日曜の朝のテレビ。政治談議に花(?)が咲いている。不毛の論議とはいわないけれど、どれを聞いても、誰を見てても「虚しい」。解説、論評する人たちにしても・・・。
単なる回顧談かもしれないがー。
昔、角さんに時々言われた。「政局を追う記者よりは政策を勉強する記者になれ」と。
その頃の仲間の(他社の記者)一人が、発奮した。田中角栄がまとめたとされる自民党の「都市政策大綱」を、その作成過程から追い続け、中味を熟知し、関連取材もこなし、立派な原稿と解説を書いた人がいた。
角さんはそれから彼を信頼する、いや、見上げた記者だとして受け入れるようになった。
「政局ばかり追っている記者にはろくなやつはいない」。そうも言っていた。はい、亭主はろくでもない記者の一人・・・。
田中内閣誕生の時のキャッチフレーズは「決断と実行」だった。角さんは大概の事を即座に決断し、時には強引な手法であったも、それを実行した。総理大臣になる以前からでも。
山一証券救済の「日銀特融」はその一つの例。大学紛争を鎮静化させた「大学管理法案」も然り。
いわきから新潟を一本の線で結んだ磐越道も。目白の自宅から新潟まで行ける関越道も。「新潟の豪雪から守るためには三国峠をダイナマイトでぶっとばしても」と。関越道は角栄道路と揶揄されてゆえん。
誰が名付けたか知らないが、コンピューター付きブルドーザーは確実に動いていた。言ったことはやった。「よっしゃ、よっしゃ」と毎日の即断、即決。それはたんなる相の手ではなく、熟知した上での判断だった。
亭主だけが知っている一つの逸話。もう“明らか”にすることを彼も許してくれるだろう。
内閣総理大臣になった直後、会社の上層部から来た“業務命令”。「吉川英治原作の新書太閤期というドラマを作る。角さんのところに行って題字を書いて貰ってこい」。今太閤と喧伝されていたから。本人はその呼称を厭がっていたようだが。
身の回りの世話をしていた秘書のトシオさんに頼んで書いて貰った。
出来あがったという知らせで目白に取りに行った。書がおさめられている筒をあけて書を取り出すと、「大閣記」と書かれていた。違う、字が違う。
おそるおそる申し出た。字が違ってますと。
はっと気がついた彼は周りにいる秘書数人を呼んだ。硯をすった人や、傍で見ていた人たちを。そして泣きながら、涙を流しながら言った。
「おまえらは書くのをみていたろう。なんでその時、気がついて注意しなかった。こんな間違いをするから、角栄は中学しか出ていないと馬鹿にされるんだ」と。
涙を拭き、おしぼりで流れる汗をぬぐいながら、テーブルの上に広げた和紙に目の前で書いた。「新書太閤期 越山 田中角栄」と。
僕はなぜか、この人は本当に好きだと、その時再確認した。
五月雨(さみだれ)のように書いた田中角栄との「思い出」。そうやはりこれは回顧談というより、ノスタルジーなのかもしれない。政治史を書くつもりもないし、田中角栄の評伝を書くつもりもない。日本列島改造論の当否を書くつもりではない。まして、ロッキード事件なるものに触れるつもりもない。
そいう政治家がいたということ。
彼と最後にあったのは、病院に“隔離入院”のような状態になる数カ月前だったか。ホテルで開かれた政治家の資金集めパーティー会場。彼は挨拶を終えでるところでぱったり。「おお、たまには来なくっちゃだめぞ。もっと来いよ」。そい言って固く手を握り合った。あの握力で。こっちの手が壊れるくらいの力で握られた。あの感触を今でも覚えている。
田中内閣が誕生したのが7月7日。当時の担当記者と数人の田中家ゆかりの人が年に一回集まる。名前は七夕会。真紀子はもちろん入っていない。
ことしも七夕会が行われる。その日が早く来てほしいと、「今」だからこそ余計に思う。もちろん本人はいないが、その場には田中角栄の残滓のようなものが感じられるから
「対案を示せ、知恵を出せ。いいものは俺が実現してやる」。政治家や官僚に常にそう言っていた。官僚たちはこぞって知恵を惜しみ無く出し合っていた・・・。
2012年4月22日日曜日
“チェルノブイリ”異聞
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