2012年4月28日土曜日

「情報リテラシー」のいろいろ、その4

「木を見て森をみざるがごとし」という言葉があります。物事の一部分や細部に気を取られて、全体を見失うことを戒めた諺です。

メディアにかかわる人間が陥りやすい誤謬。しかし、反面、神は細部に宿るという言葉もある如く、細部を見つめることで全体像が見えてくることもあります。

たった一回の記事であれ、社説であれ、連載物であれ、それを書いている人が、どういう視点で、どれくらい自分の使命を考えて書いているかによって世の中に与える影響は違います。

リテラシー論とはちょっと違うかもしれませんが、過日、京都の亀岡市で起きた18歳の無免許の少年の車が登校中の生徒の中に突っ込んで2人が亡くなった事件。
新聞、テレビではほとんど「報道」されていませんが、こんな話がありました。
搬送先の但馬救命救急センターが発信したブログです。

「本日,京都府亀岡市で悲しい事故が起こりました.当ドクターヘリも出動し対応しています.検証されるべき事項は沢山ありますが,1つの命をすくい上げようと誰しもが全力を尽くしました.結果,望まない終末になることもあります.その後のご家族の心のケアには人として,医療者として十分な対応を心掛けております.当然,院内や病院敷地内に勝手に入り込み,勝手に取材,写真をとるマスコミには取材の許可を出しませんし,取材拒否の旨をきちんと伝えております.もちろん必要があれば病院から情報を伝えます.しかしながら,マスコミ各社の記者たちは霊安室の前にカメラをかまえ,お帰りになるご家族の映像を勝手に撮影していました.再三にわたって取材はお断りの旨を伝えていたにもかかわらず,一番大切にしたい瞬間に,ズカズカと土足で割り込んできました。ご家族,医療者,関係者の心情を考えられないくらいマスコミの人間の心は腐っているのでしょうか」。

このブログ記事は若干訂正補筆されています。当初の記事には記者の社名が書かれていました。もちろん三大紙も入っています。

新聞社は、そんな事実は無いと抗議しました。入ったけどカメラは構えてないとか、許可を得たはずとか。その抗議たるや、なんとなく言い訳がましいものばかりでした。

その1でも書きましたが、こういった取材に何の意味があるのか。読者や視聴者がそれを望んでいるのかという問題です。

そして、このやりとりに関して、元地方紙の記者が“解説”していました。言い訳と自己弁護に満ちているとしか読めなかったけど。

「読者は望んでいるはず。デスクの厳命。社内的な自らの地位保全」。そう読みとれるもの。

目線が違っている。自分目線でしかない。被害者目線に立ってない。病院内の様子は後から病院の発表待ってからでもいいではないか。

こぞって病院に押し掛ける。そこにある潜在意識は他社に抜かれたくない。遅れをとりたくないという根性。横並び報道の一つの形。みんなで渡れば怖くない赤信号の見本と。

病院の言う「望まない終末」を迎えた被害者の家族の映像をどれだけの人が望んでいるのか。知りたい、見たいと思っているのか。それを伝えないことでの抗議が来たら言い返せばいいのに。

この事件、余波も大きい。被害者の電話番号を加害者家族に警察が教えた。学校の教頭も教えたとか。
被害者宅に行って謝る警察幹部。その内部の様子はテレビが完全に撮影し、放送している。怒る家族の姿も含めて。
テレビが土足で入ったゆえなのか。それともメディアを使っての“制裁”だったのか。

「3・11」以降、被災者が望まない取材が被災地で、なんと多かったことか。伝えることで全国から支援が集まるという言い分がメディア側にはあったけど。それを完全否定はしないけど。

いずれが木で、いずれが森か・・・。

“チェルノブイリ”異聞

  ロシアがウクライナに侵攻し、またも多くの市民、日常が奪われて行く。 ウクライナという言葉、キエフという言葉、チェルノブイリ・・・。 そう、あの最大の原発事故を起こした地名の幾つか。 「チェルノブイリ原発事故」。1986年4月26日。 ウクライナの北部にあるその...