2017年11月14日火曜日

権力としての“非正規雇用者”

猿は木から落ちても猿だが、議員は落ちればただの人。
そんな戯れ句がある。

衆院選挙があった。どれくらいの「割合」で新旧の入れ替わりがあったか勘定したことは無いが、“新陳代謝”があったことは間違いない。

国会議員、衆院議員についていえば4年間の“非正規雇用”だ。補償されているのは解散が無い限りの4年間だ。

その“非正規雇用”を決めるのは我々国民だ。だから議員は国民の雇用者なのだ。だから国民は“雇用主”として、「時間外労働」も含め、幾多の仕事を命ずることが出来るはずだ。
「雇用」も「解雇」も国民に委ねられているはずなのだが。

しかも厄介なことに、この“非正規雇用者”には権力が付与されている。
官僚は“正規雇用者”だ。
しかし、正規雇用者は非正規雇用者に付与されている権力の前に隷従している。

マックス・ウエーバーは「職業としての政治」という著作の中で述べている。
「あらゆる政治行動の原動力は権力(暴力)である。政治は政治であって倫理では無い。そうである以上、この事実は政治の実践者に対して、特別な倫理的要求をつきつけずにはいない」と。

職業としての政治家。
職業に「倫理観」が要求されるのであれば、いや、要求されるべきものだと思うけれど、被統治者に対して服従だけを求める今の政治の在り方は正当なのかどうかということだ。

非正規雇用の政治家が雇用主を思うがままに扱おうとしているということ。
それを是とする風潮が蔓延しているということ。

政治は限りなく「私物化」されている。自己の“利益”のための道具とされている。
国会の質問時間を五分五分にしようと与党はいう。与党による質疑からは、何も生まれてこない。与党の質問は後援会報に載るだけだ。ニュースには成りえない。
質問と言う名の政治の自己目的化。

“希望”もついえた。

非正規雇用者が雇用主に政治と言う名の“暴力”、例えば税金、例えば社会福祉。
もろもろの要求を強いる。

社会システムの中から仮に「非正規雇用者」なる労働者が無くなろうとも、政治家はシステム上では非正規と言う身分には変わらない。
しかし、数多くの特権が行使され、富の構築は進む。
公費を違法に使う。課税逃れに腐心する。

政治のもろもろにふと感じたこと。

2017年11月6日月曜日

その男“二枚舌”につき


アメリカの大統領、ドナルド・トランプの訪日。
安倍とトランプはゴルフに興じた。
「ゴルフ外交」がそこにはあった。

プロゴルファー松山英樹が同伴した。彼がそれを名誉と思ったのか迷惑と思ったのかは知らないが「外交の橋渡し役」を務めたということか。

「いろんな難しい話題も時折織り交ぜながら、ゆっくりと突っ込んだ会話が出来た」。安部の弁だ。
どこで会話が出来たのか。コース上か食堂か。通訳がいないと会話は成立しない。
安倍の言葉通りなら、ゴルフ場はうまいこと道具に使われたわけだ。

重要な会談の場だったわけだ。

想起するのが加計問題。年に数回ゴルフを共にする刎頸の友加計幸太郎。
加計学園建設を巡る疑惑がずいぶん追及されてきた。

「学園の建設とか、手続きとか、そんな難しい話はゴルフ場ではしませんよ。
出来るはずも無い。だいたいゴルフ場とはそんなところではないですよ」。
安倍はそう国会でも答弁していた。

ゴルフ場とはいかなる場か。ゴルフを巡る二枚舌だ。

日本語で難しい話は出来ず、通訳付きで難しい話が出来るということ。
バカもほどほどにしろってな。


昔、政治家と時折ゴルフに行った。フェアウエイを歩きながらの“取材”。
壁の耳も障子の目も無い格好の「秘密の場」なのだ。

“会談”の場とされた霞が関カンツリークラブ。名門中の名門クラブだ。
メンバーシップのゴルフ場。
メンバーでも無いのに、安倍はそこでのプレーを強要した。
ゴルフ場は「掟破り」をした。クラブ規約に違反する行為を是認した。

