2012年3月2日金曜日

ボクと「ふくしま」と、3・11へ

数日前、「闇米」と書いた。そしてあることを思い出しました。福島とのかかわりを。

戦後まもなくの頃。東京に住む我が家は、まさに食糧難でした。親、祖母、弟妹。来る日も来る日も「すいとん」。醤油出汁の湯の中に、小麦粉を練った〝球“を入れたもの。やけくそのように”球“を投げ込んでいたこども。

母親の郷里から素麺が送られてきました。木枠に組まれた大きな箱。廊下の隅に積まれた箱から数把を取り出し、醤油のタレで。連日。三食。ある日突然喰えなくなる。受けつけない。

断片的な記憶。ある日、母親は決意する。ヤミ米を買いに行くという行動に出る。箪笥の中から着物を出し、それも数着。風呂敷に包んで肩に背負い、「福島に行って、農家から米を買ってくる」。そういって早朝に出かけた。なぜ福島だったのかわからない。誰かから聞いていたのだろうか。物々交換。

夜、腹を減らして待っていた子どもの前に帰って来た母親は玄関で泣き崩れました。
「足元見られて、2升しか交換してもらえなかった。でも、それを持って汽車に乗ったら、ヤミ米摘発にあい、全部没収された・・・」。そんな話をしていたのを覚えています。

なんで福島だったのか。常磐線だったのか、東北本線だったのか。摘発されたのは。もちろん、福島のどこの農家だったのかも。

25年前、母親は亡くなりました。その遺品の中に、土地の権利書がありました。土地を買っていたらしい。その権利書に記されていた住所は福島県耶麻郡猪苗代町。そう書かれていたような気がする。今、想像するに、そこは多分山林か原野だと思います。いわゆる分譲地ではないような。

昭和63年8月2日。はじめて郡山に来ました。なんで福島に来たんだ。よく問われました。縁もゆかりもないけど・・・。それが答え。会社の都合だと。縁があるなんて考えたこともなかった。

でも、母親は、それが何であれ、「福島」というところに多少関わりを持っていた。「3・11」後に、突然のようによびさまされた記憶の断片。

なぜか、ここ福島県郡山市に居ついてしまったのです。定住してしまったのです。決断とかでは全く無く。自然に。

「居るべきところに居る」。そんな感じなのでしょうか。多くの友人や知人に恵まれ。

そして、「3・11」を体験。被災県民として。そして、さまざまな「フクシマ」を肌で感じ。

震災後、福島の人達から様々な援助を受けました。水、米、野菜・・・。ほんとうに沢山の物を貰いました。助けてもらいました。
そして、震災後、このブログで、毎日。「3・11」のこと、「フクシマ」の事を書いています。ここ以外でも書き、語りしています。

家財はかなり棄損しました。大損害です。「放射能」という言葉のもとで、さまざま、苦悩しました。

でも、ここにいて良かったと確信しています。ここに居るから、居たからこそ「語るべき資格」を持っているのだと。

「たまたま、そこに居た」ということ。「居るべくしていた」ということ。おそらくそうなんだと思います

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