2013年8月14日水曜日

「私の自叙伝」、苦い思い出のこと

中学生の時、3年生。卒業記念文集というのがあった。テーマは「私の自叙伝」。
子供の頃の戦争体験を、赤裸々に覚えている体験を書き、焼夷弾で家を焼け出され、飢えに泣き、東京の下町の復興長屋に住み、二部授業の小学校の時を書き、それを通して「戦争」について書いた。

出来上がった文集を見て、なんとなく悦に入っていた。最後まで読む進んだとき、脳天をぶんなぐられた。衝撃を受けた。最後の一人。金沢靖子さんという人の作文。

その人の作文がなぜ最後だったのか。提出順だったからだと先生は言った。彼女は書いたものを提出するのにたぶん逡巡していたのかもしれない。

中学2年の時の転校生だった。どことなく病弱で、あまり笑わず、しかし、勉強はよくできた。ほとんど会話したことはない。

その文集はいつのまにかどこかに行ってしまった。もしかしたら、自分が書いた文書が恥ずかしくて、自分で始末してしまったのかもしれない。

彼女は満州からの引き揚げ者だった。文集に書かれていたのは、主に戦後の、敗戦直後から、日本に帰ってくるまでの体験記。

敗戦後、満州に進攻してきたソビエト軍。それに蹂躙される日本人。彼女の親は満蒙開拓団の一員として満州にわたっていた。

戦況が厳しくなり、環境は一変する。敗戦。逃げる。財産はすべて奪われていた。家族に死者もいた。泣くのを止めるために口をふさがれた赤子もいた。食べるものもない。

何カ月にもわたった逃避行。やっと乗れた引揚船。すし詰めの船内の様子。

それまでに読んだ小説よりも、はるかに迫ってくるものがあった。気持ちを抑制しながら、淡々と描かれた事実の積み重ね。子供心に感じた死の恐怖。

彼女の作文を読んで中学3年生の同級生の男の子は泣いた。その巧みな文章力に打たれた。

彼女の作文を読んで、僕は自分が書いたものが、ものすごく恥ずかしかった。文章力も含めて。その体験の大きさ深さに触れて。あの恥ずかしさだけは今でも鮮明に覚えている。

戦争から10年以上が経っていたものの、同じ年で、同じクラスのこんな体験をしてきた子がいた・・・。

僕も戦後は飢えていた。着るものとて満足になかった。でも、彼女が満州で、朝鮮の地でさまよっている時、僕は日本で、暮らしていた。死者は何人も見たが自分は死の恐怖は味わっていなかった。

あげく、♪赤い夕陽の満州で・・・♪などという歌を大人たちから教わっていた。

文集を読んだあと、彼女に何かを話したのかは記憶が無い。卒業後、道で一回だけすれ違った。あいさつ程度は交わしていたが。

その後の彼女の消息は知らない。しばらくして企画された同級会、クラス会。
彼女の消息を女子に聞いた。転校時、すでに彼女は病弱だったという。
そして、誰も彼女のその後を知らないと言っていた・・・。

3・11後、被災地の子供たちが、体験を文章に綴っている。子供たちの素直な完成は、“作り物”ではない文章は、時にはプロの作家以上に訴えるものがある。

子供たちが書いたもの。それは立派な「記録」だ。そして「歴史の証言」だ。

彼女の名前は靖子だった。靖国神社の靖だ。

あの頃、中学3年の頃、もっと彼女と話をしておけばよかったと思う。もっとも、彼女が話をしてくれたかはわからない。おぼろげな記憶の中では、彼女はボクよりも、ずっとずっと「大人」だったから。

なぜか苦い思い出が蘇ってくるきょう・・・。


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