2017年7月21日金曜日

「こんな人たち」がいる光景

「戦後最悪の政権」と言われた安倍政権。多くの日本人は疑念を持つことも無くそれを支持してきた。あの都議選までは。

「大衆は支配されることを願っていた。支配する側は、大衆が見たがるものを提供してきた」。
こんなセオリー、力学が働いているようだった。

都議選最終日。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」。この安倍の一言が、大衆の“支配離れ”につながった。
自分に反対する者を敵視した発言。それは安倍支配から離反する意志を抱かせるには十分だった。大衆は支配者の無様な言動は見たくなかったのだ。

「ひとたち」。個々人を十把一絡げに呼ぶことへの反感。大衆は支配からの脱却に走ったのだ。

世論調査の支持率下落。それは政策の問題ではなくなり、好感度と言う感情の問題へと変化したのだ。
「首相が信頼できない」が不支持の理由の圧倒的多数だったということ。

致しかたあるまい。それが安倍の「本性」だったのだから。

「戦後最悪の政権」と書いた。
続々と問題を起こし、事実の「隠ぺい」を図ることに腐心する閣僚のなんと多い事か。
さらに答弁能力もない閣僚。

日本人は、潔癖を求める特性を持つ日本人は「隠す」「ごまかす」ということに敏感に反応する。

今、数年前にあった出来事を思い出している。
2013年の参院選挙。第一声を福島で発した。

安倍の演説が始まる前、その会場のビルの陰に一人の女性が立っていた。
持っていたのは“総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?”と書かれたプラカード。
その女性は二本松市の寺の副住職の奥さん。子どもを育てている。たしか保育園もやっていたような。

その女性、佐々木るりさんを警備の警察官と自民候補の運動員が取り囲み、プラカードを取り上げ、彼女をその場から遠ざけた。

安倍はそのプラカードを眼にすることも無く、辞めろ、帰れの声を聞くことも無く、「仲間」に囲まれて”気持ちよく“喋っていた。

反対する者が嫌いなのだ。反対するものを攻撃する。性格の為せる所以だ。

もし、彼女がプラカードを掲げてその場にいることが許されていたら、「あんな人に負けるわけにはいかない」と絶叫したかもしれない。

整えられた環境の中で喋ることは得意だ。反対する人、人達と「対話、議論」することは嫌いだ。

宰相としての“資格が無い”ことを一般人は見抜いたのだ。

閣僚たちがさまざま「問題発言」を繰り返している。しかし、何があろうと王様は彼らを庇護しようとする。

それにしても自民党は落ちぶれたものだ。支持率の低下を見た途端に「反安倍」のような言葉を口にし始める。
自分たちに被害をあたえるような力が無くなったと見込んで。

反安倍を言うなら半年前、一年前に言うべきだったのに。なんだか見苦しい。

そして国会の“作法”。相も変わらず「足して二で割る」手法がまかり通っている。
閉会中の予算委の質問時間の配分の“調整”。
慣例は与党2野党8だったのを5対5にしようと言いだし、中を取るような3対7。

「真摯に説明責任を果たす」「反省の上にたって丁寧な答弁を行う」。にわかには信じられない。

“起死回生”を目論んで安倍は人事を行う。夜な夜なの「会食」。
麻生太郎、岸田文雄・・・。下手をすれば離反するかもしれない閣僚とメシを食う。エサで手懐けているような光景。

東に高級料亭で密議をこらす「国民の生命と安全を守るべき政治家」
西には大水害にあい、酷暑の中、食の安全すら懸念される環境の中で、配給される被災者、不明者の捜索を続け、黙々と復旧にあたる自衛隊員がいる。ボランティア作業にあたる「そんなひとたち」がいる。

自衛隊のトップであるべき人が「嘘」の上塗りをしている。

2017年夏の日本の光景。


2017年7月17日月曜日

「ふるさと納税」なるものが理解できない

ふるさと納税制度なるものが導入されたのは第一次安倍内閣の頃だと思う。
それは地方税だ。地方税をどこに納入するかだ。

「ふるさと」と銘打ってある以上、財政が豊かな東京都に居住する人が、地方から都会に出てきている人が、財政事情が赤字化している自分の「ふるさと」に税金を納める仕組みだと単純に理解していた。

法律をよく読んでみると任意の地方自治体とされている。
じゃ「ふるさと納税」じゃないのではないか。好き勝手な地方時自体となるじゃないか。
それって「ふるさと詐欺」ではないかと思った。

3・11以来、「ふるさと」と言う言葉が氾濫した。ふるさととは何か、ふるさととはどこか・・・

親に勘当された夫婦が大阪の外れのほうで男の子を産み、孫が出来たという事で勘当が一部解除となり、兵庫県の姫路で数年間の幼少時代を送った。
姫路大空襲でその家は焼失し、避難先の飾磨の農家の離れで終戦の玉音放送を聴いた。
一家をあげて上京。三河島の“復興長屋”で1年近く暮らし、初台の借地付き一軒家に移り住んだ。
郡山に”転勤“のはめになるまで、そこに住んでいた。

自分にとって「ふるさと」とはどこかと問われた時、答えるすべがない。
でも、やはり東京が故郷だと思っている。

住民税をふるさと納税として東京都に収めるか。とんでもない。
地方交付税不交付団体の東京。財政の豊かな東京・・・。

いつのころからか、このふるさと納税制度が“悪用”されるようになった。

自治体が「納税」してもらったお礼に「返礼品」と称して高価なその土地の名産品を送るようになった。
欲と道連れの納税。
収めた税金の一部が品物となって還付されると言う、悪く言えば税金詐取だ。

返礼品がいい地方を探して、欲と道連れの納税。

どこか竹下内閣時の1億円の地方創生基金に似たものがある。

人口減は拍車をかけている。地方消滅と元総務大臣が書く。

過日、ある大学教授の「超高齢化社会/人口減少社会における人々の生き方の変容」という講演があった。

“合計特殊出生率は東京は1.1です。地方に人を呼び戻さないと”と述べていた。講演を聞いていた人は、その“特殊出生率”なる言葉を理解出来ない。
どっかで解説するのかなと思っていたらレジメ通りに話が進みスルー。

それはあげて「政治の問題だ。政治の怠慢だ」と学究の徒は言えない、言わない。

財政が破綻し、財政再建団体に指定された北海道の夕張市のことを思う。
最小限の市職員。
低福祉、高負担にさらされる夕張市。
都庁の職員をやめて市長をかってでた現市長も、有効な手立てを未だ模索中のようだ。借金の返済期間の猶予をしてもらっただけのような。

人口減は甚だしいはず。“消滅”の危機にさらされている。

夕張市に「ふるさと納税」がされているのか。彼の地の出身者も含めて。

いまだ帰還困難区域を抱え、帰還率は30%にも満たない原発被災地域。
内閣支持率が下がっている。支持が減るのは結構。だけど人口減は阻止せねばならぬ。

東電からは“立地税”は支払われているはず。
でも、双葉郡八町村「ふるさと納税」はされているのだろうか。

30億ものカネをかけて庁舎を新築する町もある。被災地の町政、村政もどこか支離滅裂の傍目から見ての疑問。

いずれにしても国政はどこを向いているのか。地方創生相は何を考えているのか。

真夏の夜の夢はメンデルスゾーンのような優しい響きを伴ってはやってこない。

2017年7月11日火曜日

保存された“記憶”と破棄された“記憶”

加計問題をめぐる国会の閉会中審査。政府の側からは「記憶にありません」が連発された。

ロッキード事件を巡り小佐野賢治が連発した「言葉」。疑念や非難はあってもそれが通用してしまった国会の「負の歴史」。

記憶にありませんが国会の常用語となり、いくら押せども“記憶”という全く個人の属性に当たることが“成り立っている”。それこそ議会制民主主義の破壊行為だ。

国の公文書が1年未満でも破棄されるという方針が明らかになった。
公文書とは、その国の歴史の一部だ。

今の政権が不都合とされる公文書が破棄されるという事は歴史が破棄されることに等しい。

公文書は国立公文書館に保存されるべきものなのだ。たとえそれがメモであっても。

憲法9条を、戦争放棄をうたった部分は日本の幣原喜重郎首相がマッカーサーに申し入れたものだった。
それは国立公文書館に幣原喜重郎日記が保管されており、それが研究者によって明らかにされたからだ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。ビスマルクの言葉を引用した秋葉原でも石原伸晃演説。安倍自民を賢者と誇りたかったのだろうがキミたちこそ歴史に学んでいない。そして歴史を破棄しようと図る。

閉会中審査、前川喜平の答弁は終始一貫していた。理路整然と事の経緯を語り、事実と違うと菅の詭弁を退けた。彼の記憶に基づいた答弁。彼の中には保存された記憶がきちんと保管されているのだ。

数多くの知識を詰め込んできた東大卒の官僚。数年前のことが「記憶にない」ということは有り得ない。すぐに記憶を無くしてしまうのなら官僚としては失格だ。

安倍は「印象操作」と言う言葉を多用した。
人は印象で物事を判断する。
“知らぬ存ぜぬ”を連発する政府の人間に、メモを5分間もひたすら読み上げる大臣に、好印象を持つ人はまずいまい。

前川の正直さだけが印象に残る。
そう、印象という事は極めて大事なことなのだ。

国会の議事録は政権といえども破棄することは出来ない。時々”改竄“をさせることはあっても。

僕は前川に信を置く。福島市の夜間中学、生徒は高齢者が多い。そこに手弁当で出向いてくる男を評価せずに何を評価すればいいのか。

マスコミの世論調査で安倍内閣の支持率は急速に下がった。読売新聞だったか。安倍自身に好感が持てないという人が急増した。

国民大衆は“皮膚感覚”で、得られた情報を加味しながら政治判断を下す。
良くも悪くも「移り気」なのだ。

来月早々党役員人事と内閣改造を行うと言う。安倍の足を引っ張り、印象を悪くさせた稲田や金田を切ると言う。
小手先細工の「人事」で支持率浮揚が図られると思っているのだろうが。
「そうは問屋が卸さない」。そんな気がする。

きょうから施行された共謀罪、先の集団的自衛権などなど。強権的な安倍政治は飽きられ始めたのかもしれない。

我がままで、独りよがりで、お仲間がいないとダメなさみしがり屋の名ばかり宰相。
黒を白と言いくるめるのに必死な官房長官。

自民党の中にはようやく、安倍に翳が見え始めたという事でなにやら批判めいたことをいう奴らも現れた。時すでに遅しの感ありだ。

こんな政治のありさまを、自民党を長年にわたって見て来た、付き合って来た身にとって、そこに巣食う記憶にないほどの見苦しい人々の群れがいることが悲しい。

2017年7月9日日曜日

官僚たちの“ルサンチマン”

ルサンチマンとは元来はニーチェの言葉であり、弱者が強者に対して抱く憎悪や復讐心を鬱積させていることを指す。
今は、それをもう少し幅広く捉えたいし、例えば数年前に盛り上がった反原発運動も東北の民の行動も“ルサンチマン”と呼びたい。

反権力の象徴的言語としても。そして時にそれは爆発するものだとも。

数日前、懇意にしている元官僚と会った。話をした。
田中内閣当時の秘書官を務めた人物だ。
秘書官をやめてから本省に戻り、大使を務めていた人だ。

「都議選の結果には溜飲を下げた。安倍の暴政には辟易としていたから。
このまま行くと日本はダメになると信じていた。
小池と言う人物のことは知らない。都民ファーストなるグループが大勝したことが良いかどうかは別問題だ。」

その日はちょうど首席秘書官を勤め、ロッキード事件で逮捕された榎本敏夫氏の葬儀の日だった。
榎本氏は政務には全くと言っていいほど関わらなかった。役所からの秘書官にすべてを任せていた。

田中内閣で通産省からの秘書官が誕生した。それまでは外務省・大蔵省・警察庁からの秘書官だったが。
通産大臣当時の秘書官を総理秘書官に登用した。日本列島改造論を仕上げた政策通の官僚を。そして通産官僚が秘書官の決席になった。

話しを戻す。
首相の車には秘書官が交代で「ハコ乗り」する。ある日、前述の外務省から出向した秘書官は車の中で言われたと言う。
“あのな、役所はもっともっと強くなければならぬ。優秀な官僚を育て上げねばだめだ。官邸に反旗を翻すくらいの役所にならないと、官邸の意向をくんでいる役所はだめだ。部下を育てろ”と。

“田中さんから車の中で行政学の講義を受けるとは思ってもみなかった。どこで“行政学”を勉強されたのだろうかと不思議だった。それほど上に立つものとしての政治家の在り方を知悉していた人だった。“

“安倍内閣が内閣人事局を設け、人事で官僚を操縦する。そのやり方に憤懣やるかたない思いがしていた。驕りも甚だしいと。
都議選で、都民は反自民の選択をした。あの結果には溜飲が下がる思いがした“と。

元官僚として、政権の中枢にいた人物としての「ルサンチマン」を彼の話しの一端から感じ取った。

“安倍政治”をよからぬものと感じている官僚は数多くいるとも。

明日、前川喜平の「参考人質疑」が行われる。自民党はすでにして前川を「敵」とみなしている。

前川は何を語るのか。

前川は一時駐仏大使館に勤務していたこともあったそうだ。その当時から正義感の強い男だと見ていたという。元大使はそうも言った。

官僚政治をよかれと思って書いているのではない。ただ、官僚の中には安倍政治を快く思っていない人もいるということの事例としてこれを書いた。

いつのころからか、日本の政治は、官僚の在り方含めて、その道を間違えてしまった。

官僚たちの夏、官僚たちの反乱、そして官僚たちのルサンチマン。

都議選の自民大敗を決定づけたのはあの秋葉原での安倍の言動だ。
「あいつらに負けるわけにはいかない」。あいつら、あの連中と国民を卑下した“演説”。

あの会場の辞めろコールも選挙結果も、民衆の「ルサンチマン」だったと理解する。

2017年7月6日木曜日

水の“恐怖”

いままで経験したことの無い大雨。渦巻く濁流。北九州地方を襲った梅雨前線が刺激されての豪雨被害。

被災者の辛さ、悲しさ、苦しさ。
察するに余りある。

経験したことのない豪雨。経験したことが無い以上、その対処も難しかろう。
いや、例え経験したことがあっても自然災害にはなすすべがないことが多い。

一時は何万人、何十万人に対する「避難指示」。
その緊迫性や必要性はわかっても、どこに、どうして避難すればいいのか。
問題はそこなのだ。焦眉の急としての。

いくら日頃から「避難訓練」が真剣に行われていたとしても、災害が発生した時間や環境によって対処の仕方はさまざまだ。

テレビでその惨状を見ながら心が痛む。

まだ大雨は続くともいう。浸水被害にあった家屋や田畑。泥地と化した街や村・・・。わが身の周りを思う。

経験したことの無い豪雨に襲われる。怒り狂ったような激しい勢いの水は1級河川の阿武隈川を決壊させる。堤防から流れ出る濁流は町をのみ込んでいく。

避難所に指定されている場所も浸水の被害を免れない。堤防がどれほど強靭であっても高さがあっても、それらは概ね、過去の「経験値」に基づいて作られている。

避難指示と避難場所と避難方法と。

「避難指示」と「経験の無い」と言う言葉は否応なく「3.11」を思い起こさせる。
想定はあったが実施されていなかった津波対策。経験したことの無い大津波。

それに起因する、経験の無さが招いた「原発事故」。

今起きている大水害が福岡や長崎、大分で無く、原発がある佐賀県を見舞っていたらどうなっていたか。

福島の時の「避難」は、場所も方法も無い。勝手にどこかに逃げてくれ。というものだった。
もちろん受け皿とてない状態で。
福島の原発事故の経験は教訓はたぶん、どこにも生かされていない。お茶をにごすような真剣さを欠くお座なりの「避難訓練」。

このところ地震も多発している。

とにかく我々は災害列島に住んでいるということ。
自然の脅威の前には対処する術がないという事。

あらたな「経験」をしたという事。

国土強靭化法がどれほどの「国民の生命と財産を守る」という政治の大原則に適っているのか・・・。

被災者への支援はどうなっていくのか。

愚者も賢者も無い。経験も歴史もない。

何時、何が起きてもおかしくない「災害列島」に我々は生きているのだ。

自然には“意志”は無い。
戦争には“意志”がある。

今の政治は、自然災害を一過性のものとみなしている。将来も未来も常に自然の災禍が予見されるとうのに。

自然災害への対処を政治の根幹に据えられないものだろうか。



“選挙は水もの”と言われた。“水商売”と自虐的に自らを言う議員もいた。

都議選の結果に政権は何も学んでいない。何も懲りてもいない。経験したことのない大敗を喫したにも拘わらずだ。
選挙には国民や都民の“意志”があった。

水は怖いのだ。災害の事だけでなくとも。

大雨が過ぎ、晴れ間がのぞいたら、今度は気の遠くなるような復旧作業が待っている。政治の世界での「復旧作業」はあるのか。

「俺を連れて避難してくれよ」。犬の眼が訴えかけてくる。

方丈記を思う。そして政権には平家物語を重ねる。

2017年7月3日月曜日

都議選の“藪の中”

