2012年4月26日木曜日

「情報リテラシー」のいろいろ。その2。

メディアリテラシーという言葉は、多分、メディアの側からか、メディアに関わる評論家みたいな人たちから言い出された言葉だと記憶している。

読者や視聴者へのメッセージとして。メディアと接触する以上、そっちの側でリテラシー能力を持てよ。そういわんばかりの「上から目線」と感じた。

小沢一郎への判決。無罪。ここ数日メディアは沸き立つでしょう。笑えるくらいに。なぜか。政局がからむから。

裁判と政局とは別次元の話です。裁判官が無罪判決を出すにあたって政局を考慮にいれたか。それは無いと思います。そう信じます。
なぜ無罪か。検察の捜査の在り方や調書の作成に問題があったことも大きな要素です。いわば司法の「技術」の問題。
政治家小沢一郎の問題と被告小沢一郎の問題とは別次元と考えるのがメディアの論点であるべきです。

ところが・・・。どこを見ても全部政局と裁判を並列してみる。それは政治家が言い出したことで、今も続いていることで、メディアはそれに乗ってしまっている。

「消費税増税反対を言っている小沢が無罪になって“復権”したら、野田は窮地に陥る」。政局論のベースです。

なにほど小沢に「力」があるものか。家来を大勢持っているからか。小沢チルドレンなる言葉もメディアが名付けた。大の大人をチルドレン。それに異を唱えた新人議員はいない・・・。

「小沢一郎」という“幻影”。小沢一郎とは一時期「知り合い」でした。新人として当選してきた時、角さんに言われた。「いっちやんの面倒みてやってな」と。
それ以上は書きません。きょうのテーマではないから。

政治家もメディアも小沢一郎に踊らされている。
裁判とは無関係な話なのですが。

結論の一つを言います。

情報リテラシー、メディアリテラシー力を持つべきなのは、メディアそのものの側だと。

3・11以降の“混乱”の極みをみせつけられた多くの報道。虚実ないまぜの情報。一部では“検証”されつつあるものの、その混乱ぶりは未だに続いているようです。

当からから亭日乗というブログでは、表現に多少の差はあるものの、メディア批判の如きことを、冗談半分の言い回し含めて、時々書いています。

なぜか。自分がかつてその世界に身を置いていた者として、また、その時の自戒も含めての「リテラシー」だと思っているからです。

3・11直後、多くの人がテレビを情報源としました。原発事故。原発爆発。日本人が体験したことの無い事故です。
15日にかけて次々起きる爆発。それまで、「情報」というものが、無尽蔵に流れてくるものと思っていた国民は戸惑いました。

テレビ、新聞から流れてくる情報は、その情報源は東電と政府、原子力安全保安院しかなかった。実態を誰も把握出来ていない。当事者もメディアもただ右往左往するだけ。そこに福島中央テレビが撮った爆発の映像。それを確認も出来なければ、なんらかの爆発的事象なんて枝野の言辞を垂れ流しているテレビ。

避難区域の設定、スピーディーの未公表。政府や東電に対する不信は、県に対する不信はそのままメディアへの不信につながった。それでもテレビを見るしかないという現実。
どう捉えていけばいいのか。何が起き、なにがどうなっていくのか。わからないテレビや新聞は勢い「専門家」という人たちを探し出し、その人たちがどういう人であるかも吟味しないで、次々登場させる。安全説から危険説まで。

そしてメディアの自主規制。40キロ圏内には立ち入らない。
テレビの場合、それは東京のキ―局からに強い指示でした。県内の記者やカメラマンはいけるとこまで行きたいという願望を持っていました。地元の局として。しかし、それは叶えられない。抵抗出来ない。反すれば「ネット補償費」というキー局がローカル局に配分している電波料なるものが削られるかもしれないという経営陣の恐れもあり。

混乱、混沌・・・。そこで開花した市民のリテラシー。「メディアは嘘ばかり言う。信用できない」。哀しすぎる究極の“リテラシー”。

きょう、改めて提起された「小沢裁判」をめぐる様々。そこでもリテラシーが試されていると。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...