこども。

母親の郷里から素麺が送られてきました。木枠に組まれた大きな箱。廊下の隅に積まれた箱から数把を取り出し、醤油のタレで。連日。三食。ある日突然喰えなくなる。受けつけない。

断片的な記憶。ある日、母親は決意する。ヤミ米を買いに行くという行動に出る。箪笥の中から着物を出し、それも数着。風呂敷に包んで肩に背負い、「福島に行って、農家から米を買ってくる」。そういって早朝に出かけた。なぜ福島だったのかわからない。誰かから聞いていたのだろうか。物々交換。

夜、腹を減らして待っていた子どもの前に帰って来た母親は玄関で泣き崩れました。
「足元見られて、2升しか交換してもらえなかった。でも、それを持って汽車に乗ったら、ヤミ米摘発にあい、全部没収された・・・」。そんな話をしていたのを覚えています。

なんで福島だったのか。常磐線だったのか、東北本線だったのか。摘発されたのは。もちろん、福島のどこの農家だったのかも。

25年前、母親は亡くなりました。その遺品の中に、土地の権利書がありました。土地を買っていたらしい。その権利書に記されていた住所は福島県耶麻郡猪苗代町。そう書かれていたような気がする。今、想像するに、そこは多分山林か原野だと思います。いわゆる分譲地ではないような。

昭和63年8月2日。はじめて郡山に来ました。なんで福島に来たんだ。よく問われました。縁もゆかりもないけど・・・。それが答え。会社の都合だと。縁があるなんて考えたこともなかった。

でも、母親は、それが何であれ、「福島」というところに多少関わりを持っていた。「3・11」後に、突然のようによびさまされた記憶の断片。

なぜか、ここ福島県郡山市に居ついてしまったのです。定住してしまったのです。決断とかでは全く無く。自然に。

「居るべきところに居る」。そんな感じなのでしょうか。多くの友人や知人に恵まれ。

そして、「3・11」を体験。被災県民として。そして、さまざまな「フクシマ」を肌で感じ。

震災後、福島の人達から様々な援助を受けました。水、米、野菜・・・。ほんとうに沢山の物を貰いました。助けてもらいました。
そして、震災後、このブログで、毎日。「3・11」のこと、「フクシマ」の事を書いています。ここ以外でも書き、語りしています。

家財はかなり棄損しました。大損害です。「放射能」という言葉のもとで、さまざま、苦悩しました。

でも、ここにいて良かったと確信しています。ここに居るから、居たからこそ「語るべき資格」を持っているのだと。

「たまたま、そこに居た」ということ。「居るべくしていた」ということ。おそらくそうなんだと思います

2012年3月1日木曜日

3月、そして3・11へ

平成24年3月1日です。まもなく、11日を迎えます。あの日を。そう「3・11」を。
なぜか、昨日から、福島県沖や茨城県沖で、震度4の地震が起きています。

まさか「3・11」への準備でもしているように。

あの日を「3・11」という数字でくくることをよしとしない人も多くいます。たしかに、数字でくくるという事には抵抗感があります。
2万人近い死者と不明者、6万人以上の原発避難民。それを見て、聞いて知っている1億人の日本人、いや、世界の人々・・・。

反論あることを承知で、あえて「3・11」と言います。そこにはあらゆる意味やあらゆる事実を含めて、込めて。死者への鎮魂、生きながら苦しみ、悩む人たちへの思いも込めて。アメリカの同時多発テロ「9・11」とは、いささか違う意味でも。

原発事故を「フクシマ」、あるいは「FUKUSHIMA」と書くことに嫌悪感を抱かれる人も数多くいます。だけど、あえてフクシマというカタカナで語ります。
なぜなら。福島は単なる地名です。昔、誰かが名付けた地名であり、地図上の、行政区画としての呼び名、あるいは住所だから。カタカナにすることによって、数字で表現することによって、その数字の中に、カタカナの中に、僕は万感の思いを込めます。そして、そのわずか数文字には、数万人の、いや数10万人の“物語”があるという、悲しみがあるという、苦しみがあるという、悔しさがあるという、あらゆる事どもを含めているつもりです。

去年の3月1日の当店、からから亭。「あまりにも馬鹿馬鹿しい」というタイトルです。
女優の沢尻エリカをめぐる取り巻き芸能記者の馬鹿さ加減を嘆き、取材する側とされる側の、あまりにもの緊張感の無さに悪態をつき、大学センター試験の携帯電話使い、ヤフーへの質問で回答〝貰った“事件の馬鹿馬鹿しさを言い、混迷する国会の馬鹿馬鹿しさをあげつらっていました。国会・・・、そうです。総理大臣は菅直人という人でした。去年の今日も、去年のあの時も。

そして、最近のテレビのワイドショーの話題は、お笑い芸人女性の霊能者“幽閉”話し。
マンションを毎日囲む”報道陣“。
政治は・・・・。政局症候群にとりつかれ。馬鹿馬鹿しいです。去年と同じような“光景”。
さらには、電波塔が出来上がったことで、連日の大騒ぎ。

被災地ではきょう、高校の卒業式・・・。

そう、去年、たまたま総理大臣は菅直人だった。福島県知事は佐藤雄平だった。そう、たまたま。その人たちがその任にあったこと。
もしかしたら、それは歴史の必然だったのかもしれない。
我々が、必要以上の、いたしかたなく被る被害よりも、はるかに大きな被害者となるための。

去年の今日、10日後に来るあの大惨事の予兆はどこにもなかった。全てが「平和ボケ」そのものの日々だった・・・。

新聞は東日本大震災1年の特集を始めました。テレビも、3・11へ向けての特集や企画が始まるでしょう。

問題は、そこに、自らへの反省、検証も含まれるのかどうか。

目を凝らすつもりです。物理的に無理な場合もあるかもしれませんが。出来うる限り、それらを見届けたいと思っています。

そして、我々は「3・11」をどういう思いで、どういう考えで、どう迎えるのか。その“準備”に入っていかねばならないのかとも。