小池百合子率いる「都民ファーストの会」なる会派がいきなり55議席を獲得した。都議選に限っては”友党“とした公明党も23議席とほぼ完勝。
完敗した自民党には悲壮感すら漂い、安倍はお決まりの「深く反省」を言う。

安倍の発言、森友・加計にまつわる疑惑。前川の乱、稲田の失言、豊田の暴言。
それらが自民票を無党派層の票を小池新党に向かわした。と各マスコミは書く。
それは自民敗因に間違いは無いが・・・。

でも、ちょっと待てよ。この結果が国政に、政権にどんな影響、変化を与えるのか。

安倍にとっては選挙結果は「どうでもよかった」のかもしれない。
「都民ファースト」という言葉は、いかにも聞こえがいいが、トランプのアメリカン・ファーストと同じく、“自分たちがよければいい”“それ以外は敵」という言動を想起させる。

ま、ネーミングがどうこうとだけ言うつもりではないが。どうも”身勝手“さが知事選からの”しこり“が、いかにも都議会自民党からいじめられていると映る小池が”平成のジャンヌダルク“に思われたのかもしれない。

機を見るに敏、政界の渡り鳥。そんな彼女へのイメージが抜け切れない。
自民党と彼女の間になにがあったのか。その真相はまさに芥川の小説にあるように“藪の中”だ。

彼女は日本会議に名を連ねていた。「お試し改憲論者」だった。きょう、都民ファーストの会の代表を、「二元代表制」と言われないために辞任し、後任には側近だった 小池の特別秘書でその会の会幹事長である野田数を当たると言う。

野田数はいわば“極右”の人間だ。改憲論者であり、大日本国帝国憲法復活論者だ。

今朝のモーニングショーで玉川徹はいいところを突いていた。

「小池代表は元々自民党。思想的にも安倍自民党に近い。補完勢力になりうる。都民は自民党に対決するとして選んだが、今後の展開で補完勢力になる可能性がある」


壮大な“闇取引”が小池と自民の間にあったのかもしれない。

新しい緑の風が都議会に、都庁に爽やかに吹くと信じるのは早計だ。

国政では自公という政権与党に与し、なにやら安倍の「ポチ」のような公明党。
今度の都議選では自民を敵にまわし、小池と組んだ公明党。
小池と組んだ方が有利だと踏んだのだろう。

都議会はある時期、公明党の“牙城”だったような時がある。公明党が都議会に進出した時、竜 年光という猛者がいた。
公明クラブと名乗り、初めて国政に、参院に進出した創価学会政治団体。
黒柳明など野党としての猛者がいた。

公明党国会議員も都議会の竜 年光にはかなわなかった。学会の地位は竜の方が上だったのかもしれない。
しかし、彼は学会の「教義」の対立で、公明党を追われる。

矢野絢也にしても似たようなケースだ。

鋭い嗅覚をもって権力の側に身を置き続ける公明党。

かつて公明党と創価学会の内部を暴露した本、藤原弘達の「創価学会を斬る」が事実上出版出来なかったという“言論出版妨害事件”のことが想起される。

公明党、創価学会、これしても“藪の中”いや“闇の中”のような存在だ。
公明党が付いている限り安倍君は“安泰”なのかもしれない。

都政と国政はねじれているのか、どこかで一本に縄はつながっているのか。

そう、政治の世界はいつの時代でも“藪の中”なのだ。

2017年7月1日土曜日

7月の鬱陶しい幕開け

梅雨の季節であり、いささかの異常気象でもあり、豪雨が列島を見舞っている。
土砂崩れがいわれ、河川の氾濫もいわれる。

きらめく太陽が降り注ぐ夏。その前に通らなければならない関門か。

”乱高下“する気温、気圧。
年齢を経るごとに、変わる季節は体調の不具合を伴う。
時には頭痛、時にはめまい、そして何よりも気力の低下。

鬱陶しいのはなにも気候だけではない。
「世に倦む日々」と他言を借りる訳ではないが、世の中のさまざまなことが鬱陶しいこと限りないのだ。

特に政治。政治家。

このところの「暴言」「失言」をめぐる話題の数々。わざとやっているとも思えてしまうような、マスコミの“餌食”となるようなことの数々。

それを人は「暴政」とも呼び、「我執」ともいう。連綿として地位にしがみついているのだから。
そして言行不一致の数々。

都議選の合間をぬって安倍はきょう飯舘村を訪れた。介護施設を視察した。
川俣にも行き、商業施設を見た。

「皆様の声を受け止め、さらに復興を進めたい」。

彼が民草の声を受け止めた事例は過去あったのか。


たしかマックスウエーバーだったか。いやジョン・スチュアート・ミルだったか。

「普通、一国の国民は自分たちの器量にあった国会議員しかもてない」という“金言”があった。

いま、その言葉を申し訳ないが訂正させてもらう。
「一国の国民は、自分たちの器量以下の政治家しかもてない」と。少なくとも日本にあっては。

東電の裁判が始まった。3人とも無罪を主張している。
潔さ、という言葉がある。

「責任」を認めたらどうなのか。津波の予想問題だけではない。
今尚苦しんでいる福島県民がいるということ。
子供は「いじめ」の対象にされているということ。


社会的責任を負うべきだと思うけれど。

とにかく、「作業」はもろもろ進行している。しかし、遮水壁、凍土壁の問題では規制委から叱責を受けた。

懲りない面々の東電上層部。

年齢のことをぼやいた。好んで年を取っているわけではないが”高齢“は自然の摂理だ。抗い難い。

高齢者の交通事故が増えていると言う。高齢者には安全機能車限定の免許しか与えない、80歳以上には再試験も導入する。

警察庁はそんな検討に入ると言う。
自分だけのことに限って言えば、「安全機能搭載車」を買う金は無い。
まさか国が「補助」してくれるなんてことは有り得ないし。

交通事故の防止。もちろんそれに異論はない。ぼやきのようだが地方都市ではいかに高齢者といえども車無しでは生活できない。

高齢化社会だ。高齢者の人口分布は増えて当然だ。そして人口減。
数字の比較では高齢者の事故が多発しているとされるが、それは以前と変わりがない数字だ。高齢者が増えれば必然として有り得る数字の問題。

車をめぐる「社会システム」の問題。ありきたりの言い方だけど、多角的な視点で論じ、“受け皿”めぐる検討、議論にまで発展させてもらわないと。

車一つをとってのことでもなんか間尺に合わない憂鬱さを覚えてしまう7月の始まりの日。

この日は数年前、安保法制が閣議決定された日でもある。


2017年6月30日金曜日

「誤解」という言葉の「誤解」

とにかく、最近の政治家、特に自民党の要職にあるものの日本語がひどすぎる。
もう一回中学生からやり直しておいで、と言いたくなるような。

安倍は先の国会で、「でんでん」に続く、奇妙な“日本語論”を偉そうに展開した。

“「そもそも」というのは「基本的」という意味だ。私が調べた辞書にはそうある。あなたは知らないだろうが。”居丈高に質問者を見下し、馬鹿にするような言い方をして。

都合が悪くなると、なんでもかんでも喧嘩腰になって相手を攻撃する、攻撃にならない口撃。

それが自分の無知をさらけ出していることにも気付かずに。枚挙に暇がないくらいに起きる“舌禍事件”。

それを引き起こす彼ら、彼女らのあまりにもの無知、無教養、無知性。
その様を嘆くこと筆舌に尽くしがたし、だ。


もっぱらの話題は稲田防衛相の都議会選挙応援演説での発言。法律家のくせに法の趣旨を理解しておらず、違法すれすれの発言を度々。

舌禍事件を起こした人の後始末には決まった“用語”がある。

「誤解を与えたとすれば、謝罪して撤回します」。
「誤解をまねきかねない発言だった。撤回します」。

誤解とは「意味を取り違えること。間違った理解をすること。思い違い」と一般人が使う広辞苑という辞書にはある。

彼ら、彼女らの言う“誤解”とは、国民が意味を取り違えた、間違った理解をしているという“避難の言葉”ということになる。

だったら“誤解”を理由に謝ったり撤回しなくてもいいじゃないか。
発言を来た人が意味を取り違えたのだから。

国会での発言を”撤回“するということは、その発言を議事録から削除するということだ。

演説会での発言を撤回すると言ってもその“証左”はどこにも記録されない。

不用意な言葉、不必要な言葉、意味不明の言葉によって、政治はますます劣化し、泥沼状態になる。

主題とはちょっと違うけれど、あのギャーギャーわめいて秘書にパワハラ被害を与えた女性議員は入院したと言う。

どくにあるのだろう。雲隠れ用の病院が。

「金目」で“誤解を招いた石原伸晃が、こともあろうに”博識“を披露した。
ドイツの宰相ビスマルクの言葉を引用した。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

長い歴史を持つ自民党を支持せよということか。
待てよ。過去の金言・格言がすべて当を得たものではないし。

安倍は完全に歴史認識を歪曲し、修正しようとしているのだぜ。
学べないよ。安倍の歴史観には。

安倍が明日は福島に来ると言う。何をしに来るのかわからないが。
都議会議員選挙の投票日前日。
候補者の応援に走り回るのが党首であろうに。

福島のどこかで「誤解発言」をしないことを祈る。
東京電力の新社長は「避難区域」を「帰還区域」を間違っている。
それは認識の欠如、勉強不足だ。
いや、彼らにとっては「福島」とは、いまや後始末の金食い虫であるという事なのだろうか。それとも、東電を誤解しているのかな。

誤解された、誤理解された「誤解」と言う言葉は悔しいべな。

2017年6月26日月曜日

「保身」のために何でもするの図

安倍と加計学園の話しだ。
加計学園に獣医学部を新設できるようにするため、安倍とその側近は“公文書”を改竄させた。他の大学からの申請を出来ないようにした。

そのことが指弾されるととんでもないことを言いだした。
「獣医学部の新設を全国展開させる」と。

そして昨日になって「あれはカットなっていったものだ」とテレビ番組で“釈明した”という。

カットなって政治についての発言をする。錯乱状態というしかない。
国民はたまったもんじゃない。
首相の発言は国民の日常に影響する。
自分の感情を発露させる政治。それを政治とは言わない。

彼の頭の構造では、獣医師の充足度などは眼中に無いのだろう。
加計だけを特別扱いしていないと「印象操作」をするためだのだろう。

我が家は犬を飼っている。時折動物病院の世話になる。郡山では過当競争だと言う。トリミングなども併設し、経営の安定を図っているようだ。

獣医師が足りないとすれば、それは家庭で飼っている犬、猫の医師でなく牛や馬のような動物を診療する医師だ。

原発事故後、「被ばく牛」は診療、治療の対象から外された。殺処分を命じられていた。
放射能汚染された牧草を食べながら、命を長らえている牛を飼育している人が福島県にはいる。

獣医学部新設の全国展開。教員は足りない。施設を作るのに多額の税金が投入されることになる。

獣医師界はもっと声を上げなければ。粗製乱造の獣医師。足りていると言うのに。

今、人員が不足しているのは介護士だ。満足な介護を受けられる人は少ない。
高齢の介護士は多くが腰痛に苦しみ、その職を去っていく人も多いと聞く。
安倍の保身のために国策が歪められ、国の支援が必要なところにはカネが回されない。

政(まつりごと)の基本がないがしろにされている。子どもの貧困対策もそうだ。
政治を私ししている安倍の権力乱用。錯乱した政治。


錯乱は私物化につながっている。

その中身は別にして、自民党の改憲草案を無視して、公明党に配慮して「加憲」を言う。
9条はそのままにして、自衛隊を明記した3項を作るとか。

改憲論議を錯乱させている。「否認」されてもさほどの異論を唱えない腰抜け自民党。
政党政治の否定にもつながっているというのに。

ばかばかしい“錯乱”をもう一つ。

北朝鮮がミサイルを発射したらJアラートで全国の自治体へ。自治体は防災無線で「避難勧告」。

頑強な建物や地下に避難しろ。無い場合は頭を隠して地面に伏せろ。家の中にいる時は窓の傍から離れろ。

そんな「政府広報」がテレビや新聞で流されていると言う。大手の広告代理店が扱っているのだろう。費用は4億円。

大手代理店の“要請”を拒否できない。そんなばかばかしい“CM”を流すことがメディアの自殺行為だとわかっていても。

これが「国民保護」とうことかい。
他の狙い、目論見があるに決まっている。

ミサイルの脅威は、その破壊力は、テレビで他国の悲劇が伝えられる中で多くの国民は知っているはず。子どもだって知っている。
なんらの「自衛手段」にもなり得ない。

我が家は窓を閉め切っていると防災無線は聞こえないんですけど。

「北の脅威」を喧伝する錯乱行為に巻き込むのか。

B29が落とす爆弾の中を防空頭巾被って逃げまどっていたあの空襲時を思い出す。

安倍の「錯乱」を書いていたら、こっちの頭が「錯乱」してきた。

2017年6月24日土曜日

「忠恕」という言葉

天皇陛下の座右の銘は「忠恕」という論語の中にある言葉だそうだ。
忠恕とは「自分の良心に忠実であり、他人に対して思いやりが深い」ことを指す。「仁」という言葉のもとでもある。

3・11後両陛下が被災地を再三訪れ、励ましの言葉をかけたのも、忠恕の精神を実践されたということではないか。熊本を訪れたこともそうだ。

そして何よりも数度にわたり沖縄を訪問され、戦没者の霊に頭を垂れられたのもその言葉によるものでは無いかと思っている。

皇太子時代も摩文仁の丘を訪問されている。
その時のことを詠ったのがこんな句であるという。

摩文仁 昭和五十年
ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて

 生い茂る木や草の間の戦跡をめぐり、戦争のことを繰り返し繰り返し思った。おういう意味なのだろう。

昨日は沖縄慰霊の日だった。その前夜には琉球のしきたりにならって“前夜祭”がある。島民は唄い、踊る。
そこで唄われるのがこの陛下の皇太子時代に詠んだ句、それを島民は、天皇陛下の「琉歌」と呼ぶ。

今でも昔作られた「ざわわざわわ」ではじまる「さとうきび畑」という歌が多くの歌手によって歌い継がれている。
作者の寺島尚彦さんが50年前に作った曲。

摩文仁の丘に続くサトウキビ畑を案内された時、地元の人の言葉に衝撃を受けたという。
「この土の中には戦没者の遺骨が埋もれたままなんです」。

畑を吹き抜ける風の音に戦没者たちの嗚咽(おえつ)と怒号が聞こえたという。

音楽家としてそれを書かねばならないと決意したという。

反戦歌ではない、鎮魂歌として。

「サトウキビ畑を逃げ惑い、茎をかじって生き延びた一人一人の魂の記憶に訴えかける。歌い続けることが不戦の誓いになる」。島民の人はそう言っているという。

天皇陛下の中には「言葉が生きている」。

昨日の式典には安倍首相も参列した。翁長知事との間には、知り得る限り同胞と言う雰囲気は全く感じ取れなかった。

空港での見送り含め、二人は果たして言葉を交わしたのだろうか。官房長官は相変わらず”敵意“をむき出しだ。対立を煽っている。あたかもそれが敵国であるかの如く。

数日前の記者会見で、安倍は「信なくば立たず」という言葉を使った。
論語にある言葉である。

政治は国民大衆の信頼なくして成り立つものではないと言う意味だ。
「民無信不立」。 安倍がそれを座右の銘としているとは思えない。

格好つけの言葉に聞こえた。付け焼刃の。

口さがない友人が言った。
「晋なくば立たず」だよ、と。「俺がいないとこの国は成り立たないと言っているんじゃないか」と。

今の自民党の政治家のなかの、あまりにも酷い暴言、失言、全くの無知性。

政治は言葉から乱れ、腐敗していく。

ふと思う。政治家への登竜門とも言われた「松下政経塾」は、今、どうなっているのだろうと。
そこから輩出されたまともな政治家がいるのかどうか、不明にして未だ知らない。

2017年6月20日火曜日

「首相記者会見」という“詐術”

国会終了ということで首相の「記者会見」があった。記者会見と銘打たれているものの、あれは、いや、いつもだが、記者会見で無く単なる「演説会」だ。
首相と記者とのやりとりがあまりにも少ない。

僕がああいう場にいた頃、会見は「内閣記者会」が仕切っていた。幹事社が会見前に各社のキャップと質問項目を打ち合わせ、それを官邸報道室を通じて首相秘書官のもとに上げていた。

幹事社の代表質問、予定された質問ではあるがその答えがこっちにとって“不本意”なもの、つまり質問に答えていない、答えが“甘い”、答えに“不足”があれば何度でも質問”出来た“。
つまり、二の矢、三の矢も放てた。

代表質問が終わると各社の質問。それは幹事社が振る。あちこちから声が上がり、他社であっても“援護射撃”するような質問が相次いでいた。

会見場はどこか「真剣勝負」の様相もあり、質問する人、ただやりとりを書く「トリテキ」なる役割に別れていた。トリテキは若い人、質問はキャップか次席。

官邸が新しくなってから、記者クラブや会見場の模様は知らない。

プロンプターなんてツールは無かった。答弁はメモをもとになされていた。
首相の“冒頭発言”なんてうものもほとんどなかった。

細川政権から記者会見の様子はすっかり変わった。プロンプターがあり、質問者は首相がペンで指した。

そして首相記者会見は、官邸仕切りの「官制会見」になり、まさに「岩盤規制」のように“規則”が定められた。

いつも笑ってしまう。
官邸の広報官らしき人物が言う。
「ご質問のある方は挙手をして、発言の際には社名、お名前を言ってからご発言を」とくる。
手があがる。司会者は「何々さん」と指名する。
名乗るまでも無く、そっちで知っているじゃないか。

