きょうは長崎の原爆の日。平和祈念式典。68年・・・。
鐘がたからかに鳴らされ、灼熱の空にこだました。
式典に先立ち、「献水」が行われていた。
焼けただれた体で、ひたすら水を乞い求めて亡くなった人達。せめてもの手向け。
田上市長はNPTに署名しなかった政府の姿勢に“抗議”する。原発政策に懸念を示す。憲法を引用しながら、改憲の動きに釘をさす。
安倍は原発については触れない・・・。
福島の高校生も参列した。
福島・・・。きょうも“収束作業”が続いている。酷暑。あの重装備。皆、水を求めているのだろう。作業員は。
ここにも「水」がある。
原発と水は不可分である。
東電をめぐる議論。“東電解体論”。何をいまさら・・・。
「東電は一民間企業。そこが起こした事故に国費、税金を投入するなんてありえない。まず経営者や株主責任を追及すべきだ。まず破綻処理をしてからだ」。
そんな“平時”の建前論を言っているメディアや学者がいる。たしかに正論かもしれないが、違う。理屈をこねまわしている時ではないのだ。
原発は確かに、多くが民間の電力会社が経営している。もんじゅを運用する原子力研究開発機構や半官半民のような旧動燃を除いて。
しかし、原子力発電はまぎれもなく国が、時の政府が音頭をとった国策だ。国策によるエネルギー政策、経済成長政策の原動力。
そして国策が綻びを生んだことによる福島県民の悲劇。その事故処理は一民間企業の枠内で出来るものではない。さまざまな法律の壁がある。
避難区域を策定したのも国だ。東電の責任は国の責任と同義なのだ。
正論を振りかざされても福島県民になんの救いももたらさない。しかも、もし、汚染水の問題含め、また「事故」が起きる可能性だった大いに秘めている。
それが、そこにある限り、いわゆる“帰還”をためらう人たちも多くいる。
建前論はいらない。いかにして事を収束に向かわせるか、その一点だ。小理屈こねまわしていても、なんの前進にもならない。
東電解体、破たん処理、国有化に異論はない。それをせずに東電に責任を押し付け、迷走をしてきたのが政府だ。国だ。それが今の福島の悲劇の遠因だ。
「正論」に「暴論・極論」を持って立ち向かう。
あなた方は何かというと、すぐ国費、すなわち税金を使うのはけしからんという。あなた方が払っている税金は、あなた方が働いた、稼いだ賃金からだ。その賃金はどこから生まれる。電気を、電力を使った企業活動によってではないかと。
一民間企業である東電に血税を使うのはけしからんと言う。ならば、へりくだって言う。
その税金は東電のために、もはや企業の態もなしていない東電救済に使うのではなく、福島県民のために使わしてくれと。
もう、ありきたりの「責任論」は聞き飽きた。責任論を声高にいっても何もならない。この期に及んでも責任論をいうのは無責任だと。
川俣町山木屋地区の「区域再編」が終わった。テレビニュースの伝え方は、なんか“前進”の如きニュアンスでそれを伝える。
区域再編だって、その底辺には、複雑な住民感情があるのだ。帰還が進まないのも、複雑な事情があるのだ。
その根底にある賠償金の話。区域ごとに区別される賠償金。
事実上は住めないようなところに、かえっていいですよ。かえれますよ、もうしばらくしたら。そんな甘言。
家であっても、そこはすでに「家」ではない。
汚染水。水の問題。核と水は・・・。長崎の献水の映像を見ながら、水に頭(こうべ)を垂れる思いにて・・・。
昨夜、報道ステーションを見ていて、おもわず、いつもはやらないツイッターで非難してしまった。広島と長崎と福島を「ヒバク」で無理やりくくろうとしていたから。
そこでインタビューされていた被爆者や被爆二世には何の罪もない。被爆地の人は福島に心を寄せていてくれる。
しかし、あの特集のやり方は、被爆者二世や福島に対して、あらぬ偏見を生むは必定。
おかしな報道に水を差したい。冗談ぽく今日の妄言。