田中角栄も大のゴルフ好きだった。彼は名門の「小金井カントリー」への入会を切望していた。
総理大臣と雖も、いかに金持ちであろうとも「小金井」は彼の入会をなかなか認めなかった。入会が認められた時の彼の嬉々とした表情は忘れられない。
「そのうち君らも同伴プレヤーとして連れて行くよ」。実現されなかった。

神奈川にスリーハンドレッドという会員制の、規約が厳しいゴルフ場がある。
クラブハウスでは上着着用から始まってマナーやエチケットに厳しいゴルフ場だった。
白洲次郎が作ったゴルフ場だと聞く。白洲は毎朝のようにフェアウエイに出て、一人草むしりとゴミ拾いをやっていたという。

トランプと安倍。あまりにも共通点が、似通った点が多い。傍若無人な振る舞いから始まって、口を突いて出る言葉の嘘と虚勢と脅し。

10回程度の電話と数回の「首脳会談」で、彼らは信頼できる盟友になったという。

ホワイトハウスの側近の意見よりも「シンゾー」の意見を聞く仲だと訳知り顔の政治評論家もどきが言う。

共に北朝鮮へは強硬姿勢だ。戦争も辞さない意向だといわれる。
「北」と戦争になれば2千500万人に“影響が及ぶ”といわれる。
日本も「確たる軍事同盟」のもと戦争に巻き込まれる。
そうなればアベノミクスも一億総活躍も福祉社会も地方創生も関係ない。
戦火に怯える一億国民ともなりかねない。

国土が灰燼に帰す戦争はもうまっぴらごめんだ。

「戦争」すらもトランプは「ディール」の対象でしかない。

トランプの支持率は36%、安倍の支持率も50%をいったりきたり。

またぞろ今夜も二人は肉料理に舌鼓をうつのだろう。
肉好きの人は好戦的だ。11月のある日、ある人はそう言っていた。

2017年10月30日月曜日

免疫力低下ということ


どうも脳梗塞の後遺症らしきものは随所に現れるものらしい。
歩行はリハビリでいくらか改善されたが、気力の減退は甚だしい。
視力は低下している。視力と関係があるのだろうか。片頭痛にしばしば襲われる。

そして大方、一日中眠い。すぐ眠くなる。
これらの“自覚症状”を総称して免疫力低下と位置付けてみることにする。
思考力も衰える。考えることはするのだが、それが導き出したことをすぐさま忘れる。
記憶は定かだが、記憶を導き出すのに苦労する。

選挙が終わり、“政局”らしいかすかな動きは感じられるものの、それを語ることへの“免疫力”が低下しているようだ。

安倍自民の不条理さ、不合理さは相変わらずだし、虚偽の言語を臆面もなく吐くし、「謙虚」という言葉を、何らの実態も無く、閣僚どもは天井裏に隠れ住んでいるフクロウのようにもごもごと言う。

11月1日に召集される特別国会の会期はいつまでになるのか。
所信表明演説や代表質問、質疑はあるのか。
選挙で「大勝」したのだから、そのことへの所信は述べなくてはいけない。
「国難」なるものへのいかなる対処をするのか“支持者”の前だけでなく広く国民に示さねばならない。それが選挙の「理由だった」と言ってきたのだから。

野党はばらばらだ。その隙を突くかのように「質問時間」を減らすという。議席数に応じて時間を割り振ると言う。
なぜか。彼や彼らに「答弁能力が無い」からだ。

与党に与えられた質問時間でまともな論議が出来る議員がどれほどいるのか。
仮に多くの質問時間をこなしたとしてもマスコミは報じない。
八百長、馴れ合いの質疑に意味を見いだせないからだ。
しかしNHKだけは中継をするだろう。

いや、与党は質問時間を“放棄”するはず。そうすれば予算案や法案成立への時間が大幅に短縮できるから。

どうも、この国では政治への免疫力が低下しているようだ。

大企業の不祥事が絶えない。なぜか。経営トップは現場を知らない、見ようともしないからだ。どこか政治と似通っている。

テレビでは「安全」を過剰にうたった新車のCMが繰り返されている。
それを買える能力のある人達はどれくらいいるのだろう。

もちろん、それは「事実」であろうが、高齢者の交通事故が多発しているという報道がしきりだ。「安全な車」を買えと“サポート”しているみたいだ。
カタルニア地方の独立をめぐり、いや、欧州各国でくすぶっている、表面化している「流動化」。そう、世界はかつてなく動いている。
カタルニア地方の人はスペイン語でなくカタルニア語を話す。使う。
ガウディーもダリもカザルスもそうだったのか。