「質問は一人一問でお願いします」とくる。あやふやな、はぐらかしの答えであっても二の矢は放てないのだ。
しかも時間制限あり。NHKの枠に合わせて。
2~3人でそろそろお時間となる。

冒頭発言が長すぎるからだ。それは記者会見の発言というより、演説会のようなものだ。

安倍は時間制限と質問制限、その「会見規制」に救われている。会見が「形骸化」しているのだ。その「岩盤規制」を記者の側はドリルをもって打破しようとはしない。

記者会見の前に、おおよそのマスコミの世論調査の結果が伝えられていた。
小心者の安倍は実は世論なるものを気にしている。だから冒頭発言は妙に殊勝であり、やたらと「反省」を口にした。

反省するには遅すぎる。
反省は何の意味も持たない。
既成事実は出来上がってしまっているのだから。

「加計」のカの字も口にしなかった。会見の途中には「森友強制捜査」の速報字幕。

安倍の「反省」は体裁を繕うだけの、その場しのぎの逃げ口上だ。
「丁寧な説明」だって何度も口にされながら、実行されたことは無いのだから。

加計問題をめぐり、菅官房長官は「怪文書」と前川の告発を無視した。
怪文書という言葉が独り歩きしているとも言い放った。
逆を言おう。
安倍の「反省」と言う言葉だけが独り歩きしていく。実践を伴わない言葉が。

安倍が反省すべきは、国会運営の可否だけではない。
自らの政治姿勢、国家観であるべきだ。

殊勝なふりだけの「反省」、しかしそれには具体性が皆無だ。
反省して何かを改めるということか。

地元紙福島民報の世論調査、県民の意識調査。
安倍内閣支持は30,6%、不支持は51,7%。

福島県はかつて保守王国と言われた。安倍を「保守」と思っていない人が多くなったということか。

「昨の非を悔ゆる者は之れ有り。今の過ちをあらたむるものは鮮(すくな)し」。
言志四録にある言葉だ。


2017年6月18日日曜日

「一般人」という”差別“、

国会は幕を下ろした。「形骸化した国会」というまやかしの舞台は。
悪魔が撒いたようなどす黒い霧の数々は何ら晴らされぬままに。

1961年に丸山真男は「現代における人間と政治」という論文を書いた。
その中でにドイツ系アメリカ人のジャーナリスト、ミルトン・マイヤーの著書
「彼らは自由だと思っていた」の一節を引用し、こう書いている。

“ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた”。

マイヤーの著作の「下地」は、マルティン・ニーメラーの詩にある。

「特定秘密保護法」時にニーメラーの詩を引用したが、「共謀法」が強行成立した今、あらためてこれらの文を噛みしめている。

「自由」が霧の中に奪い取られていっているような思いがある。

テロ対策を隠れ蓑のようにした共謀罪。もしかしたら安倍自身もこの法律の持つ恐ろしさをわかっていないのかもしれない。
安倍の中の判断基準は、オリンピックを安全に成功裏に終わらせるために必要な法律だと言うことだけなのかもしれない。

たかだか2週間のオリンピックのために将来の日本の社会が、ニーメラーやマイヤーの恐れた社会になって行くかもしれないのだ。

「一般人には適用されない」と答弁したかと思うと、そうでもないようなことも言う。
与党の政治家自身もよくわかっていないのだ。

「一般人とは」。そんな議論が真剣に交わされた様子はない。

国会議員、官僚、警察官。それ以外は一般人ということか。一般人と言う言葉自体、どこか国民を”身分差別“し、見くびっているような。

一般的に言えばー。枕詞のように言われるがあまりにも曖昧模糊とした表現。
芸能界―。お相手は一般人。だから明らかにしない。

安倍政権を支持する弁護士に聞いた。あなたは一般人かと。一般人ですと明言した。

医者は一般人なのかそうではないのか。教職員はどうなのか。マスコミ人は・・・。

そんな全く素朴な疑問さえ明らかでは無い。前議員は、退職公務員は・・・。

杞憂であって欲しい“極論”を言う。

日本では犯罪が増えるだろう。警察官の防犯関係の警察官まで「公安」を担当させられるのだから。

警察がこの法律をどう思っているのか知りたい。
スポーツジャーナリストはいう。「オリンピックをダシにされているようで選手たちが気の毒だ」と。

冒頭に書いたことに戻れば、「他人事と思っていたが、組織的犯罪集団のことだと思っていたが、気が付いたら一般人の自分にもそれが及んでいた」。そんなことにもなりかねない。

それにしてもこの共謀罪のことを知らない人が多すぎる。
平均的国民レベルとはいわないが。

御油断召されるなよ、一般人。

2017年6月15日木曜日

「11人の怒れる男」に模して

とにかく我々に「共謀罪」という法律が適用されることになった。
それがどんな形で、どんな場合に適用されるのか。

全く五里霧中だし、その法律を知っている、理解している「一般人」はどれくらいいるのだろうか。

安倍政権は野党を舐めきっているし、国民をも舐めきっている。

「なめたらあかんぞよ」と任侠映画のセリフを吐いてみる。
単なる腹いせに過ぎないが。

「中間報告」という手法。それは違法ではない。国会法にもある。
“国会対策”というあの独特の世界ではあの手この手の手法が考え出される。

参議院手帳には憲法も国会法も、衆議院規則も参議院も記載されている。
さらには「先例集」という”虎の巻“みたいなものもある。

それらに熟知していれば安倍自民が、国会運営のいわば“奇策”に出ることも野党にとって想像の範囲であるべきだった。
手練手管を要する国会対策においては「有り得る」ことだったのだ。

それを自民から通告されて慌てた野党には国会対策のプロがいない。
あの奇策を思いついたのは、想像するに自民の国対の職員のはずだ。
“知恵”を出したのだ。

しかしそれは例えば野党が「寝て」しまいにっちもさっちもいかなくなった時に使われる奇策なのだ。

「国会は男を女に変える以外は何でもできる」。

「数の力、数の力」と言う。絶対多数を自公が持っているからだという。

ならば野党だって少数は少数なりの“知恵”の出し方だってあったのではないか。

国会は議論の場であるべきは当然だが、そこに議論を存在させない安倍政権。

数の力で押し切ると言うのはまさに「暴力」以外の何ものでもないが。

昔あった映画を思い出していた。
「11人の怒れる男」という映画。

殺人罪で有罪がほぼ確定していた17歳の少年。その裁判での陪審員の議論の物語。

12人の陪審員のうち11人は有罪派だった。11対1だった。
一人ヘンリーフォンダが演じる陪審員が、有罪に疑念を持ち、それこそ徹夜の会議を続けて、一人一人を議論と説得で考えを変えさせ、なんと気が付いたら1対11にし、最後は全員が無罪の意見に集約された。そんな映画。

この映画を模したような「国権の最高機関」のなかでの議論は出来ないのだろうか。
もちろん答えは「ノー」だ。

日本には制度としての見せかけの「民主主義」はあっても真の、真理としての民主主義は存在しないのだ。
今にはじまったことではないが。

世論調査を見ると「なんとなく安倍」「他に適任者がいないから安倍」という層が多い。

安倍に代わり得るような人がいればその層はひっくりかえるかもしれない。
人材の輩出、安倍に代わり得る人物。

いない。とうことは承知の上だが。

安倍が乱暴なことをするなら野党も乱暴をすればいい。
まだ会期はある。
野党全員が「議員辞職」をするということだ。

それは「国民の負託」に背くという議論も出てこよう。
でも「暴」をもって「暴」に対処するってこともありなんじゃないか。

「こんな国会やってられないよ」

既成政党は飽きられている。新たな政権の受け皿つくりに、そんな奇策だってありなんじゃないのか。という「一般人」の“暴論”だ。

メディアはこぞって意味をなさない表現をする。
「攻防」という常套語。
どっちが攻で、どっちが防なのだ。

メディアは単なる傍観者でいいのか。

「安倍1強」をもたらしたのは選挙民、国民だと決まり文句のようにメディアは言う。
今の選挙制度のもとで国民にどれだけの選択肢があるのか。

メディアは”忘れる“ことを忘れて、継続してこの政治の有り様を伝え、報じ、論ずるべきだ。

一連の流れと言ってもいいが、「加計問題」での“再調査”結果。文科大臣も官房長官も“偽証罪”にしてもいいのじゃないかな。
さんざんしらを切っていて。

これもどこか共謀罪の先行きを暗示しているようにみえるのだが。

2017年6月12日月曜日

「1984年」と「2017年」

ジョージ・オウエルという作家が書いた本に「1984年」というのがある。

その新訳版が今隠れたブームだと聞く。

1984年と2017年は、あまりにも酷似している。

小説「1984年」の要旨はこうだ。

“ビッグブラザー”という絶対権力者がいる。その権力者の意向に反する思考は許されない。ビッグブラザーがその国を管理、支配している。
彼に反発する“思考”はもとより、自由な恋愛も、個人のメモ・日記すらも残しておくことは犯罪である。彼の支配に不都合な存在や事実は、あらゆる記録から抹消され、書き換えられる。

「なかったこと」にされる。

その社会に生きている人は“二重思考”を要求される。自らが、だ。

反抗・抵抗する者には過酷な運命が待っている・・・


この“主人公”、ビッグブラザーは、スターリンやトロツキーを模したものだ。
最初は反共小説とされていた。
トランプ政権が誕生してから、この本は、いわば反トランプ本として読まれているようだ。

トランプと安倍晋三は、もしかしたら前世は“兄弟”か“双子”だったのかもしえない。
思考回路、言動、やり方。多くの部分で酷似している。強圧的であり、虚偽に類する言動が多い。

FBI長官の解任劇でそれは如実に示されている。

この本は、今の、2017年の日本にも当てはまりそうだ。

あったものをなかったものにする。あったことをなかったことにする。

「蕎麦屋の問題」、モリ(森友)、カケ(加計)に見るが如くだ。
“最高権力”と前文科省次官との問題。

官僚の”正義感“。

どうも日本は「1984年」に迷い込んでしまったようだ。1Q84かな。
月は二つあると言われれば一つしかないものを二つとしなくてはならない。

大統領就任前のトランプのもとになぜいち早く安倍は参上したのか。それが可能だったのか。
安保や防衛問題が喫緊の課題としてあったからかもしれない。
経済問題もあったのかもしれない。

政治手法について考え方が一致し、お互いの親密な関係を「誇示」した。
そりゃそうだ。“前世”をたどりあったのだろうから(笑)。

また明日にでも北朝鮮はミサイルを発射するかもしれない。
北朝鮮はアメリカが目標だというが、否応なく日本も巻き込まれる。
北朝鮮と日本は、アメリカがそこに“介在”している限り、好転する気配は皆無だ。

拉致被害者は帰ってこない。

それを判りきった上で、安倍は襟にブルーリボンを付けている。

何もしていない、しようとしないのにそのリボンを、バッジを付けていること。
それこそ「印象操作」ではありませんか。

大統領がどうであろうとアメリカ国民の間には、民主主義が根付いていることを過日のテレビ、サンデル教授の白熱教室を見ていて知った。

トランプ派、反トランプ派に別れての討論。
それぞれが自分の考えをきちんと持っており、反対派の主張にも冷静に耳を傾け、“自己撞着”に陥ることなく、お互いを「個人」として尊重し合っていた。

そこにはむやみに罵り合うと言う光景はなかった。

「民主主義」の姿があった。それは今の日本では見られない光景だった。

日本の民主主義とは何か。あるのか、ないのか。

それにしてもメニューに「モリ」と「カケ」しかない安倍蕎麦店。
やがて客足は遠のくのかも。

おソバ(傍)用人がパラパラと海苔をふりかける努力をしても。

2017年6月8日木曜日

「美しい国」という“欺瞞”

安倍晋三が第一次安倍内閣を作った時、たしか「美しい国、日本を目指す」というようなことを言った。その言に「感動し賛意を送った」人も多々いる。

「美しい国」とはなにか。その“正体”はついにわからずじまいであり、その「安倍語」も雲散霧消した。

美しい国の概念の中には「美しい日本語」も入っているはずだ。

にもかかわらず安倍が発する言葉は余りにも醜く、欺瞞に満ちている。

第一次内閣を突然放り出し、辞職したのは病気が理由だった。「なんとか大腸炎」という病気。その割には顔から受ける“印象”は健康そのもののようだったが。

「アサコール」という薬で体調が回復し、復権した。
そんなに効く薬なのだろうか。彼の日程を見ると、外遊を含めてかなりの激務である。「アサコール」を常用しているのだろうか。

クスリには「抗体反応」というのがある。服用し続けていると効き目が薄れ、さらなる“劇薬”を使用しなければならないはずだ。

たまの人間ドッグ以外に彼が医者で健診を受けたと言う日程はない。薬はどこから処方されているのだろう。医師は無制限に薬を処方するはずがない。

摩訶不思議な“印象”を受ける。

「国会とかけて何と解く。蕎麦屋と解く。その心は」。「モリとカケが飛び交っている」。

さっき浮かんだ駄句。森友・加計。

文部科学省の前次官、前川喜平が加計をめぐる官邸からの圧力を資料文書をもとに白日のもとに晒した。
官邸は「怪文書」と位置付け、確認を拒んだ。

確認できないと言うのは「無い」ということではない。無いと言えば嘘だ。
だから「確認」ということばで逃げをはかり続けている。

あげく、”下ネタ“もどきのスキャンダルを捏造する。大手新聞社とつるんで。

官僚たちの反乱。そんなことを先頃書いた。“たち”も的中した。前川に続く官僚が登場する気配もある。
先の退陣劇の理由は体調では無く、大きな力が働いていたという見立てがある。
その力の一つに”財務省“の官僚の”反乱“があると指摘する向きもあった。

大蔵省・外務省・内務省、その三つの役所さえあれば十分だ。一時、永田町や霞が関で言われていた「行政機構」の”定説。
三流官庁の文科省の役人の”反乱“は鎮圧出来るとでも思っているのか。

“「国民を無視し、一切聞く耳を持たず、情報を隠蔽し、嘘を重ね、友を優遇し、敵と見れば権力を使って追い落とす」。それが安倍政権の姿だが、このまま走りきれると思っているのだろうか。こんな悪政はかつて無かった。誰か暴走を諌める人はいないのか。民主国家と暗黒独裁国家の分岐点、正念場だ。”

著名な落語家がネットに書いたもの。正鵠を得ている。

サイコパス安倍はその本領をいかんなく発揮中だ。

「印象操作、印象操作」と連呼する。ちょっと前は「レッテル貼り」だった。

印象操作とは自分が人からよく見られようとする行為だ。印象を良くしようと意を注ぐ行為だ。
あきらかに日本語の「誤用」だ。
美しい日本語とは正しく日本語を使うことだ。

「でんでん」「ばくしん」。最高権力者が使う間違いだらけの日本語。造語。

若者が判読不能の「若者言葉」を発するのも、上から下までの“言葉への蔑視”のあらわれだ。

前川喜平に”責任“があるとすれば、この国の教育行政を司る役所として、どこかで「日本語教育」に手を抜いていたことなのかもしれない。

2017年6月4日日曜日

「真理」と「自由」

中学生の時、英語の授業で習った英文がある。

「リバティー オア デス」。自由をさもなくんば死を。

As for me, give me liberty or give me death

“余には願わくは自由を与えたまえ, かなわずば死を選ばん”。

アメリカの独立戦争時、バージニア州の弁護士パトリック・ヘンリーが州議会で行った演説だ。
「自由と権利を失いたくないのならば、それを守るために戦わねばならぬ。
諸君は平和、平和と叫ぶかもしれないが、それはもうここにはないのだ。戦争は、既に始まっているのだ。
誰がどの道を選択するかなど、私の知るところではない。しかし私はこの道を選ぼう。おお、神よ、我に自由を、しからずんば死を与えん」。

この時から、その文章に感化されてか、「自由」ということを再三考えるようになった。

東京、永田町。国会議事堂に並んで憲政記念館があり、その隣に国立国会図書館がある。さまざまな書籍刊行物が所蔵されている。

その図書館の2階ロビーに初代館長だった金森徳次郎が揮毫した額がある。

「真理が我らを自由にする」という言葉だ。

金森徳次郎は大蔵官僚から内閣法制局長官を勤め、国会議員となり国務大臣も歴任した。
図書館が完成した昭和28年、初代の館長に就任した。

国立国会図書館法という法律の前文にはこう書かれている。設立の理念が。
「真理が我々を自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和にとに寄与することを使命として、ここに設立される」。


