2013年8月5日月曜日

「わたしが一番きれいだったとき」

「最後の避難所」、埼玉県加須市の旧騎西高校があった校舎には、今も100人余りの双葉町からの避難者が生活している。

共同生活だ。

町への帰還をあきらめた人、帰還を望んでいる人、行く当てのない人・・・。

双葉町から県内をあちこち回され、ここにたどり着いた人たち。途中で命を落とした人もいる。

双葉郡からの避難者の多くが仮設や借り上げ住宅に移った今、避難所はここだけだ。高校のあった校舎の中で、2年数か月の生活。最後の避難所。

共同の水場、共同のトイレ、共同の手洗い所。

この避難所もやがて閉鎖になる運命だ。役場がいわき市に移転したこともあって。
教室の一隅にあるベッドに寝たきりの90歳を超えたばあちゃんがいる。娘さんが付き添っているが。

取材に来たテレビカメラに向かってばあちゃんは言った。
「笑顔を撮ってよ。綺麗に撮ってよ」と。飛び切りの笑顔を作っていた。

たしかに、カメラに収まったばあちゃんは綺麗だった・・・。

詩人茨木のり子の作品。「私が一番きれいだったとき」。

わたしが一番きれいだったとき

街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのようにね。
             
反戦の詩である。国語の教科書にも使われていた。“長生きすることを決めた”茨木のり子も亡くなった。

僕は戦争を体験している。もちろん戦地ではなく、子供として。子供が一番子供らしい時代に。
その時代に覚えた歌、ほとんどが何故か軍歌。その中の一つに“戦友”というのがある。長い歌詞を覚えた。
♪ここはお国の何百里 離れて遠き満州の・・・♪ではじまる14番まである歌。日露戦争時に作られた歌だ。
マイナーなメロディーとあいまって、それは戦意を鼓舞する歌ではない。反戦、厭戦の歌だ。戦争の悲しさを歌った歌だ。僕はそう解釈する。

敵弾に倒れた戦友。お国のためだ、かまわずに、遅れるなという戦友。
♪戦い済んで日が暮れて さがしに戻るこころではどうぞ生きていてくれよ
物など言えと願うたに♪

「戦い済んで日が暮れて」。このフレーズは今も使われている。選挙後にも使われていた。歌の意図とはかけ離れて・・・。

♪筆の運びは拙いが、行燈のかげで親たちの読めるこころを思いやり
思わず落とす一滴♪。歌の最終章にある歌詞。

東京の知り合いに一人暮らしの91歳の女性がいる。満州からの引揚者。
一番綺麗だったころ、その人は惨憺たる思いや絶望的状況の中で、どうにか故郷、日本に帰ることが出来た。満州の地で果てた友達も多かったと聞かされた。

時々ヘルパーさんのお世話にはなるが、一人で毅然と生きている。倚りかからず。

夏休み。子供たちの歓声が聞こえてくる。女の子もいる。この子たちが一番綺麗になった時、この国はどんな国になっているのだろうかと。


明日は広島に原爆が落とされた日。加須市に“暮らす”綺麗なばあちゃんは、何を思うのだろうか・・・。

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