広辞苑が何年かぶりに改訂される。なにやら意味不明の、やがてすたれるであろう“新語”や“流行語”、苦し紛れの様な“意味”が加えられる。条項が加えられる。
“9条加憲”の憲法問題と空気を同じくするように。
もう広辞苑を引用した文章は書けないような気にすらなっていく。
そんな「舟が編まれる」なら。

言葉、ことば、コトバ・・・。
「言語は思慮のための道具」ではなくなっていくようだ。

あすも病院。この散漫たる頭脳を「すっきり」させてはくれないものかと問診でお願いしてみよう。

2017年10月24日火曜日

あらためて「民意」とは「言葉」とは

新聞の選挙情勢調査は当たる。
予想されていたこととはいえ、開票と同時に出されるテレビの与野党獲得議席数。やはりそうか・・・。
自公の三分の二以上の議席獲得。激しい危機感に襲われた。

早速動き出した安倍はどんな政治を打ち出してくるのだろう。
公約の前面には出さなかった改憲を言ってくるのは間違いない。

あえて「三分の一の民意」と言ってみる。
自公に投票した人は有権者の三分の一に過ぎないのだから。

獲得議席数が「民意」として名付けられ、「民意」を得た人が赤絨毯の上を闊歩する。

自民党が獲得した票は有権者の三分の一。しかし獲得議席は285。

議会制民主主義を“はき違えて”いる人達にとっては、あくまでも「数」は力であり、それなりの振る舞いをまたぞろしてくるのだろう。

落選した人達に票を入れた有権者。彼らの「民意」はどこに反映されるのか。
今の安倍自民には少数野党への敬意もそこに別の民意が存在していることを認識すらしないだろう。

それが何故だかはわからない。安倍は民進党憎しで凝り固まっていた。その民進党を「解党」させてしまったことに満足感をおぼえているのだろう。

希望の党、希望が失望になり、絶望にと変わり果てた。それでも50議席は確保した。
ふってわいたように生まれた立憲民主党、55議席を確保し、野党第一党となった。

とりあえずは分散された野党。アリが巨像にどれだけの戦いを挑めるのか。
小池騒動の中で、それでも政治家の矜持を保とうとした野党系無所属が20人ほどいる。それと立憲民主がどこまで合体できるのか。野党が野党で有り続けるためには「分散野党」がどれだけ一体化出来るかにかかっている。

人には持って生まれた「性質」というものがある。変わると公言して変わり得なかった小沢一郎のように。
安倍の虚言癖は治らないだろう。謙虚さや丁寧さは(それは政権を担う者にとっては一番の必須要件なのだが)実行にうつされることはないだろう。

だから考える。
285という数字は安倍への信任票だったのか、自民党と言う、長い歴史を持つ保守政党への期待票だったのかを。

民意が最大限、可能な限り反映される選挙制度でなくてはならない。今の選挙制度は民意を一番反映しにくい制度だ。
捨てられたに等しい多くの死に票。その票の中に存在する民意。