今、永田町に生息する国会議員で、この図書館に出向いて、何かを学ぼうとした人がいるだろうか。
皆無であろう。その存在すら知らない人もいるように思えてならない。

真理とは何か。難しい命題だ。
広辞苑には「本当のこと、まことの道理」と平易に記述されている。

真理を探究するのは学問の場だ。
国会とは政治の真理を議論、追求し、真の政治を実践する場だ。

およそ今の国会で交わされている間違いだらけの言葉の応酬。
レッテル貼りだの印象操作だのの「安倍語」による決めつけ。

今の政治家には「真理」なるものは存在しない。

同音異議語で真理を心理に置き換えると安倍政治はわかりやすい。
彼を語るに政治学者をもってしては語り得ない。
心理学者をもって語らせれば「サイコパス」という解説・分析が当てはまる。

“嘘を平気でつく。しかし、それを嘘だとは思はない”という心理分析。

独裁が民主主義だと思いこんでいるサイコパス。

国民の自由を限りなく剥奪することもいとわない人。

真理を探究し、実践した過去の政治家を何人か知っている。
首相に対して諫言し、身を挺して時の首相の政治判断を変えさせた男を。

金森が揮毫した文言は聖書のヨハネの福音書から引用したとも言われる。
「真理はあなた方を自由にする」。
キリストの言葉だ。

ヨハネはこうも言っている。
「イエスのなさったことはたくさんある。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と。
だから金森はそのイエスの言葉をもってして収用出来ない言葉や知識があることを「図書館」の理念としたのだろう。

真理と自由。今の安倍政治には全くふさわしくない言葉だと。
ま、無知、無教養な男にはそれを求めてもなんの意味も無いのだが。

しかし、それはある意味、歴史の”冒涜“であるとも思えてきて・・・。

2017年5月27日土曜日

官僚たちの“反乱”

かつて中曽根内閣時、官房長官には後藤田正晴が起用された。
後藤田は就任要請を固辞したが、国のために身を投げうつという思いで就任を受け入れた。

中曽根も後藤田も旧内務省の官僚。しかも後藤田が先輩。二人きりの時は後藤田は「中曽根くん」と呼び、中曽根は「後藤田さん」と呼んでいたと言う。

自論の憲法改正、自主憲法制定を表の議論に持ち出そうとする中曽根を後藤田は強く諌めた。国民の多くはそれを望んではいないと。
その進言を入れ、中曽根は憲法論議を“封印”した。
中曽根は長期政権を築いた。

かつて城山三郎の書いた「官僚たちの夏」という本があった。テレビドラマにもなった。
主人公のモデルは佐橋滋。ミスター通産省と呼ばれた男だ。
彼を含め、時の通産官僚はこの国の産業政策がいかにあるべきかについて知恵を出し合い、時には言い争いにもなったが、常に念頭にあったのは国であり、国民だった。政治家にも立ち向かって行った。この本はノンフィクションだ。

そんな時代もあったということ。

今、安倍1強政権と言われている。彼が何かに秀でている訳でも無いのに、そんな政治状況になっている。
安倍の側近として、安倍を支え続けているのが菅官房長官だ。
究極の「イエスマン」だ。

森友問題と加計問題はその「構造」が全く同じだ。酷似している。
安倍をとりまくこの国の「構造汚染」だ。

“天下様”の御意向に服従する官僚。それこそ白を黒と言いくるめる官僚。
国益よりも私益を優先する官僚。
かつて官僚に付されていた「公僕」という言葉は安倍の辞書から消された。

加計問題を巡り、安倍の意向を受けた、あるいは忖度した内閣府と文科省の文書。
前の事務次官が「反旗」を翻した。どこかに官僚としての意地と経綸を持っていたからか。

彼の行動を「官僚たちの反乱」と位置付ける。彼に賛同する官僚たちもいるからだ。

菅はその文書を怪文書とし、無視を決め込もうとしている。最近、テレビに映る菅の表情は醜さを増しているようにも見える。表情は全く冴えない。

おかしな理屈を官邸や自民党は言う。退官したのだから民間人だと。
現職で有ろうと退官した身であろうと、言っている“事実”には変わりはない。

もし官僚が入省時に「官僚とは」というまともな教育を受けていれば、政治家の言うがままに動くことは無いはずだ。

今の自民党の国会議員はまともな教育を受けていない。まともな人間は育っていない。“教育機関”であった派閥が無くなったからだ。

ある時期、派閥解消は「天の声」のように叫ばれた。マスコミもこぞってそれを主張した。

現代政治史の逆説的悲劇だ。

福島県会津若松市出身の政治家で伊東正義という人がいた。東大卒の官僚経験者だ。
農林省にいた時代、時の農林大臣河野一郎に歯向かったこともある。
後年、竹下内閣が退陣した時、自民党総務会長だった伊東に「後継」の要請があった。伊東は固辞した。
「本の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」。中身とは自民党の腐敗体質を指している。

会津藩士の末裔だ。会津に今も語り継がれる「什の掟」。その結語は「ならぬものはならぬものです」。

因縁めくが長州藩の血を引く安倍晋三は、このことを、この史実を何と聞くのだろう。

“怪文書”扱いにするのがおちなのだろう。

敢えて言う。今の無能な議員達の集団である自民党がなぜ生まれたか。
「自民党をぶっ壊す」と豪語し、選挙で大勝し、なんら抱負経綸を持たない“素人議員”を誕生させてしまった小泉純一郎にその責任の一端があると。

だから「他に適任者がいない」という項目に丸をつけてしまう有権者が多数存在すると言う世論調査の結果。

蟷螂の斧があってもいい、いや、あるべきなのに。

2017年5月23日火曜日

僕は「コッペパン」で育った。

「無信不立」、信なくば立たずという論語の言葉がある。政治家が好んで“座右の銘”と言って“格好つけ”に使う言葉だ。

今の自民党議員の多くは座右の銘に「晋なくば立たず」としているのだろう。

共謀罪、改憲、語るに落ちている。

北朝鮮のミサイルで大騒ぎだ。
Jアラーとは鳴らないが地下鉄は止まり、徒歩の避難訓練なるものが“正気”で行われている。

“狂気の沙汰”にしか思えないのだけど。

北朝鮮のミサイルが「正確」なら、そして日本を狙うなら、その目標は首都でも、米軍基地でも無い。

原発施設だと思っている。

弾頭に「サリン」を載せているとかなんとか”煽り“はあったが、「原発」とは誰も政権内の人間は言わなかった。

もし、日本でテロがあるとすれば狙われる可能性の大きい施設は「原発」だ。
「原発テロ」をたくらむ奴らを「共謀罪」で“防止”できるのか。

東京ブッラクアウト・原発ホワイトアウト。

横暴を極める安倍政治。知性が完全に欠如している政権内部。

教科書検定のことを思い出した。
「パン屋」とされていた部分は”異論“が出され、「和菓子屋」に替えさせられたという。

僕が小学生の頃、給食は必ず「コッペパン」だった。おいしいのか、まずいのかわからなかったし、覚えてはいない。マーガリンが付けてあったような気がする。

商店街にパン屋さんはあったけど和菓子屋さんはなかった。
米は配給制、米穀手帳がいわば“身分証明書”。
外食券食堂がやがて出来て行ったが。銀シャリに味噌汁、タクワンふた切れ。

昼飯は、給食は食べられたのだ。コッペパンで僕は育ったのだ。
「コッペパン」には幼少期の郷愁が染みついている。

なんで「パン屋」が教科書から排斥されるのか理解不能だ。

国会には暴言居士が渦巻いており、教育の「片鱗」すらうかがえない。

共謀罪で国会は騒然としている。その必要性もぼくにはさっぱりわからない。
一応「一般人」と書いた名刺は持ち歩いているが・・・(笑)

「人は一般的に内容よりも外見で判断する。内面で判断できる洞察力を持つものはマレである」。ルネサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリの言葉だ。

彼の有名な著作「君主論」。それをどう読み下し、読み解くのかは難しいところだが、これにならって“マキャベリズム”という思想が生まれた。

“どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定される”というものだ。

安倍は「君主論」の良いとこどりをしているのかもしれない。もちろん、その本を彼自身が読んではいないだろうが。

2017年5月21日日曜日

やがて美味いコメが出来るのだ

裏の田んぼに水が入り、どこからともなく鴨が来て水の中の餌をついばむ。
カエルの合唱が始まる。

先日、6面の、界隈のいくつかの田んぼで田植えが行われた。稲が植えられた。褐色の水面に若い緑が彩りを添える。

稲は瞬く間に育っていく。カエルの合唱も大きくなる。

大好きな待ちわびた光景、季節。

福島のコメを思う。

「3・11」前には福島のコメは出荷量で全国の上位を占めていた。
原発事故後、それは激減した。
品種改良も進み、「天のつぶ」という新銘柄米も生産されているにも関わらず、福島のコメの出荷量は減ったままだ。

作付面積を減らした農家もあれば、農地を“転売”した農家もある。

近所の農地も宅地転用された。そこには家が建った。帰還困難区域の人たちが数軒。町内の光景が変わっていく。

聞くところによると、その農家は
高齢になり、作業が辛くなった。後を継ぐ“若者”はいない。やむを得ない事情これありだと。

耕作放棄地となった田んぼもある。毎年、老夫婦がなにやら”口争い“をしながら田の手入れを行っていた。
今は、その”持ち主“の姿も見かけない。

福島県産のコメは「全袋検査」が今でも行われている。すべてがND,放射性物質未検出。

福島県産のコメはなかなか食卓にはあがらない。いまだに忌避されているようだ。

そのコメを忌避する人に限って、安全・安心を言う人にかぎって、コンビニなどで食品加工物を多分に含んだ食材を買っている。

健康に影響がある食品は加工物を含有しているものだと思うのだが。

福島県産と書かれたコメは売れない。

手前味噌のようだが福島のコメはまことに美味なのだ。

しかし、「美味さ」は「風評」にかなわないということか。
福島と言う名前は忌避され、他県のコメとブレンドされ「国内産」と表記されて売られている。
しかもその「消費先」は、いわゆる「外食産業」だ。

しかもその買い取り価格は大幅に低い。

福島のコメについて言えば、生産と消費のバランス、需給関係が壊れて行っている。
10年後、この国のコメ事情がどうなっているのか。推測に値することが可能な頭脳も知識も持ち合わせないが。

田んぼのある光景、カエルが泣く風情。10年前、ここに家を買った理由の一つだ。

贅沢な“初夏”を味わっている。

そこには光景としての「美しい国」があると思っているのだが。

安倍首相夫人が福島市にやってきた。福島市郊外の田んぼで、小林福島市長と田植えを“楽しんだ”ということだ。

まさか福島市の名誉市民とはならないと思うけれど。

豊葦原の瑞穂の国、子供の頃習った日本の別称。今騒がれているのは瑞穂小学校。

いやはやなんとも・・・。

2017年5月14日日曜日

「仮設」という言葉に過敏になる

この国は今2020年の東京オリンピックを「ゴール」にしてあらゆることが動いているようだ。

安倍の“共謀政治”は2013年のIOC総会で「TOKYO」の札が掲げられた時から始まった。

あの「3・11」からわずか2年後。東北の民は自分たちの生き方さえも見い出せず、さまざまな苦難を強いられている時、多くの被災者が「仮設住宅」で辛い日々を送って居る時、IOCの会場で安倍は狂喜乱舞していた。

宰相のあんな“子供じみた”、幼児性丸出しの振る舞いを今まで見たことは無い。
醜かった。
なんで「どっしり」構えて決定を受けとめるという“風格”すらなかったのだろう。

あの時から、ブエノスアイレスの地で、安倍の政治目標が出来上がった。
東京オリンピックは主催国の宰相として迎えるということが。

そのための地ならしに手を打つことに余念がなかった。
ブエノスアイレスで「福島の事故」を、まだ汚染水が海中に流れ出ているのに「アンダーコントロール」と「放言」したことを手始めに。

安倍も森も小池も同じ穴のムジナだ。

共謀罪をテロ対策法案と名前を変え、オリンピックでのテロ防止に役立てると言う。
2週間のオリンピックのために我々は一生“自由”を束縛されるのだ。
改憲をオリンピックまでに成し遂げるという。

オリンピック憲章にはその「政治利用」を堅く禁じている。憲章に何が書かれていようと、憲法に何が書かれ、その理念がなんであるかは安倍には無関係のことなのだ。

リオでスーパーマリオを演じた如く、満員の観衆の中で、テレビ中継の中で“主役”を演じたいのだ。

「サイコパス首相」ととりあえず彼を位置付けておこう。


オリンピックの経費負担をめぐって、国や東京都、関係自治体、それに組織委がなにやら言い争っている。

「オリンピック関連の仮設施設の経費をどうするか」ということのようだ。
なんで、オリンピックの施設に、2週間しか使わない施設に「仮設」という位置づけがされるのだろう。
ならば、6年間「仮設住宅」にいた人の心情はどうなのだろう。

福島はじめ、宮城、岩手の東北3県の家を失った人がしかたなく住みついた「仮設」。
熊本地震の被災者が暮らす「仮設」。

「仮設」という言葉からあなたは何を思い浮かべますか。

そこで人生の終焉を迎えた人も数多くいる。

「仮設」と言う言葉は我々の神経を逆撫でするのです。

他の呼称だっていくらでもあるのに・・・。
小池の大好きな「カタカナ名前」だってあるでしょうに。

野球招致で浮かれている場合じゃないんです。福島は。

あの人達、政治に携わる人たちには「ことば」のデリカシーが完全に欠如しているのです。それは「福島」を無いものにしたいとする心根が垣間見えると言うことなのです。

今、この国は“滅び”に“亡び”に向かって突き進んでいる。
オリンピックは政争の具であってはならないのに。
誰かの名誉欲を満たすためにあるのでもないのに。

そして、まだ900億円ものカネがかかるという。大方は都民の負担になる。

オリンピックは安倍の政治的野望の道具だ。そんな「仮説」は無謀でしょうか。

2017年5月10日水曜日

読売記者の気持ちを“忖度”する

またも政治ネタで恐縮ですが・・・。

衆参両院の「集中審議」が終わった。
議論は安倍の“完敗”と見たが、この時点で安倍は改憲に“御執心”とうことをまざまざと、改めて見せつけてくれた。

なりふり構わず、“失言”の数々も棚に上げて。失言とはまさに失った言葉。
今までとは違ったことを平気で言う。

失言ではないが、「暴言」の最たるものは「読売新聞に言いたいことは書いてある。いまさら国会で言う必要は無い。読売新聞を熟読しろ」。

読売の“インタビュー”で語っていることが本心だ、と。

発言から忖度出来ることは、いや忖度では無い、読売は安倍政権の「広報紙」だということ。読売には本心を言ったということ。
国会で発言をせずに一介の“御用新聞”の方が大事だと言わんばかりの思考。

読売の読者は政府広報紙を読まされていたということになる。
すくなくとも読売はジャーナリズムではないということになる。

読売のどこの記者がどこの指示で安倍の発言を取材し書いたのか。デスクは黙って通したのか。

取材では無い。言っていることを書き写しただけ。いかに社主であり主筆であるナベツネがある意味日本の政治を牛耳り、安倍の政治指南役を果たしているとはいえ、読売の記者はこの一連の経緯をどう受け止めてるのか。

“読売新聞、ジャーリズム放棄宣言”

総理・総裁の使い分けと言う安倍の“浅知恵”。
三大紙と言われる中で、朝日、毎日は安倍を批判する。特に毎日は厳しい。

ちょと視点を変えれば、安倍の狡猾手法よりも、それに乗った読売の姿勢こそ問題ではないのか。

一昨日の夜、読売本社のある界隈の飲み屋で、社の姿勢について嘆き悲しんだ記者とていただろうにと思いたい。

ナベツネの意向を“忖度”した読売の記事。いや、忖度では無いかもしれない。
あの「憲法発言」はナベツネが付けた知恵なのかもしれない。

政治記者になた時、初めて勉強の為に読んだ本はナベツネ著の「派閥」という本だった。参考になった本だった。自民党政治を知る上での“知識”をもらった本だった。

父親より年上であろうナベツネの進言を入れるのに安倍は躊躇することは無いはずだ。

新聞社を排斥して臨んだ引退会見の佐藤栄作がだぶる。

日本のジャーナリズムが壊れて行くさまを見たような気がする。

安倍政権のメディア対策。げに怖ろしか。

さすが報道の自由度72位の国だけのことはあるなと。


2017年5月7日日曜日

「一般人」という"肩書"

週明けのあすから、国会は「共謀罪」を巡って騒然とした空気に包まれるだろう。
共謀罪って狂暴罪?

