2012年3月15日木曜日

終わりと始まり・・・3・11後に語る

ほとんど私事のことですが・・・

記憶をたどると、去年の3月15日は原発が最大の“危機”に陥っていた時のような気がする。テレビをメインにして、新聞やラジオ、あと限られたツイッター。それが情報源だったけど。パソコンはまだ使えなかった。

たしか菅が東電に乗りこんで行った頃かと思う。テレビを見ながらひとことつぶやいた。

「この国は終わった・・・・」と。

多くの家や建物が津波で流され、死者や不明者の数が日に日に増えていく。
原発避難民が続出している。その事実を見て「終わった」と思ったのではない。

たまたまその時の一国の指導者が菅であり。うろたえている姿やヒステリックに騒いでいる様子を見て、そして記者会見で彼が発しったメッセージを聞いて「終わった」と思ったということ。

菅だけじゃない。枝野を含めた政権。原子力保安院などの関係行政。すべてがお粗末過ぎた。

統治機構として、それは致し方ないことだと十分承知していても、あまりにも頼り無く、無能なリーダーのもとに置かれているという本能的実感。

そして、県民に対して力強いメッセージも発せず、それこそうろたえる県知事、佐藤雄平。「終わったな」。そんな無力感、脱力感が今も残っている。

東電に乗りこんだ菅が言ったという言葉がきょう、改めて伝えられている。そこにある「このままでは日本はおしまいだ」と言ったという記録。そのこと自体が彼の資質を物語っていると。

我々は、その身を託せるリーダーを持っていなかった。それが「終わり」と思わせた最大の心象的要因。

何をもって「終わり」というかは難しいが、今の、昨日の永田町というところに生息する、我々が選んだ議員さんたちの言動、行動を見るにつけ、「終わった」という感覚は無くなっていない。

昨夜は、久々、緊急地震速報が流れ、携帯が鳴り、津波注意報が流されていた。

終わったと思っていた余震はまだまだ終わっていなかった。

何かをしなければいけない。焦燥感。自分が出来ることを。

自衛隊、機動隊、消防。それらの活躍を見るたびごとに焦燥感が湧く。30キロ圏避難。我が家と原発の距離を思い浮かべている自分。半ば自己嫌悪。

そして一つのことを決めた。書くということ。このブログを、この被災についてだけ書くこと。毎日。

ネット環境はまだ復旧してない。知人のipadを彼の事務所に行って借りて、慣れない手つきでとりあえず書いて送信した。「無事です」と。たぶん多くの人が心配していてくれると思ったから。

そして回線が復旧してから、それは3月19日だった。「この国の姿」というタイトルで書き続けた。書くことを始めた。書いたことはもちろん災害についてだが、私事もあり、メディアへの対応であり、政治への非難だった。

毎日書く。そう決めた。それを始めた。「3・11」前はほとんど戯言だったこのブログを、しばし、怒りの言葉で埋め尽くして行った。

毎日書く。辛い“仕事”。くじけそうになった時もあったけど、体調最悪の時もあったけど、以前は勝手に数日間も書かなかった時もしばしばだったけど。

それがボクにとっての「3・11」後の始まり。そして、それを今でも続けている。それが何の役に立つのかはわからない。単なる自己満足にすぎないと思いつつも。

2011年3月15日。それはボクにとっての終わりと始まりの日だった・・・。

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  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...