自民党の得票率は48%だった。獲得議席は75%だった。
比例区では得票率33%、獲得議席は66。

しかも自民の獲得票は安倍支持票だけではないということ。

小選挙区で落選、比例区で復活当選。選挙区で示されたその人個人に対する「評価」が比例区で、政党と言う傘の下で当選とされる。有権者への裏切り制度だ。

おかしな民主主義だ。選挙制度を変えなければまともな議会制民主主義は形成されない。

議席数は民意を正当に反映させていないという制度。

しかし議員からはそれを口に出すものはいない。今の方が自己にとって好都合だから。国民本位では無い、議員本位、政党本位。


この国の政治家は「言葉」を持たない。

失言だけが話題となる。本人は失言とは思っていない。その時は。
「あんなやつら」「排除」・・。

ケネディーが演説で語った言葉。
「合衆国が諸君に何を為すかを問うな。諸君が合衆国に何をなせるかを問え」。

この言葉はアメリカの若者を奮い立たせた。この言葉によって考えた。

日本の政治家にはそれが無い。考える手段である言葉を持たない。「コトバ」の応酬に推移している。


「言葉」の無いなかで、この国は政治もどき行為が続いて行くということ。

2017年10月21日土曜日

「どちらでもない」、「どっちかと言えば」

総選挙の投票日が明日になった。天候は悪いと言う。
投票率は・・・。おそらく低いだろう。
投票率が低ければ組織政党に有利だ。

世論調査なるものは与党300議席超の勢いと伝えている。

何のための解散だったのか。全くわからないままに600億円もの国費を安倍の一存で行われた選挙。

伝えられる調査結果には唖然とせざるを得ない。
「消費税」も「国難」もとってつけた解散理由。
なぜ民意を問う必要があったのか。なぜ、なぜだらけのままの選挙。

いつも思う事。世論調査のこと。
意識調査も含めて「どちらでもない」という答えが多いという事。
設問の仕方に問題ありとおもうのだが。

政党支持も「どちらかと言えば」という曖昧な“意志表明”。改憲に関しては「どちらともいえない」という意志表明。

政党支持に関して聞けば、いわゆる無党派層と位置付けられる回答が多数を占めているという事。

優る、やや優る、普通、やや劣る、劣る。小中学時代の成績評価だった。
大学は優、良、可、不可。だった。不可だけは赤字、単位をとれなかった。

そんな昔にあったことが、選挙の調査の結果報道と、無関係なのだが、どことなく“二重奏”のように重なる。

曖昧などっちつかず世論調査の方法に改善の方法はないのか。民意をもっと具体的に鮮明に読み取れる方法はないのか。
毎回、ありきたりの定型文のように行われる調査なるもの。

棄権はよくないという。それは同感だ。しかし、今の選挙制度、政党本位とされる選挙。小選挙区比例代表制、政権交代可能な選挙制度という定型文のうたい文句。

この制度に異を唱える人は少ない。決められた枠内の選挙の反発する。
民意は反映されないからだ。
「死に票にも意義がある。民意があると見るべきだ」と訳知り顔でいう識者。
死に票を限りなく少なくする方法を考え抜くのが真の政治なのだ。

「政治討論会の発言の持ち時間は議席数に応じて配分しろ」。かつて自民党は大声でそうテレビを脅した。議席数の少ない共産党を指していた。
いまは一人しかいない「日本のこころの党」に等分の発言時間を与えている。
それは許されるのだ。自民党と同じことを言うのだから。全くの応援団なのだから。

「国難」と安倍自民は強調する。国難とは「3・11」だ。経験したことの無い国難そのものだ。それは今も依然として続いている。
「3・11」を凌駕するような国難に我々は遭遇していない。

第一次安倍政権時代に1Fに15,7M以上の高さの防潮堤が必要だとの学舎の見解が示されていた。
安倍はそれを歯牙にもかけなかった。

「3・11」時、未曽有の国難であるにもかかわらず、自民党はお手並み拝見とばかりに民主党政権がボロを出すのを待っていた。国難であるが故に菅直人は自民に連立を願い出た。時の総裁は谷垣専一だった。「菅とは一回もメシを食ったことも酒を飲んだこともない。どう言う奴かわからない。そんな政権に協力できない」と断った。
永田町の論理、慣行が優先され、国民不在を示した一つの出来事。
その「精神」は今でも引き継がれているのだろう。

あげく安倍は「アンダーコントロール」などという大嘘で世間を、世界を騙した。それに忸怩たる思いを持っている安倍自民の議員はいるのだろうか。

たまたまコンビニに行った。おにぎりもサンドイッチも小さくなっていた。
店の人にそれを指摘した。
「アベノミクスのせいですよ」と店の人は答えた。

コンビニの常連の18歳以上の初めて選挙に臨んだ若者は何をし、何を感じただろうか。

日曜日の夜八時。時報と同時に各テレビは勢力分布を出す。
安倍の高笑いが聞こえる。その速報番組を観ているであろうボクがいる。

選挙は何ものも“浄化”しなかった。
「国民のみなさまに信任を得ました」とワイドスクリーンに映されるテレビのインタビューで誇らしげにいうのだろう。改憲を声高にいうのだろう。
“宰相A”は。