「改憲発言」も「共謀罪」も“モリトモ隠し”なのか。辞職を公言したのだから。

その共謀罪、法案にテロがどうとかの名称を付けてはいるが“換骨奪胎”をはかっているものであり、戦前の治安維持法の“再現”だ。

あやふやな法相の答弁。
「一般人は含まれない、対象では無い」というものの、「テロリストです」という看板を掲げていない限り、極端な話し「国会議員と検察・警察関係者以外はすべてこの法律の対象者たりうるのだ。

法相に業を煮やした政府は官僚を参考人として答弁させる決定を強行して決めた。阻止しようと委員長の肩に手をやった野党議員に「テロ」だと叫んだ。
所詮、この程度の認識の議員が審議に当たっていると言う事実。
この程度の議員によって我々が、日常が“支配される”と言うこと。

だったらさあ、国会の委員会で、与党が共謀して、綿密に手順を打ち合わせて半ば暴力的に法案の強行採決をする。これって立派な狂暴罪じゃありませんかね。言論の府における「テロ」ではないのですかね。

この国は2020年の東京オリンピックを軸にあらゆることが決められていく。
安倍は公言した。「オリンピックでテロを無くす為に」と。
もちろん共謀罪のこと。

かたやオリンピックまでに「フクシマ」は無いものとする。“復興”と言う言葉も消える。

“この国にはなんでもある だが希望だけがない。”



「希望の国のエクソダス」に書かれていた一行。17年前に小説家は今を予測していた。

“安倍の安倍による安倍のための政治”。

我々はそこから逃れる術を持ち合わせていない。

持ち合わせていないわけではない。それを為そうとしていないのだ。



週明けから10年間借りていた街中の事務所を移転させる。通うのがきついから。
その整理に取り掛かる。難儀なことだが致しかたない。

小物を片付けていてふと気づいた。

名刺の肩書を「一般人」としてみようと。

世の中、「肩書社会」である。肩書が物を言う。長年の経験からして思う事。
役員の名刺を持っていた時と、“無職”になってからの個人事務所の名前だけ書いた名刺とでは”扱い“が大きく違う。

人と交わる環境にある限り、「名刺」というのは単なる儀礼としてだけでも必要な場合がある。交換と言う慣習。

だから、この際、今の政権へのささやかな抵抗として、また、テロリストではないという弁明のために、全くの冗談としての作業として、“一般人”と肩書を付けた名刺を作ってみようかと思った次第。

その“意味”を受け取った相手が理解してくれるかどうかは別物。
洒落ですよ、洒落。

でも、いくら一般人を名乗って見たとて、その法律の災禍が襲ってこないわけではない。

国会議員と警察官だけが適用されないと言われるこの法律。
警察官に果たして「識見」はあるのか。

定年後の警察幹部がどこに天下ったのか。マスコミは全国規模でその調査報道をしてみればいい。

1961年か62年か。「警職法改正案」というのが国会で審議されていた。
警察官独自の判断で「一般人」の日常生活に立ち入ってくるという法律。

反対を叫ぶデモの群れの中に一介の高校生もいた。
自由を何項目にもわたって保障した憲法下にあって、自由が大いに束縛されると思った高校生。

連日のデモもあってか警職法改正案は廃案になった。
あの時向き合った機動隊員の”怖さ“を今も覚えている。

しかし、なんでこんな国になってしまったのか。“時間”だけ共有してきた自分にもわからない。

2017年5月5日金曜日

「無視」すべきことなのだと思うが・・・

昨日変な夢を見た。夢でうなされ、夜中に起きた。

大きなスクリーンから“ビッグ・ブラザー”の声が聞こえる。

戦争は平和だ
自由は隷従だ
無知は力だ

「1984年」の声が聞こえる。

そして何やら人を殺せと命じられている。それを実行しようとしているのだが、なかなか出来ない・・・。

嫌な夢から醒め、いつのも自分のベッドにいることを認識し、そこに座り込んでしばらく考える・・・。夢の正体を。

今は2017年だ。

過日、首相は「日本会議」系の集まりにビデオメッセージを寄せた。
「自民党総裁の安倍晋三です」と“肩書”を名乗りながら、2020年に憲法を改正する。第9条に自衛隊を明記する。教育問題を、高等教育を無償化する。

そんなことを言っていた。スクリーンに見えるのは、まさに“ビッグ・ブラザー”の生き写しのようだった。ジョージオウエルのディストピア小説「1984年」再来の光景。

日本会議というのは全くの私的な集まりだ。団体だ。
そこで国の最高法規の扱いを公言するという厚顔ぶり。さすがに肩書を「総理大臣」とは言ってはいないが、自民党政権下では総理、総裁は一体化されている。

私的な、いわば“仲間内”の集まりで憲法について公言する。

憲法について、しかも具体的な内容について語るのは国会の場でなくてはならない。

「私語」なのだ。

しかし、マスコミの扱いは大きい。

「無視」に値するようなことが新聞にはデカデカと書かれる。

重ねて書く。幣原喜重郎は焼け野原に立ち尽くす人々を見てこう考えた。
二度と戦争を起こしてはならない。起こさないためにはどうすればいいのか。
軍事力を放棄して、戦争は二度としないと世界に向けて“宣言”することだ。

その旨をマッカーサーに申し出た。そこまで覚悟したのかとマッカーサーは驚いたと言う。そして出来あがったのが憲法9条だ。

「憲法第9条の③ 陸・海・空の三つの自衛隊は我が国を他国からの侵略から守るために存在する。専守防衛に徹したものであり、他国との紛争には先制関与することは出来ない。その主たる任務は国民の生命と財産を守るためのものであり、災害派遣など前記の目的を遂行するための組織としてのみこれを認める」。

こんな条項でも追加しようというのだろうか。

内容はどうでもいい。とにかく「改憲」なるものを成し遂げたいと言う子供じみた思考なのだろうか。

安倍は政治音痴だと思う。外交音痴だとも思う。

その「音痴」は謳う歌に我々は唱和させられるのか。
とんでもない。
嫌だね。

「平和を守るためには戦わなければならない」という人がいる。戦うとはもちろん戦争のことだ。
「他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、断固としてこれと戦うことは、自衛の戦いであり、平和国家と矛盾するものではない」という人もいる。

“平和のための戦争”というのは有り得るのだろうか。

「先の大戦」だって、口実は平和を守るための戦争だったはず。


夢の続きだ。
戦力を放棄した平和を希求する国。それを国是として内外に宣明した国に、攻撃を仕掛けてくる国はあるのだろうか。
平和ボケと言われようがなんと言われようが、そんな国は無いと信じたい。

中途半端な「抑止力」を持つより「丸腰」の方が戦争に巻き込まれないと思うのだけど。
そんな国を無法に攻撃した国は国際社会から葬られてしまうと思っているのだけど。

「専制と隷従、圧迫と偏狭」。
そんな言葉が頭の中を渦巻いていた。

2017年5月3日水曜日

「分断」の中の憲法

憲法は施行70年を迎えた。70回目の憲法記念日。
このブログを初めて10年以上になる。
毎年5月3日には憲法について書いてきた。

70年、人間の年齢で言えば「古希」。
世界一長寿の憲法なのだ。

古来稀なりというところか。70年、それが血肉となって育まれていたものと解釈したいのだが。

よくぞ持ちこたえていてくれた。これからもそうであって欲しい。
切に望むものだ。

「憲法記念日」にあらためて憲法を読む。特に前文を。
そして、
そこに書かれた理念を再確認し、美しい日本語として、一字一字を追う。

今の憲法が制定された時、公布された時も含めて僕は小学生だった。憲法の何たるかを知る年代では無かった。
中学に入って、それが教科書にあったかどうかは記憶にない。
どうも自分で勝手に「憲法の世界」に入っていたような気がする。
高校時代は憲法の虜になっていた。読むたびに感動した。文学的ですらあった。

前文も9条も僕は好きなのだ。

改憲論議が日増しに勢いを増しているようだ。
自主憲法制定とそれは同意語か。
「押し付け論」がその理由なのか。

「押し付け」ではないと思っている。
昭和天皇の意向、幣原喜重郎首相の意向、近衛文麿の意向・・・。
マッカーサー司令部の担当者と幣原らが論議・検討して擦り合わせて出来たものだ。

特に9条は、戦争放棄は幣原が言い出したものだ。史実は残されている。日記として。あの戦後の焼け野原になった東京の光景を見て、幣原は「戦争放棄」を決意したという。
その申し出にはGHQも驚いたと言う。

しかもGHQの草案には国会論議の過程で大幅な修正がなされている。
「丸ごと押し付け」論、それはある意味今はやりの言葉で言えば“フェイク”に近い。

「機は熟した」と安倍は言った。改憲の機が熟した、環境が整ったとう。
一強と言われていることで舞い上がっているのだろうか。悲願なのだろう。祖父の意向を継承した。

しかし、憲法のどこを変えたいのか。はっきりしたことは敢えてかどうか言わない。

各マスコミの世論調査がしきりだ。改憲を巡って。
その社によるがおおかた拮抗しているようだ。単純に言う。改憲と護憲。

それは憲法をめぐる国民世論の「分断化」を意味している。

その分断は天皇制にまで及んでいる。
象徴天皇とは。象徴としての天皇の行為と安倍とはその捉え方が違う。
女系天皇を認めないとする政権の意向。

悠仁親王から先の天皇制の在り方を「先送り」して恥じないのは、「今さえよければ」という感覚だ。
国家百年の事を考えるのが政治の本来の姿だ。

憲法の主旨は、国民主権・戦争放棄・人権の保障だ。

象徴天皇はその行為に忠実であるが故に、慰霊の旅や被災者の慰問を続けられている。
「シンボル」という英語を「象徴」と訳するとしたのは白洲次郎だ。
なぜ「エンブレム」ではなかったのか。GHQ草案が。

憲法第1条。「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。

その象徴としての天皇の行為に異を唱える改憲派の政治家。

天皇家と今の政治家とはあきらかに「分断」が見て取れるのだ。
この第1条だけをみても国民主権と象徴天皇制は「共存」しているのに。

あのNHKでさえ、史実を検証した結果に基き「押し付け論」を排除している。
今朝の朝日新聞は幣原の言を憲法学者の故宮沢俊義が記した日記の存在を明らかにしている。立教大学に保管されていると言う。

GHQ草案を“象徴天皇”とされる昭和天皇が「いいじゃないか」と了解された経緯。

安倍は東京オリンピック後に「改憲」を国民投票に付す意向だとされる。
いいじゃないか。やってみれば。
改憲・護憲が拮抗しているとはいえ、国民投票にどんな改憲案が提案されるのか。
70歳の血肉は、そう簡単には腐肉にはなるはずがないから。

2017年4月30日日曜日

「地下鉄は停まり原発は止まらない」という笑談

北朝鮮がまたまたミサイルを発射した。すぐ落下した。ミサイルだたのかそうでは無かったのか。
何の為のミサイルだったのか。どこを狙ったものだったのか。
全ては不明だ。

これまでも北朝鮮は何回もミサイルを発射している。

しかし、今回の場合の国内の対応は異様であり、これまでの対応はなんだったのかと疑問視することが多い。

4月に入って北朝鮮を巡る動きは喧噪を極めていた。アメリカのトランプの言動や米軍の動きが、傍証としての北の脅威を煽った。

自衛隊の持つパック3に動きはなかったようだ。あったのだろうけどマスコミが報道しなかったのかもしれない。

昨日早朝、それみたことかと言わんばかりに北がミサイルを発射した。そのニュースは全国を駆け巡り、“異様”ともいえる対応がされた。
東京の地下鉄などが運転を中止したのだ。
乗客には「その旨」が伝えられたというがさほど「動揺」はなかった。

政府は4月になってから「北のミサイル」に関して過敏になっているようだ。
Jアラートなるものを鳴らす。表に居る人は地面に伏せろ。なるべく強固な建物の中に逃げ込め・・・。

おおよその国民は知っている。知っているけどなんら反応しないだけ。
伏せて難を逃れられるわけはない。強固な建物なんて身近にはない。すぐに飛んで来るものだし。

地下鉄はそういう意味では「強固」な避難場所だろう。しかし止めたのは避難場所を確保しようということでは無いようだ。

安倍は国会でミサイルの弾頭に化学兵器が積まれている可能性を言及した。

なんと無辜なる民なのだろう。「防毒マスク」が俄然売れているという。製造が追いつかないくらいに。
核シェルターを自宅に作ろうとしているひとも多いという。

防毒マスクはその毒ガスが風に乗って消えるまでの10数分“役立つかもしれない”というものだ。

3・11、原発事故のあとマスクをしろ。家には目張りしろ。外出するな。そんなことが「正しい防御法」だと真面目に公共機関から伝えられていた光景を想起する。
それがいかに「無意味」だったかということを。

公共交通機関を止めるのなら、その「テロ」の目標の一つだと、ど素人でも思える原発を、稼働中の原発にすぐ制御棒を差し込んで止めないのだ。

笑うしかないのだ。笑ってすむ話ではないのだが。

北朝鮮が真面目に考えて日本を攻撃し、彼らのバカの一つ覚えのような言葉、「殲滅」をしようというなら、狙うのは原発であり、米軍基地のある場所だ。

東京近郊にだってある横田や横須賀だ。

北に怯えて電車を止めているのに、肝心の首相や閣僚はこぞって外遊に励んでいる。ゴールデンウイークの恒例行事。

これだって笑える。
この時期の外遊によって「北の暴走」を止める手立てが見つかったならともかくも。

外遊に明け暮れていると言うことは危機感が無いと言うことではない。北が日本本土を攻撃するわけはないという情報と確信があるからだなのだろう。

アメリカの空母カールビンソンを護衛するとして自衛隊の艦船が同道している。
「日米不可離」という思いこみの中での“軍事行動”。

身の回りのこと、海上で展開されている軍事行動。

これらの事を読み解く術はない。マスコミ報道によることだけが表面的な「事実」としてあるだけなのだから。

「北が攻めてくる、北がミサイル攻撃してくる、核攻撃してくる」。連日そういっていれば、誰しも戦争を疑わなくなる。
ナチスのゲーリンクの「宣伝手法」だ。

五月晴れの中、ホームセンターには庭を飾ろうと鉢植えの花を買い求める人が大勢いた。

ナチスの手法と美しい草花と。何をどう考えればいいのだろうか。

2017年4月28日金曜日

「老いる」ということ


腰が痛い、どこが痛い。身体の不調を訴えて病院にくる高齢者は多い。
大したことはない体の変調でも高齢者にとっては大きなことなのだ。

若いときにも同じような変調はあったはずだ。しかしそれは若さと言う肉体や精神の”免疫力“も含めて、医者には行かずに済んでいた病もある。

老齢化するということは、痛みの感覚を自分の体内で処置できない場合もえてしてある。

病に対しての自己治癒力は低下していくと言うことだ。

だから、医者に行って薬という対処しか考えられない。

老化とはそういうことだ。

老いれば頭脳の働きも低下する。
身体の変調は頭脳にも少なからず影響してくる。

少なくとも僕の場合はそうだ。

それをどうやって食い止めるのか。

人はいろいろなことを言い、その方途を書いたりするが、すべては個人差による。

我々は“何かあったら医者”という生活に慣れ親しんできた。

「医者」と言ってもいろんな形態がある。いわゆる町の開業医の場合、時にはそこは高齢者の“社交の場”と化しているところもある。
それに苦情を言う人もいるが、ま、いいじゃないか。おしゃべりで病がいくらか楽になるのなら。

一応完全予約制の病院の場合は、そういった光景はほとんどゼロだ。しかし、そこは大方混雑している。待つ時間が長くなる。それに耐えられるかどうかも高齢者の“勝負”だ。


高齢化社会に伴って国は「かかりつけ医」制度を設け、それを推奨している。
しかし、それが医者や患者にとってどれほどの利点があるのかがよくわからない。
薬手帖なるものがある。確かに役に立つであろうことは間違いないが、元は医師の処方箋が頼りだ。

「かかりつけ医」、難しい問題と思う。例えば24時間対応してもらえるのか、専門外の医療も引き受けてもらえるのか。
専門医のいる病院を正しく選択して“紹介”できるのか。
とりあえず「くすり」ということで誤った処方をしないだろうか。
診断が的確なのだろうか。
いつでも患者を診察できるのだろうか。

病院は第一次救急、第二次救急含め、24時間体制は出来ている。しかし、病院の医師に「かかりつけ」を依頼できるのだろうか。

足しげく病院には通っているが、この「かかりつけ医」のことはなかなか理解が出来ないのだ。
きょうも病院に行った。担当の医師とこのことについていろいろ話した。

プライマリーケアというアメリカ式医療方式、制度が日本に適しているのかどうかも。
かかりつけ医で薬の処方。紹介された病院でも薬の処方。
検査は、例えばX線にしても、その病院での“検査”でなくては医者は納得しない。

結果、国民の医療費はかさむ一方だと思えるのだけど。


もう一つの医療に関すること。

どうも我々患者という人たちは医者がいつも、いつまでも今のままのような姿でいるものと“勘違い”してはいないだろうか。

患者が高齢化していくということは、かかりつけ医にこだわる限り、医師も高齢化していくのだ。

医者も老いるのだ。経験は豊富であっても新しい知見を吸収したり、正しい“判断”を下すことは難しくなっていくのだ。

チーム医療が必要だ。しかし、医師の、特に若い医師の確保は難しい。
老いていくことを“自覚”している医師と、そうでもない医師。

老いを自覚しながらも自ら医療行為に当たらねばならないという地域医療の実態。

馴染みの病院の医師がUSBを貸してくれた。ETV特集でやった福島県広野町の高野病院の記録だ。80歳を超えた老医師が400人の患者を抱えざるを得ないと言う「現実」。

政治家も老いる。かってあった70歳定年も破られた。老害政治が跋扈している。
老いた政治家にこの国の病を治癒させる“知見”や“処方”を求めるには無理がある。若い政治家はどうか。あまりにも頻繁にあるスキャンダル・・・。

