午前8時15分。広島の平和公園に鐘の音が響きわたった。毎年のように。
平和祈念式典。参列者が黙とうする中、遺族代表が打ち鳴らす“平和の鐘”。
一つ、二つ・・・。
黙とうする人の姿を僕はテレビのこちら側で凝視している。鐘の音に耳をそばだてている。
五つ、六つ・・・。
鐘の音の余韻が、曇り空の広島の空に溶け込んでいくような・・・。
今年は鐘の音が“特別”のような気がする。
このところ毎日のように聴いている。佐村河内 守の交響曲第一番「HIROSHIMA」。
毎楽章に登場する鐘。効果音としての鐘か、モチーフとしての鐘か、主題としての鐘か・・・。
68回目の原爆の日。数日後は長崎。
テレビで伝えられる鐘の音が、いつもの音と違って聞こえるのは音楽のせいだけではない。
なにやらこの国の空気が、鐘の音に込められた“願い”とは違う方向に進んでいるように思えるから。
平和宣言の中で松井市長は、核兵器を「絶対悪」と位置付けた。
気になっていたのはフクシマへの言及。
原発事故で苦難の日々を送る福島県。「今も苦しい生活を強いられる福島の皆さんに、67年前のヒロシマの姿が重なる」と触れた。
ヒロシマとフクシマ。原爆と原発。“同化“出来るのか否か。
「いわれなき風評被害により、差別と偏見が生まれた」。この点では“同化”しているのだが・・・。
人は鐘に祈りを託す。3月11日の鐘。もう2回聞いた。多くの死者を出した現地で鳴らされる鐘。寺院で鳴らされる鐘。教会で鳴らされる鐘・・・。
鐘の音は、人の魂に伝わるものなのだろう。鎮魂の鐘。
ムスルグスキーの交響詩「禿山の一夜」が浮かぶ。聖ヨハネ祭の前夜、禿山に集まった“悪魔たち”の大宴会。その宴が終わる。朝・・・。
朝を告げるのは鐘の音。その音を合図に悪魔たちは退散する。
鐘は「希望の朝」を告げる音。
この曲の演奏者は、どいいう鐘の音を出すかに苦労する。ただ叩けばいいのではない。音の強さだけでもない。曲の意味を十分理解し、気持ちを込めて楽器としての鐘を鳴らす。
「HIROSHIMA」で鳴らされる、響いてくる鐘の音がまさにそれだ。聴く者は、その鐘の音に込められた作曲者の意志を受け止めなければならない。被爆二世である彼の意志を。演奏者はそれを伝えなければならない。鐘が全てを物語っているような音色を。
交響曲の中で鳴らされる鐘の音と、きょうの平和公園の鐘の音は“同化”しているようにも聞こえた。
平和公園で鳴らされた鐘が、不戦の誓いの鐘であることを祈る。今この国を覆っている“キナくさい”空気を吹き飛ばすものであってほしいと祈る。
8月6日も、8月9日も、そして3月11日も、すべからく「祈りの日」であらんことを。
68年前のきょう、僕はたまたま兵庫県に居たはずだ。一か月前の大空襲で焼け出され、焼死体を見ながら逃げ、祖母は大火傷を負い、それでも逃げおおせ、一家5人は農家の離れのような6畳一間にたどり着いていた。
大人たちから「ピカドン」という言葉を聞いた。しばらくして雨の日には表に出るなと厳命された。
大火傷を負った包帯だらけの、包帯でぐるぐる巻きにされた祖母を医者に連れていくのが幼少の僕の仕事。
そこで広島から逃げてきた患者さんたちと出会った。
待合室の大人たちに会話から、その恐ろしさを知った。患者ですし詰め状態の待合室。ケロイド化した祖母の顔や腕・・・。
その待合室の臭いと空気。焦土の空気、臭い・・・。
「過ちは繰り返しませんから」。原爆碑に刻まれた文字が語りかけてくる。
その前で安倍首相は言った。
「私たち日本人は唯一の戦争被爆国民。確実に核兵器のない世界を実現していく責務がある」と。
そうあって欲しいと願う。