朝、秋空の中空には、なぜか、昨夜西に沈んだはずの月が、雲と同化するような白い残影を残して景色に溶け込んでいた。
その中を、子供たちが、そう、まるで雲霞のように現れて、集合場所に。
6年生をリーダーに集団登校。
そうなんだ。新学期が始まったのだ。
重そうなランドセル、水筒、靴入れ・・・。重装備だ。
友達と学校で会えるのが楽しいような、終わってしまった夏休みに未練があるような・・・。
一週間が終わり、新しい一週間が始まった。
一日が終わり、新しい一日が始まる。
一年が終わり、新しい一年が始まる。
夏が終わり、秋の気配が漂ってきた。
たわわに実った稲。黄色みを帯びてきた。
今年も旨いコメが食べられる予感・・・。
終わりがあって始まりがある。それが自然の摂理なのに、それは社会事象になぞらえる時、終わりの始まりと言われるようになった。
友人の毎日新聞郡山支局長がイタリア赴任時のことを書いた著作のタイトルは「資本主義の終わりの始まり」。示唆に富んだ本だ。
作家の池澤夏樹の災後に書かれた本のタイトルは「終わりと始まりと」。
2011年3月。日本は、日本のある時代は終わった。正確に言えば終わったはず。
東京が大停電に見舞われた夜。多くの都会人も、変わることを予感し、変わらねばならないと思い、変わることを誓った人も多かった。
原発が、高度経済成長の象徴でもあった原発が、無残にも爆発する映像を見た時、だれしも「終わり」を実感したはず。
価値観もライフスタイルも変わるべきと思った人も多々いたはずなのに。エネルギー政策なるものも変わると思ったはずなのに。
多くの人がその時知った。福島の原発で作られている電気は東京が消費しているということに。
その事実は東京の、それに気付いた人が言い始めたこと。
福島県人が言い始めたことではない。
今、そのことを言う人はほとんど見かけなくなった。活気を取り戻した都会。そこにある空気。
2011年3月は無かったことというような空気。それは有ったことだと脳裏に刻んでいる人たちも、福島を差別し、非難し、排除することの「道具」のようになった。道具にされたという受け身の表現では言いたくない。受動的ではない。能動的な“動機”。
多くの人の思考は停滞し、時には停止し、終わりを否定し、始まりへの動きを見せない。
全てが継続、延長の上に構築されていく。
何も始まっていない。
新しい週の始まり。だから、そんなことを考えてしまう。
相変わらず「復興」という言葉が、魔法の杖のように叫ばれている。皆が口にする。お題目のように。
「復興」とは終わりの始まりか。終わってしまったものが、再び始動することが復興なのか。
終わった原発。それを再稼働させる動き。それは「始まり」なのか。それこそ終わりの始まりなのだと思うけど。
終わりと始まりと。その“はざま”にあるものは・・・。“はざま”である今、そこに生まれている空気は・・・・。
時計の針の逆戻しだ。柱時計には針の逆戻しはあっても、デジタル時計では出来ないものなのに。
よしんば、どうせ戻すなら、自然とともに生きてきた、自然の時間と同化していたあの時代にまで戻すべきなのだ。
それは“戻し”では無く、“始まり”にもつながる一里塚にも思えるのだが。
だから、「始まり」は東北から始めなくてはならないのだとも思う。始まりと言える資格は東北の人たちが持っているものだとも。