はい、僕の頭の中は「病気」なのです。

2017年4月26日水曜日

政治家の能力、責任ということ

今村復興大臣が辞任した。後任はいわきの吉野だという。しかし、彼に復興大臣として、その職責を全うできる能力があるのか。はなはだ疑問だ。

復興大臣と防災大臣とは全くその職務を異にする。
復興大臣には、他の大臣と「喧嘩」をしてでも、被災地を守り、再生させる職務が要求される。

改造ごとに変わる復興大臣。それも「実力」のないお飾りのような大臣。
それは安倍が「復興」を真剣に考えていないことの証左に他ならない。

二度にわたるこの今村某の”暴言“。失言では無い。
日頃の本音が日本語能力の無さのゆえに発せられた言葉だ。
自主避難者は自己責任。
今さら言っても始まらないが、原発事故は国策による“失政”が引き起こしたことなのだ。
そして今回の発言。
21兆円の毀損。金額の問題では無いのだ。
流浪の民を生じさせたのだ。
守るべき国民を放逐したのだ。
それは国が為したことなのだ。

原発事故の意味合いさえ分かっていない。

これが今の政治の実態だということ。

辞任ではだめだ。更迭・罷免しなければならないのだ。

依願退職ではなく懲戒解雇にしなければならないことだ。
下世話に聞こえるかもしれないが、依願退職には退職金が支給される。
懲戒解雇にはそれが無いはず。

「責任」とはなんだ。政治家の「政治責任」とは何か。
安倍も「任命責任がある」と明言した。
政治の世界では責任を取ると言うことはその職を辞するということだ。

安倍晋三という一人の政治家と、そこにこびへつらう官僚と、お側用人。それでこの国の政治が行われていると思い込んでいるのではないか。

原発事故現場は東京から240キロも離れている。現場はアンダーコントロールされている。
今村発言は安倍の思考と共通しているのだ。だから大臣に起用したのだろう。

任命責任があると言うことは言葉通り任命権者に責任があるということ。
責任とは職を辞すると言うこと。

仮に、北朝鮮のミサイルが沖縄の米軍基地を攻撃したとしよう。
「沖縄でよかった」と言いかねない閣僚だっているかもしれない。
沖縄と福島は同じような“価値判断”の基準とされてもいるようだ。

国会で答弁不能の法相。同じような防衛相・・・。

共謀罪をめぐる委員会の強行運営に抗議する野党議員を「テロだ」と大声でののしる自民党議員の無知さ加減。

教育勅語の徳目を“評価”しながら、道徳教育を言う官房長官が、あの薄汚い不倫騒動をやってのけている政務官を「道徳には違反していない」とかばう見苦しさ。

安倍内閣は総辞職すべきだ。しかし、その替りが自民党にはいない。野党は、少なくとも第一党の民進党には期待するべき何物も無い。

日本の政治は、限りないカオスの中に置かれるかもしれない。そのカオスを恐れる人たちが安倍内閣を支持している。
支持率50%超の中の「カオス」。

今、近代国家と称され先進国と位置付けられている各国は、少なからず「カオス」の中にある。

しかし、いったんカオス(混沌)に陥って見た方が、新たな方途が見えてくるかもしれないのだ。

「カオスの中の民主主義」とでも呼んでみようか。いや、もしかしたら民主主義とはカオスの中から育っていくのかもしれない。
そんな“妄想”すら頭をよぎる。

バカにするのもいいかげんにしろよ。一言で言えばそういうことだ。

2017年4月25日火曜日

偶然と言う名のばかばかしい“嘘”

過日、東京赤坂の「津やま」という料亭で、小池ゆり子が小泉純一郎、ヤマタク、自民党の二階幹事長と会食していた。
同じ料亭に安倍首相が”似鳥の会長“と訪れ、小池らの部屋に行き話し合いをしたという。

そろって「偶然に会った」という。

嘘だ。偶然であるわけが無い。

会談の中身はともかく、偶然に料亭内で会うと言うことはあり得ない話だ。
その料亭は小泉の行きつけの店だと言うが、懇意な店なら尚更だ。

まともな赤坂の料理屋が、客同士が偶然に会うような設えをするわけが無い。客同士を合せないことがあの業界の不文律だ。
ばったり会わせてしまったような店は「信用できない店」との烙印を押される。

「政治は夜作られる」という。政治家にとって夜の会合と言うのは、秘密裏に行われる会食と言うのはなにより重要なことなのだ。

首相が料亭に行く。事前にSPは所轄の警察と連絡をとり、会食の場も“下見”して万全を期す。

その料亭には首相を警護する警察官がかなりいたはずだ。

小泉にも前首相ということでSPはついている。二階にだってついている。
SP同士では連絡は取り合わないとしても、「同じ場所」だということは秘書官を通じてわかっているはずだ。

どっちが先に予約を入れたのかはわからないが、「その日はこういう方が見える予定です」と店側は伝えるはずだ。

政治家が利用する料亭というのはそういうところなのだ。

昔、赤坂の川崎と言う料亭で、下足番を長年やっていた人が、客の利用状況を白日にさらしてしまったことで大騒ぎになったことがある。

偶然を装って会う必要があったのだろう。双方ともに「利害が一致」していたのだろう。

「偶然と言うことは有り得ない。なぜこういうセッティングがされたのか」。それを解き明かすのが、料亭前で張り番をしていた記者の資質に関ることなのだが。

多分、体裁を整えて「会う」「話し合う」という必然性が両者にはあったはずだ。
その必然性とは何か。

政界の慣行。「会うことに意味がある」。

小池が二階にはめられたのか、小池の側が”仲立ち“を依頼したのか。
そして似鳥は“反原発”で小泉と「同じ側」に立つ人。

政界とは夜に妖怪たちが蠢くところ。
まさに♪禿山の一夜♪

首相動静に週に2日程か。公邸泊というのがある。その公邸の中で、何やらの「密議」がこらされていることも容易に想像できる。出入り口は一つでは無いのだから。
公邸、昔の官邸。大幅に改装されているのだろうが、かっては官邸の裏に廊下続きで公邸があった。寝泊り出来るところ。

かって官邸だった時、官房副長官室に向かう階段の上に「日本丸」と書かれた帆船の模型があった。
どこに行ったのだろう。あの船は。

公邸での諸経費は国家持ちである。安倍が公邸に泊まるときには夫人も一緒のはずだ。しかも昼間に公邸で「お茶会」のようなことをしばしばやり、”お友達“と楽しい時間を過ごしている。

公邸に居するということは公人なのだ。私邸にいてこそ私人なのだ。

字ずらだけで物をいうのもおかしいかもしれないが・・・。

2017年4月23日日曜日

僕は限りなく“学芸員”を求める

災後、キュレーターと言う言葉が時々使われていた。
僕はそれを勝手に学芸員と訳した。

原発事故、それをめぐる様々な専門家の論。それを理解出来た人はどれくらいいたのだろうか。自分の中で解釈・理解出来ず、まして咀嚼すら出来ない。
わかりやすく教えてくれる“キュレーター”が必要だったのだ。

例えばの話しだが、福島の諸橋近代美術館に、サルバドール・ダリの「ビキニの3つのスフインクス」という油絵が展示されている。1947年の作品。

ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験に驚き、困惑し、怒りを感じたダリが描いたものだ。

アインシュタインの脳とフロイトの脳。間に佇み、遠くから眺めているようなダリの脳。その脳はきのこ雲のモチーフだ。そして脳を支える三本の木。それは広島、長崎、ビキニの原爆。

ダリはある日、フロイトに尋ねたという。「この世から戦争は無くならないのか」と。フロイトは冷徹に答える。「それは不可能である」と。
アインシュタインは原爆製造の元を作った人ともいわれる。やがてアインシュタインは核廃絶運動に取り組む。

アインシュタインの核廃絶への思い、フロイトの人間観察、人間同士の争いを極端に嫌ったダリ。
核に対するダリの墳怒がこの絵に込められている。

キノコ雲のような形をした脳の中に、だまし絵のように、フロイトとアインシュタインが描かれている。

これらの事はその美術館の学芸員さんの解説でわかったことだ。その解説を聞きながら僕は思考した。

//絵の中で、彼らは、ダリも加えた3人は会話を続けているのだろう。多くの疑問や懐疑をぶつけあっているのだろう。
科学とは、人間とは、文明とは・・・。

だからタイトルに「スフインクス」という言葉が使われ、スフィンクスの謎にまつわる史実を引き合いに出し、作品を見る人に「謎かけ」をしているのではないか//と。

学芸員がいてこそ芸術への理解を、興味を深めることが出来る。思考や思索を高めることが出来る。
それは海外の作品に対してだけでは無い。茶の文化、茶にまつわる道具や書。
例えば狩野派の絵画・・・。

それを理解するには学芸員を必要とする。

別の視点から考えてみよう。今の政治を読み解くのにも“学芸員”は必要なのだ。政治家の言だけ聞いていたのでは今の政治の本質は理解できない。
海外の事でもそうだ。米ソ、米中、北朝鮮・・・。シリアのこと。

「学芸員はがんだ」とうそぶいた大臣がいる。山本幸三という地方創生担当大臣だ。
「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」。

学芸員を総じて言ったわけではないのだろうが、度し難いバカだ。
今、地方創生の為にそこの住民たちは必至の知恵を絞っている。国の無為無策に悩まされる地方の人たち。彼らはキュレーターを必要としている。

今の時代、もっとも必要とされているのはキュレーターではないのか。
この世の中をどう理解していけばいいのかを知るために。
その役割はメディアが担っているのだ。メディアは限りなくキュレーターであり、学芸員で無ければならないのだ。

たしかに、その役割を果たしている記者もいる。しかし大方はキュレーターであることを放棄している。

僕は今、限りなく“学芸員”を求めている。

あの大臣の発言のもう一つの大罪。「がん」といいう言葉に悪意がみちているということ。

不必要なことの喩えに「がん」という言葉を持ち出されて癌を患っている患者はどう思ったのだろうか。

尊厳を傷つけている。

1億総活躍社会、それは役に立つ人、立たない人の“格差”社会を目論んでいるような。

2017年4月18日火曜日

桜に思うこと

きょうも病院だった。

病院への行き帰り、川沿いに見事な桜並木が続いているのが望める。
車を停め、車窓から伸ばした手に花弁が落ちそうなあんばい。

桜の樹の下から乱れ咲くような桜の花を眺めて来た。

3・11以来、桜に対して、それを避けたくなるような感情を抱いて来た。
せめてあの年も、その次の年も桜は薄墨色であって欲しいと願っていた。

でも、あの年も、それ以降も桜花は常に美しい。

富岡の夜の森公園の桜のトンネル。全長は2,2キロあるはずだが、そのうちの300メートルが立ち入り禁止区域を外された。
夜の森公園の桜も観る人がいないまま6年咲き続けてきたのだ。

桜としての“人格権”が僅かながらも回復されたのだ。

だからか。しばらくぶりに桜との僅かの間、僅かの空間であっても”会話“をさせてもらおうと思ったのだ。

「命二つ、中に活(生)きたる桜かな」

芭蕉の野ざらし紀行にある句だ。20年間合わなかった友人の服部士芳との再会を喜んだ句だ。
20年あまり会うことがなかった旧友と再会することが出来た。その喜び合う二人の中に、桜が生き生きと咲いている。
そういう意味の句なのだろう。

なぜ、芭蕉は「命二つ」と切り出したのか。
我々は命を自分一人のものと思っている。「命は一つ」と思い込んでいる。
それを芭蕉は「勘違い」だと喝破したのではないか。

たしかに命は自分一人のものである。しかし、その命は自分一人で支えているものではない。複数の命によって支えられているのだ。
他者の存在なしに命は無い。家族や友人など“もう一つの命”に支えられながら「命二つ」の中で生きているのだ。自分にかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命なのだ。

命二つと考えることは相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることだ。
互いに命の尊厳を認め合うことだ。

芭蕉は多分、そう問いかけたかったのではなかろうかと推察する。

たった17文字が何百字の世界を語っている・・・。


首相主催の「桜を観る会」があった。恒例の行事。
喜色満面で写真に納まる首相夫妻。そこに群れ連なる人達・・・。

桜を観る会、その主役は桜だ。
それを見たか見ざるか。

芭蕉には遠く及ばないまでも桜に思いを馳せた人があの中にいたのだろうか。

「風雪に耐えて5年の八重桜」。

乞われてか、好んでかはしらないが安倍がこんな句を披露したと言う。

夏井なつき先生に添削してもらったらどうか。

この駄句からは何も感じ取るものはなかった。


2017年4月6日木曜日

許されざる者ども

今村復興大臣が記者会見で「ぶざま」な姿と言動をみせた。
そこから垣間見えてくることを書く。

一昨日は避難解除が出され、対象者の1割程度が「帰宅」に向けて動き始めていた時だ。

かたや、3月31日を以って自主避難者への支援は打ち切られた。自主避難者には、それぞれの考えがある。その「それぞれ」を斟酌するのが民主政治ではないのか。

この今村と言う男、ちょっと前には福島の復興はこれでマラソンに例えれば30キロ地点だと言ってのけ、あの内堀福島県知事をしても「これでゼロからのスタートです」と不快がられ、別の場所では「故郷を捨てるというのは簡単だが、戻って頑張って行くと言う気持ちを持ってほしい」とも言ってる。

全くの当事者意識の欠如だ。

復興庁の職員の中には福島県の職員とともに、自主避難している人のところに足を運び、支援の策を考えている人もいる。

汗を流している職員からもこんな大臣に対しては言いたいことは山ほどあるかもしれない。官僚機構の中で言えないだけだ。彼らは“泣いて”いる。

過日、テレビに出ていた倉本聡が暫時の黙考のあと言った。
「これは棄民です」と。

この今村という男、大臣ならどこでもよかたのだろう。「復興」ということが何を指すのか、福島県からの自主避難者が何万人もいりということに全く考えが及ばない政治家のようだ。

そもそも避難したくてしたわけではない。せざるを得ないからしたのだ。
自主避難者という“難民”を生み出したのは原発事故であり、その原発は政府の方針にのっとって稼働してきたものだ。

一昨日の記者会見、一人の記者が自主避難者の扱いについて問いただした。
今村は「自己責任」だと言ってのけた。それに怒った記者がたたみ掛けるように質問を続けた。

出て行け、もう来るな。今村はそんな捨て台詞を吐き、会見場を去り際に「うるさい」という一語を吐いて。

こんな物の見方しか出来ない男を担当大臣にしたのは他ならぬ安倍首相だ。

安倍の頭の中からは「福島」は消去されている。しかし、また近々飯舘に来るとも聞く。「安倍さんのパフォーマンスにかまってはいられないよ」。
住民の一人の声だ。

今村と激しくやり合ったのは西中というフリーのジャーナリストだと聞く。
寄せ集めの寄り合い所帯の復興庁にだって記者クラブというのがあるはずだ。
復興庁なるがゆえにその記者クラブには東北3県の地方紙の記者だっているのだろう。推測だが過去の体験からすればそうだ。
もちろん大手メディアも当然加盟している。

フリーのジャーナリストと大臣の激しいやり取りの中になぜ、既存メディアの記者は入っていかないのか。
なぜ西中の援護射撃をしないのか。パソコンのキーボードを叩くことだけに没頭しえいるのか。

メディアがこの体たらくで権力の監視が使命であるジャーナリズムが機能しているのか。

していない。

社説でいかに今村の非を書いたとて、現場では沈黙の中に身を置いていたメディア。
許されない者どもだ。この国の姿の一つだ。

新聞の川柳欄にあった。

「自己責任そういう国は無責任」と。

2017年4月2日日曜日

「忖度」という言葉が泣いている

連日のようにワイドショーやネットを賑わしている「森友問題」。
その中で登場した言葉が「忖度」。

忖度とは推し量るという意味や、推察する、それに加えて慮るという意味があるはず。

言葉に良い悪いはないものの、悪事に忖度と言う言葉が使われたことで、忖度とは「悪い言葉」の部類に入れられてしまったような気がする。

官僚の忖度、メディアの政権への忖度・・・。

残るも地獄、還るのも地獄。帰還問題で揺れる福島の被災者の一人が言った言葉。
その心中を忖度する。

自主避難し「いじめ」にあう子供や大人。人間の尊厳すら奪われかねないような環境の中で暮らす人たちの心中を忖度する。

「忖度という言葉が泣いている」と言葉の言霊の怒りを忖度する。

安倍政権になってから日本語は乱れに乱れている。首相の言葉に重みも無ければ、国民への気遣いもない。
云々をでんでんと読んで憚らない首相が、教育勅語を礼賛し、それを是とする教育方針に賛同する。
うまいことをやって国のカネを引っ張り出そう、補助金を詐取しよう。そんな動きをしてきた“学校教育者”が、許されない行為に血道を上げた人が道徳を説くという嗤うに嗤えない愚行。

だから改めて言う。

この問題で議論すべきは真剣に考えなくてはならないのは「教育問題」だということ。森友問題は日本の教育の根幹にかかわる問題だということ。

改憲から始まって、右派路線に凝り固まっている安倍夫妻。教科書問題、教育勅語の扱い。その他、戦後民主主主義が是としたものを「日本を取り戻す」と豪語し、挙句、核不拡散条約交渉からは離脱する。

唯一の被爆国、その置かれた意義を考えてもいないような。

ポチで周りを固めた実績でアメリカのポチとなるのが得策だとする。中高の教育費無償化にして、なにやら得体のしれぬ思想を教育の中に持ち込もうとしている。

安保法制時に憲法学者が立ち上がったように、今は教育者が立ち上がる時ではないのか。

政治学者は「真の保守」とは何かを語らねばならない。安倍は保守政治家では無い。右翼政治家だ。
それに気づけよ、自民党のぼんくらども。

教育に携わる、専門とする学者は、この国の教育の危機について声を上げるべきだ。

重ねて言う。森友問題は、森友問題が露呈したのは、この問題が教育問題であり、思想問題だということだ。

海外メディアでは日本の右傾化を厳しくしているところもある。

バカバカしいことを書く。
国会で、どこかの委員会で、安倍が出席しているところで、パネルに「忖度」と書き、「総理、この字をなんと読みますか」と聞いてみればいい。“すんど”とでも答えるのだろうか。いや、一国の首相をバカにするような発言をするなと野党を恫喝するのだろうか。

「総理、教育勅語をどう思われますか。教育勅語の存在は戦後に否定されているとしても、それを幼児に唱和させている。
そんな素晴らしい教育勅語を暗唱していただけないでしょうか」。

安倍が怒るか、答えないか、すり替え答弁するか。朗々と「朕おもうに・・・」と言うのか。どっちにしても興味が湧く。

どうでもいいことだが、昨夜安倍は別荘近くの中華料理店で昭恵夫人と秘書官と食事をしたという。
雲隠れしだのなんだの、週刊誌やネットが騒いでいたご夫人はちゃんと「夫婦相和して」おられたではないですか。
安倍家の夫婦仲を“忖度”してもいたしかたない事ではございますが。

2017年4月1日土曜日

「3・11」と政治家たち

昨日、飯舘・川俣・浪江の一部が避難解除になった。今日は富岡。
帰還率はいまのところ1割にもみたない。

「選択」という問題の中で人々の苦悩は続いているはず。
政府の支持を受けて住民が”分断“されていくさまを見ながら帰還に舵を切った当該町村の首長も、政治判断も含めて苦悩と葛藤があったと思量する。

政治家として彼らが背負う難題の数々・・・。

いま、大方の政治家は国会議員という政治家は「3・11」に関心が無い。
昨日をもって被災者や避難者への国の支援はおおかた打ち切られた。

10万人と言う「棄民」がそんざいする「フクシマ」。

3・11時、日本の政治は、日本の統治機構は機能不全に陥っていた。
窮地を脱すべく、時の民主党菅直人政権は自民に「連立」を持ちかけた。

自民党の谷垣総裁はその申し出でを拒否した。

「確かに同期に菅直人というのがいるのは知っている。しかし、彼とは話をしたことも無ければ、一緒に酒を飲んだり、メシを食ったことも無い。そんな男と連立は組めない」。

多くの被災者が“塗炭の苦しみ”に暮れている中、政治の中枢での物事の判断基準がメシを食ったか食わなかったか、ということ。
党利がすべてに優先していたこと。泥舟には乗りたくないということ。

政治家の視線の先には「国民」が存在していなかたということ。

失政のゆえに民主党政権は終焉する。代わって登場したのが安倍晋三政権だ。
国民が安定的で無難な政権を選択したからだ。

安倍夫婦は時折東北3県に足を運んでいた。それは自らを利するという判断があったからだろう。
一強多弱の安倍内閣が誕生した。安倍政治とは何か。
「気に入った、好みの政治家や官僚、経済人などを身の回りに置き、その中にいることに安堵し、言いたいことを言い、やりたいことだけをしようとしている。気の小さな、幼児性を持った男だ」。旧知の元官僚はそう“解説”してくれた。

幼児性は異論を排斥する。痛いところを突かれると攻撃性を帯びてくる。
都合の悪いことは前政権だった民進党のせいにする。
激しい口調で、長広舌をたれ、保身のためにクロをシロに言い換えようとする。

周囲をお仲間で、いわば身内で固めようとし、結果、その身内から寝首をかかれそうな状況をも作る。
古人はそれを「身から出た錆」と呼んだ。

四月、郡山では市長選挙がある。四年前の選挙。現職と挑戦者との間で醜い選挙戦が行われた。
争点は「逃げた」。
現職原発事故を恐れて他県や海外に逃げていたと言う”噂“を振りまいた。

ネットを使っても拡散した。

数日間娘が療養している栃木県に行っていたことはあったが。

逃げたかどうか。市役所には市長の動向を記録した公文書が存在するはずだ。
“破棄”されていなければだが。

現職を破った新人、つまり今の市長。聞くところによると周りはお気に入りの人事で固めていると言う。異論を言うものは”飛ばす“という。
今の市長の頭の中には「原発事故」は過去の事とされているようだ。
カタカナを連発する彼の市政を理解するのはあまりにも難解だ。

どこか安倍晋三との相似性も覚える。

フクシマを知らずしてフクシマを語るなかれ。そんな詩人の言葉を借りて「福島」を思う四月の始め・・・。

2017年3月28日火曜日

訃報ありて後・・・

先々週、学生時代の友人の訃報が届いた。あまりにも愕然として気力すら失せ、彼の事を思い、学生時代のことを思い、何もする気が起きなかった。

彼の名は小澤という。大学の新聞学会にいた。
中学・高校と新聞部にいた身としては、大学でも新聞部のようなところに入ろうとなんとなく思っていたのだが、何をどう間違えたのか音楽研究会なるところに飛び込んでしまった。
主因はその音楽研究会吹奏楽部の部長を中学の先輩がやっていて、「来い」と誘われたことによるのかもしれない。

彼と知り合ったきっかけは定かでは無い。新聞学会の部室に年中出入りし、近所の食堂や喫茶店によく一緒に出掛けた。

彼は足が不自由だった。すごく不自由だった。いつも転びそうな歩き方をしている。
並んで歩くと自然に彼の手が伸びて来て肩を貸すような具合になる。
それが二人、いや新聞学会の仲間達にとっては全くの普通の関係、姿だったのだ。全く苦にならないような関係だった。

彼は大学卒業後、科学技術情報センターに就職した。総理官邸から溜池のほうに坂をくだったところにそのビルがあった。
官邸界隈をうろちょろしていた僕は、時々彼の職場に顔を出した。
「ここは上は皆役立たずの科技庁からの天下りだ」と臆面もなく言ってのけていた。

福島に来てから彼ともだんだん疎遠になった。お互いそれを望んでいたわけではないが時の流れだ。どうしているだろうか。時々気にはしていたが。

一昨年脳梗塞を患い、歩行が困難になった時、彼のことを思い出していた。
御茶ノ水駅から大学までの坂を一生懸命下りてくる姿。
大学界隈をうろついた彼の姿。

彼の訃報を知ったのは弟さんからの手紙だった。肺炎だったという。発症したのが1月20日。悪化して行って亡くなったのは1月31日だったと言う。
1月20日、まさに肺癌の手術をして入院中だったのだ。亡くなった31日、翌日は僕の誕生日だった。再入院した時の病室がホスピス病棟。
そこでもなぜか彼の事を思っていた・・・。

彼の足が不自由になったのは高校くらいからだと書かれていた。原因も治療法もわからない疾患だったという。

彼の訃報はいままで人の死をさまざま見知って来た身でもあまりにも衝撃的だった。絶句だった。

このからから亭、ようやく再開にこぎつけたのに、2週間近く間を空けてしまったのはその衝撃の余波だった。

新聞学会の同級生だった奴をようやく探しだし連絡がつき、あらためて彼の晩年の様子を聞くことが出来た。
70歳まで杖を突きながらも勤務していたという。その後しばらくして体調がすぐれなくなり、療養施設で1年間手厚い看護を受けながらの最後だったと聞いた。

様子を聞いて気持ちの整理がついた。で、ブログ再開にこぎつけた。

彼の墓参はまだ叶わない。花を手向けてねんごろにと思えど果たせない。ただ頭をたれるのみだ。

もろもろ「死を想う」。特に桜花の季節を迎えるとなると・・・。

2017年3月27日月曜日

「よろしく」から「忖度」へ

日本語にはどう解釈したら、どう捉えたらいいのかわからない、がしかし“便利”この上ない言葉がある。

「よろしく」という4文字だ。なにをよろしくという目的語もつかない用語。

政治家からよろしくと言われれば、その意味を忖度してなんらかの措置を手当をするのが官僚だ。

他人の心中をおしはかり、推察することを忖度すると言う。

今、官僚は官邸の意向を忖度することに必死だ。官邸の意向に沿うのなら黒を白とも言いかねない。

忖度に良いも悪いもない。忖度は忖度だ。女房だって夫の意向を忖度するってことは十分ありがちだ。

「一般人」の世界にだって。

安倍政権の“ずるい”ところは、官僚の人事権を官邸に”一極集中“させたことだ。内閣府の中にか、人事局というのを設置し、官僚を「管理」しているのだ。

国会議員の仕事でかなりの時間と働きを要求されることに「陳情」がある。
地元選挙区からの「陳情」に応対し、それに応えること。特に自民党にあっては長年の慣行であり、それをうまくさばけるかどうかが、その人への評価となる。選挙へ影響する。
しかし、陳情できるのはすべての人では無い。各種団体や地元の首長など限られた範囲の人たちだ。

陳情を裁くのは概ね第一秘書だ。役所に同道するのも常だ。
橋をかけろ、道路を作れ、道路の格をあげろ、国有地や国有林の扱いをどうにかしろ。などなど陳情の内容は多岐にわたる。

族議員が生まれる温床もここにある。

役所に行って「よろしく」とさえ言っておけば、役所はその意向を忖度して動く。一言、電話かけるだけでもいい。

これが政治の、国政の中に有る一つの実相だ。選挙区制度のなせる業だ。

国政全般について勉強し、論議をする傍ら、優先されるのは「地元対策」なのだ。

国会議員の多くは、この「よろしく」と「忖度」と「地元の意向」との中で蠢いている特権階級なのだ。特権階級に押し上げたのは国民なのだ。

官僚はおろか自民党の国会議員だって、大方は安倍の、安倍官邸の意向を忖度している。
忖度政治は何も今にはじまったことじゃないのだ。

そうした日々の中でこの国の政治は劣化の一途をたどっている。

そして官僚は勝手に公文書とも言われるものを破棄したりのしたい放題だ。
破棄したと言われるものが残っていた例もあるが。

公文書、公文書に等しいもの、それを残してあるかどうか。保管されているかどうかは、国の歴史にもかかわるものだってあるのだ。

福島にある「忖度」を考える。
東電は国の意向を忖度しているだろう。原子力規制委の意向も忖度しているだろう。
帰還をめぐり住民の意向も、当該町村の意向も忖度の範疇に入るのかもしれない。

忖度政治はなにもいまさら始まったわけではない。
敗戦直後から進駐軍の意向を忖度して行われたことも数々あった。

今でいう「忖度」の範囲から外されているのは沖縄だけかもしれない。

今夜で国会は一区切りつきそうだ。予算が成立するから。

なぜ野党はおめおめと今日の採決に応じたのだろうか。
野党は安倍の何を、自民・公明の何かを忖度したのだろうか。

何も解明されないままの“いきなり選挙”ということかな。

2017年3月26日日曜日

劣化の中の腐敗

病院通いに明け暮れている。かなり回復してはいるものも”劣化“は進んでいる。身体も頭脳もだ。医者との間の会話には「加齢」という言葉がしばしば登場する。自分が劣化していく中で、この国の劣化を連日見聞きしていることにたまらない焦燥感を覚える。

誰かが嘘をついている。

その嘘を誰が暴けるのか。アガサクリスティーか、刑事コロンボか。


「嘘」や「虚偽」が国権の最高機関であるべき国会の中で、また、我々の生殺与奪の権をもっている官僚の間で、臆面もなく平然と横行していることに言葉は悪いが、思わず嗤ってしまう。

諦めの感情に支配されてくる。


政府は答弁書という公文書の中で総理夫人を「私人」だと位置付けた。
ならば、それでもよかろう。しかし、ならば、その「私人」に国家公務員を「総理夫人付」という”肩書“を付与し、夫人をして”わたしの秘書“と呼ばせるのか。

公人か私人か。靖国参拝時に閣僚にそれを聞きただすことを取材の一つだと思っているマスコミもおかしい。
国から報酬を受け取っている以上、私人は有り得ないのだ。使い分けは許されないのだ。

道徳教育を言うなら、論語に尋ねるまでもなく、こんなことは基本中の基本だ。

自らが置かれた立場や身分に“勘違い”をしているのだ。私人付きの女性官僚が国政に関与する行為をやっている。

矩を超えているのだ。

心の欲する所に従えども矩を踰えず 。すでに70を大幅に超えている者が思い浮かべる言葉だ。


歪んだ国家がさらに劣化している。歪みは腐敗を伴う。

「森友学園問題」。すべからく、あまりにも悲しい喜劇だ。籠池は事実は小説より奇なりと言ったがこんな見苦しい、愚かな喜劇を、小説を書ける人はいないだろう。

道徳を説く学校経営者が、およそ我々が思う道徳の範疇から逸脱し、政治家や官僚を使って己が「我欲」を達成しようと図る。

多くが「知らぬ存ぜぬ」と保身を図る。

政治の劣化だけではない。この国の、我々が戦後手中にした民主主義という理念の根幹が、政治を舞台にして揺るがせにされているのだ。

権力者は往々にして卑怯な振る舞いや言動をする。
それを「政治」ということの理念や哲学を全くわきまえない政治家たちが擁護して回る。

かって堺屋太一という元官僚の作家が、講演でよく語っていた戦後の三大神話。
その一つを書く。

「政治家がいかに無能であっても官僚は優秀だから、何事も官僚に任せておけばいい」。

官僚天国なのだ。公然と行われる「天下り」も含めて。

官僚が総理大臣含め、政治家をうまく操っている。

世論に押されて官僚機構にメスをいれてはみても、その先の、為すべき施術を政治家はわからない。そこに優秀な外科医はいない。

サイコパスが大手を振っている。
平気で嘘をつく。それが悪いことだとは思わない。そんな性格破綻者。

政治を読み解くには心理学者や精神科医の見立てが必要なのかも。

右翼かぶれの大阪のおもろいおっちゃんに、ずる賢いおっちゃんに政治家が振り回されているの”喜劇“。その劇の脇役には、あらゆる”劇“がそうであるように、必ず女性がいる。総理夫人、籠池夫人、顧問弁護士だったひと・・・。

こんなことで政治の中枢がてんやわんやの時、福島では何が起きているか。
帰還問題含めて。福島の課題は枚挙に暇がないはずだが。

2017年3月12日日曜日

そして7年目に・・・

早朝の地震は嫌な感覚でした。さっきもありました。
6年前の3月11日、地震と共にいきなり空が雲に覆われ、雪が舞い、3月とは思えない寒さでした。
そして夜中、どうにか片づけた部屋で、度々の余震に飛び起きながらの仮眠でした。
翌12日の天気は良く覚えていません。何をしたかも記憶に無いのです。
今日のような春を思わせる陽気だったのか。

ようやく入手した小さなテレビで、三陸の大津波の惨状にただただ呆然と見入っていたような気がします。

「3・11」に節目なんてありません。単に月日の経過が6年から7年になっただけです。

「時代を追うこと、それは人間を追うことです」。

ウクライナのノーベル賞作家、スベトラーナ・アレクシェービッチが自作「チェルノブイリの祈り」に書いている言葉です。その通りかもしれません。
被災者の声をひたすら聞き、それに注釈を加えることなく書き続けると言う彼女の文学手法。

被災地の被災した人たちにとって大方は節目の無い時代の流れなのかもしれません。そこで日々さまざまな出来事があったとしても。
時代を追うために人間を追うのか。人間を追うために時代を追うのか。
被災地の、被災した人の姿を追うことが事実としてこの時代を語るということになるのでしょう。

仮設問題はいまだ解決していません。3万人以上もの人が仮設に暮らしています。そこが人間同士が身を寄せ合い、語り合えるコミュニティーとなった仮設もあります。

何回も訪問しましたが、4畳半二間に家族が住む。衣料品だって最小限しか買えない。置くところがないのだから。
天気のいい日は表で勉強している子供もいる・・・。
敗戦後、しばらく復興住宅なるところの一間で暮らしていたものにとっては、それがどんな環境なのか実感としてわかるのです。

仮設で亡くなった人は1,700にものぼるということです。その死をどんな状況で迎えたのか。

入院していた最後の病室はホスピス病棟でした。病室の空きの関係もあったのでしょう。また、そこには神経科の医師もいます。疼痛緩和にはその病棟がよかったのかもしれません。

ホスピス病棟は病院の中でも別次元のような空気がんがれています。
静かで穏やかな空気。
看護師さん達も皆穏やかで丁寧なのです。

乱暴で粗野な言い方ですが、そこは病院の中にあって、病気を治すための病院にあって、“死”に一番近い場所です。多くの方がそこで終焉の時を迎えるのでしょう。
大きな病院で、痛みを緩和するための措置としてモルヒネを投与されながら意識が混濁したまま癌で亡くなっていった友人の姿を思い浮かべます。

痛みが緩和すれば退院できる患者としての自分は、その病棟にあってはまさに「異質の存在」であったと思います。
その病室の中で、薬のせいがあるのかもしれませんが、うとうととしながらどうしても、それは痛みと言う苦痛のせいかもしれませんが、それと闘う気力よりも自分の死と言うことを毎晩のように考えていました。

といってもそれはどんな死に方をするかと言うよりも、葬儀の段取りとかその運営とかきわめて事務的なことであり、しかし、それらで家内に未経験の負担を与えるよりは自分で取り仕切っておこうというおかしな話なのです。

仮設で死ぬと言うこと。そこは病院では無く、「今」の家なのですが、不慮の事故は別にして、孤独死は勿論のこと、「終焉」をどうするか、ある意味身勝手な想像なのです。

子供の頃からも人は死について考えます。大人になって他者の死にかかわると、また、その時の自分の年齢にみあったような考え方をします。
高齢になって入院すれば、それはそれで、また違った考え方をするものです。

それは身内を亡くした被災者の方にとってもそれぞれの捉え方、考え方があうでしょう。

病院の中で考える死。死を考えたということ。それも一つの勉強でした。

2017年3月11日土曜日

“帰還”するといえども

入退院を繰り返して、過日、ようやく帰宅となりました。
帰宅後もほとんどが寝た状態でした。

肺癌そのものはどうやら摘出成功のようで、傷もだいぶ癒えてきました。

問題は「痛み」だったのです。手術に伴う神経の損傷、あるいは過敏。
どうももともとこの種の痛みには敏感だったようで。

疼痛緩和のための入院が長く・・・。
とりあえずは“帰還”しました。
退院後も副作用を伴った痛み止めを服用中です。
薬には相性があるようで、そのクスリにたどりつくのに時間がかかり、痛みは緩和されつつあるも副作用の症状もろもろ。

最たるものが眠気とだるさ。よってほとんど寝ているといったような状態で。

パソコンに向かう気力とてなく、無気力、怠惰のみの後期高齢者だったのです。

きょうばかりは「からから亭日常」を復元させねばなりません。
「3・11」後、「仮設が無くなるまで毎日書き続ける」と豪語しました。

一昨年の脳梗塞でそれが途絶えました。その後はご承知の通り。数日おきであたり週刊のようであったり。そして今回の途絶状態に至り・・・。

慙愧に耐えないのです。

きょうでまる6年です。きょうだけは書かないといけないとおもい慣れない手付きになりながらキーを打っています。
思考能力も大幅低下のようですが。

6年を一括りで語れる言葉なんて持ち合わせていません。
それぞれの6年があったのですから。

それぞれの人がそれぞれの思いで、置かれた場所であの日に思いを馳せると言うことでしょうか。

どんなに言葉を並べてみても、6年前のこと、その後の6年間のこと。語れるものではありません。被災した当事者ではありません。
しかし、一人の人間として、福島県に居住するものとして、考えることは山ほどあるのです。

一生、考えて行かなければならないことばかりです。

原発事故を含め、3・11は人のこころを大きく変えました。良いとか悪いとかではなく。

3・11は「分断」と言う言葉を如実に示してくれました。特に、放射能にまつわることどもは県外・県内の分断。県内どうしの分断、被災者、避難者同士の分断を招きました。

「人間が分断される」。

光景が変わったところもあれば変わらないところもある。
しかし「フクシマ」にあっては多くの事が変わった、変えられてしまった。ということになるのです。

単に6年と言う時日が経過したに過ぎないかもしれません。しかし、6年を契機にいろいろなことが変わろうとしているのです。
変わらざるを得ない状況が作り出されているのです。

最たるものが「帰還問題」です。今月中に一部の帰還困難区域を除いて、その動きが加速されます。
大きな選択を住民は迫られます。

病気を経験した者から言えば、医療機関が全く整備されていないところへの帰還は大問題なのです。
帰還者の多くが高齢者であると言われることからしても尚更のことなのです。

除染やインフラ整備。或る程度改善されたといわれます。
医療機関への言及はあまりありません。
住民へのアンケートによればそれが一番の関心事・問題事なのですが。

極端に言えば、病院が無いということは生きる権利の剥奪でもあるのです。

6年・・・。新たな軋轢が始まる時とでも言えましょうか。
県外避難者への支援打ち切りに始まって・・・。

6年と言うのは歴史の通過点です。

悲劇を悲劇として捉える。そんな「素直な感性」がより求められてくるのです。

東芝の例をもってしても原発事業は儲からない。あの大企業の存立すらあやうくしている。アレバ社だってそうだった。

原発は経済成長や”豊かな暮らし“に逆行している。素直な感性の中で、そのことを考え直すための6年と思ってもらってもいい。

もろもろ、6年以降は、新たな困難の始まりだ。
そんな気がしてもならないのです。

とりあえず力尽きました。きょうはこの辺で・・・。
「復活」する考えですので。

2017年2月12日日曜日

「The Fool on the Hill」、VOL2

病気にはなるけど病人にはなるな。そんな言葉がある。

病院とは医者・看護師・患者のトライアングルで成り立っていると思う。
そのトライアングルは、文字通り、限りなく正三角形であることが必要だ。

病気を治すのは医者だ。外科手術を含めて。
病人を治すのは、いや、病人を作らないのは、患者本人の心の問題であり、そのサポートは看護師の役割だ。と、かねがね経験に基づいて思ってきた。
そして、患者は、その両者に信頼を置くことが肝要だとも。

20数年前、右の肺の中葉に出来た肺癌の摘出手術をした。数か月前から背中に激痛を発症。もろもろの検査結果から肺癌と診断され、結局摘出手術。
背中を肩甲骨のあたりから右わき腹まで袈裟がけに。

3か月間の入院。おもな愁訴は痛みだった。どうも癌が神経にさわっていたとかで。

執刀医は慶応病院の教授。見事な手術だったというが・・・。
痛みの解消についてはあまり関与してもらえなかった。

痛みの症状を理解し、多くの助言をくれ、別の医師も紹介してくれたのは、その病棟の看護師。
励ましも含め、「病人」にならずにすんだのは、数人の看護師“軍団”だった。

彼女たちとは今でも、交流がある。紹介してくれた当時の助教授とも。

病気を治すのは医師。病人を治すのは看護師。なぜなら彼女たちは患者の日常、症状に触れているからよくわかっているのだ。
患者の性格含めて。


この時以来、どうも痛みには滅法弱くなったようだ。
一月前の手術の痛みが取れず、より強くなっているの感。

あすからまた入院します。痛みの緩和やあわよくば治療のため。

また丘の上の住人にしばしなってくるのであります。

DPCとか、90日ルール。オブジーボなどの新薬。高野病院のこと。
丘の上で考えたことのいくつかはまたにということで。 

2017年2月4日土曜日

The Fool on the Hill

「放牧」と勝手に称した事が終わりました。
逆説として「放牧」と言ったのであり、実際は入院していました。

病名は「肺がん」。切除手術。退院した今も傷が痛みます。

痛み止めとの共生です。元来、「痛み」には弱い体質であり。20年以上前、右の肺の中葉を切除しています。
その手術は背中を大きく切り開くというものであり。

術後の痛みが激しく、なかなか退院できませんでした。
そして今度は左の肺。
胸腔鏡手術という方法であり、2カ所「穴」をあけ、ちょっと切りのものでしたがやはり痛みがやってくるのです。


その病院は丘の上にありました。丘の上の白い建物。丘の上から四方が見渡せるのです。

病棟は呼吸器外科病棟。

大方は高齢者がベットに横たわっています。

病室の窓外を眺めながらもろもろのことを考えました。


♪The Fool on the Hill♪、ビートルズの楽曲です。
フールをなんと訳せばいのか。

単に“バカ”か、あるいは“愚者”か、はたまた“おろかもの”か。あるいは“変人”か。

ま、さしずめ「丘の上の変人」と自分には当てはめてみました。

曲を作ったポールマッカートニーによれば「モデル」は天動説に異を唱え、教会に反発して異教徒としえ排斥されても地動説を唱えた、ガリレオ・ガリレイだそうです。
それと彼が飼っていたマーサという名前の犬だそうです。

丘の上で雲を見ていると地動説が立証できるということのようです。

♪今日も変人は丘の上に立って太陽が沈むのを眺めていた。
 先入観の無い眼は真実をみた。
 今日も変人は丘の上に立って太陽が沈むのを見た。
 真実をその目で見た。
地球は太陽を中心に回っている。
真実を見る眼が外側から地球をみる。
彼はわかっていた。誰が本当に愚かなのかを。
その彼を皆が嫌う♪

もろもろ考えたことの一つが大統領に就任したトランプのこと。そして安倍政治のことです。

安倍もトランプも“唯我独尊”、自分を中心に世の中は回っていると思っている。
それは全くの確信に満ちた物であり、まさに両者の思考回路は”同盟“に違わぬ、相似たりの、相似形のようなものだということでした。

偉大なアメリカを取り戻す。日本を取り戻す。似た物同士の思考。
これまでも、事あるごとに言ってきた「何から取り戻す」のかということが霧の中の思考。

病院の起床時間からしばらくすると、日によっては窓外が霧に霞んでいることもある。

飼い主とポチとの関係。三権分立をものともせず、ひたすら独裁者の様相を呈しているということ。

「移民排斥」をトランプは言う。笑ってしまう。だって数百年前にはアメリカ人というのは強圧的な「移民」として、先住民から土地を奪った、いわば「移民の末裔」じゃないのかとも。

やはり痛み故、本日の愚言はここまでとします。
折に触れて丘の上で思ったことを書いていきます。

ご無沙汰をひたすら謝し、今後とものご愛顧を願いつつ。

2017年1月9日月曜日

ボク、「一般の人」なんですけど何か・・・

とにかくこの肩書社会の国。何かの名残だろうか。おおよその書類には職業を記入せねばならないような欄があり、役職欄まである。

職業とは、それを生業にしているものであり、カネを稼ぐ手段なのであり、職種は時にはステータスともなる。
しかし、それを持たない身、“年金生活者”としか書く以外に無い。
“無職”としか書く以外にない。

仮に交通違反を起こし、違反切符に、無職と申告したら、多分、怪しげな眼でみられるのだろう。年金生活と申告すれば、事故を起こす年齢層と区分され、免許証を返納しろと若い警察官から言われるのかもしれない。

無事故・無違反なんだけど。

「一般人」という区分けがあるようだ。

例えば芸能界、テレビに出ている人やテレビ局の中で。
結婚や離婚の報道、お相手は「一般人」と言われる。有名人や著名人ではない、タレントではない、センセイと呼ばれる人でもない場合は。

かねがね疑問に感じていたこの「一般人」という呼称。ワイドショーに毒されたのか、官房長官さままでが使い始めた。

そこまでやるのか、と思う「共謀罪」なるもの。法案の呼称は変えて「「テロ等組織犯罪準備罪」とした。内容も一部変更したが、いわば(安倍の常套句)お得意の単なる言葉の言い換え。しかも”テロ“と言う字を前面に出し、国民の恐怖感を利用としているシロモノ。

テロとはおおよそ無関係なものまでがその法律の適用範囲になっている。
甦るんだよな、高校生の時にはじめてデモに行った、警職法改正の事が。
警察官が恣意的に市民を“犯罪者扱い”にしようとした時のことが。

で、菅官房長官が言った。「一般人は対象としない」という詭弁。彼の思い描く一般人とは誰か。

おおよそ、日本という国の中にあって、一般人ではないのは天皇家だけだ。

政治家だって、一般人だったのが、選挙に出てたまさか当選したにすぎない「ただの人だ」。

“猿は樹から落ちても猿だが、政治家は選挙で落ちればただの人だ”。
永田町で流行った名文句。

政治家はおしなべて「センセイ」と呼ばれる。政治家同士でもそう呼び合う。
大学教授も小・中・高の先生も「センセイ」だ。お互いそう呼び合う。

医者もそうだ。弁護士もそうだ。一般人の家庭の出なのに、国家試験に合格すれば「センセイ」という呼称、肩書を持つ。お互いがそう呼び合う。

官房長官から「一般人」と呼ばれると、なんだか「下にみられている、侮蔑されている」と感じてしまう。

ふざけんなよ、おめえら一般人に名前を書いてもらって当選してきた奴に過ぎないじゃないか。

一般人とは誰か、一般人とは何か。

昔の一般人としてのジャーナリスト、マスコミ人なら食いついただろうに。
あんたらだって下手をすれば「共謀罪」の適用対象になるんだよ。だからビビッているってことかい。

無職の年金生活者、後期高齢者は一般人の中に入っているのだろうか。
「一般人以下」ということなのか。一般人にも入れない“元イッパンジン”。

で、当ブログ、からから亭日乗、「毒舌」はしばらく“放牧”します。
休載へのご懸念は“ご放念”下さりたく。

各種の“メンテナンス”これありにつき。


ただ今日の一言。

ワイドショーは「荒れる成人式」を取り上げるなよ。テレビに映るという彼らの承認欲求を満たすためだけのものだから。

2017年1月5日木曜日

鬼の攪乱ではありませんが

鬼の攪乱とは、普段は健康で病気になんてならないような人が突然病を起こすこと指した言葉であり、普通は風邪のことをいうのを承知の上で。

病に苛まれている後期高齢者の喩えにはならないのですが。それが突然だったと言うこともありで、自らを「優しい鬼」にしてしまいました。

そうなんです。不覚にも、新年、1月1日から風邪を患い、寝たきりの状態でした。
寝ていると夢を見る。高熱にうなされているわけではないのですが、いろいろな夢を見ました。

子どもの頃の夢、学生時代の夢、そして、今の身の回りのことなど。
ホテルのマネージャーと口争いしていたり、有り得ないはずのゴルフ場にいて、何回もティーグラウンドでティーを差していたり。
何の脈絡もないことが重なり合ったり、いつも傍らに黒い姿の見知らぬ影がいたり・・・。
夢とはまったく不明なことばかりです。

今年の干支「丁酉」は、いささか不穏な年回りでもあるような謂れもききます。
すでにしてその予兆すら感じられます。
そう、夢の中にはいつも「アベ」くんが登場してもいるのです。

病気になると(風邪が病気かどうかはともかく)なぜか医者や病院の事を考えます。
広野町にある高野病院の高野院長が、自宅の火災により亡くなったことを知りました。もちろん面識はありませんが、テレビの番組ではお姿を、生き方を拝見していました。

あの「3・11」。全町避難の指示が出ているにも関わらず、高野院長は避難しませんでした。残ってくれたまず少ない職員とともに入院患者を守った人です。
享年81歳。たった一人の老医師。
彼の医師としての魂を貫いているのは「患者を守る」という一点だったとか。
原発被災地の双葉郡にはたった一つしか残されなかった病院だったのです。
後継者は現れるのか。医者としての「使命感」を持った人が表れるのか・・・。

床に臥していて「病院」の夢を見ました。目覚めて「医師」のことを考えました。

郡山に菊池小児科という医院があります。知る限りでは初代の院長は菊池寿子さんという郡山では初めての女医さんでした。
鬼籍に入られて数年。その後には長男の菊池辰夫医師が亡くなりました。震災後、郡山の子供を守るために奮闘されていました。
寿子先生が亡くなったのも原発事故の後。
原発を優しい表現の中に強い意志を込めて糾弾していました。

菊池医院の理念は「すべては患者のために」でした。
年中無休でした。
今は孫の信太郎くんが後を継いでいます。子どもたちの遊び場「ペップ・キッズ」を立ち上げています。

なぜか、郡山にある病院の事が浮かびます。土屋病院というのがああります。
その病院の二男で医師の繁裕さんは若くしてくも膜下出血で突然の他界。
その繁裕さんが書いた本に「ドクター・ハラスメント」というのがあります。

医者の患者いじめの事を書いていました。縁あって、その本の宣伝に協力させてもらいました。もう10年以上前の事ですが。

医師も患者も同じ人間です。人間としては同等であるべきです。
医師は、患者に対しても敬意の念を持つべきです。

しかし、「先生」「先生」と呼ばれているうちに人によってはどこか「勘違い」を起こしてくる。
病院内では権力者となり、どこか患者を「上から目線」で見るようになる。

夢から覚めた夢ですが、すでに到来している高齢化社会。高齢者の患者は増加します。高齢者は体も自由には動かせない場合が多い。
自分の意志や感情を的確に伝えられない場合が多い。
高齢者の患者を怒鳴り上げている若い医師がけっこういる。

「醜い光景」に思えるのです。

医療技術の進歩・向上は必要です。その前に、この高齢化社会にあって、医師と患者との関係はどうあるべきか。
国の社会福祉政策、医療行政制度とは、また違った次元での「在り方」が求められる時代になっているような気もするのです。

「医療従事者の人間学」。そんなものを医療教育の場でせめて一年、学んでもらうというのも必要なのではと。

だから僕は国境なき医師団に加わった医者を尊敬します。看護師を尊敬します。
さだまさしの「風に立つライオン」に感動します。
たまにスーツを用いる時は襟にライオンの襟章をつけます。
一つのささやかな“主張”として。

風邪は癒えました。どうも病は歳月とは無関係のようでありまして。