あ、そうそう、選挙中はJアラートは鳴りませんでした。北朝鮮もミサイル発射を控えているようでした。
突然に拉致と言う言葉が“ぬか喜び”を誘っているようでした。


2017年10月14日土曜日

見苦しき者、汝の名は政治家なり。

隣の田んぼの稲が刈られていました。稲は今年の役割を終えた。役割を果たした。と言わんばかりに・・・。
また来る季節の為に土は眠りにつく・・・。

また脳梗塞を発症してしまいました。しばし入院していました。大事に至らずに退院出来たのですが・・・。

この間に大事な事を二つ果たせなかった。
親しい知人が逝った。その別れの場に行けなかったこと。別れを言えなかったこと。


生々流転、有為転変・・。

選挙が始まった。始まったというか佳境の様子。
何のための選挙だかわからない選挙なのに。

常在戦場という決まり文句がある。
田の草取り、手入れと言う決まり文句の政界用語があります。

政界は「1強多弱」とここ数年言われてきた。強者はその地位に胡坐をかき、全くの哲学、倫理観を持たない、やりたい放題の政治を行ってきた。

マスコミが伝えることの選挙にまつわること。それを見聞きしていると、
ストレスのタネは尽きません。ストレスに蔽われることしきりです。
考え事ばかりしてるのは病気に悪いよと医師はいいますが。

稲刈りを遅らせた田んぼの前で安倍は選挙遊説の第一声を発していました。
支持者だけを集めた会場だったそうです。夫人が製造に関係しているとかいう酒瓶を掲げていました。
おにぎりをぱくついていました。それは全くの”演技“にしか思えませんでした。

福島での第一声。安部にとっては縁起のいい場所でした。過去の選挙にならうと。
しかし、安倍政治が「福島に及んでいる」かどうか。全く安倍政治の中からは福島は「阻害され」ています。

マスコミの世論調査では自公が300議席を上回るとか伝えられています。
「世論調査」は精度を増しています。おおかた外れたことはありません。

それは「野党勢力が分散されたから」と言われます。

幼馴染に金子秀史というのがいます。彼の従兄弟は映画監督をやっています。
2004年だったか。総理府の依頼で選挙啓発映画、棄権防止の短編映画を作りました。
映画の題名は「希望の党」。ある家庭が舞台です。父親も母親も選挙には関心がありません。投票日には遊びに行ってしまいます。
子供はその親に反発します。毎回選挙に行っていました。

希望の党が出現し、選挙で支持を受け、政権政党になります。政権は選挙に行かなかった人、過去3回棄権している人に罰を与えます。
投票に行ってその党を支持していた娘には要職が与えられます。

その党は蓋を開けてみればとんだファシスト政権でした。徴兵制を採り、とんでもない社会となって行きます。

「選挙にいかないとこんな社会になりますよ」。そんな警鐘を鳴らす映画でしたが。

少なくとも党名だけは現実に出現しました。”野党“の一部もそこになびいていきました。その結果は・・・。

18歳まで選挙権年齢が引き下げられました。しかし、旧態依然とした選挙の中ではほとんど話題になりません。

選挙制度を変えるべきです。小選挙区比例代表制は「民意」を正しく反映しません。
しかし、選挙で勝った党は「民意に支持された」と、さらなる暴政、言葉を持たない反知性的政治を加速させるでしょう。

政党政治、政党本位の選挙とはなんなのか。
無所属と言う立場の候補者も、いや、無所属で出られる選挙制度が必要なのではないか。資金が無くても、組織が無くても選挙に参加しやすい制度が。

昔あった参院の「緑風会」を思い出します。その人たちは「知性」の側に立っていたという歴史の事実。

これまで「ミソをつけてきた、政治家として失格」と思われる人も当選してくる情勢だとか。

政治家はあらゆる意味でその立場にいる限り「強者」です。一般市民としての有権者は「弱者」です。しかし、選挙の時は立場が逆転します。弱者である有権者に頭を下げまくる候補者たち。当選すれば強者。

選挙というのは弱者が一時的に強者を作り上げる過程に過ぎないのでしょうか。

政治は劣化しています。見苦しく立ち回っている人を多く見ます。
なんかディストピア物語としての選挙のような。ユートピアを語れる政治家は存在しないという事。

久々に愚痴を並べている自分も悲しい・・・。

2017年9月28日木曜日

「漂流」、「混沌」、「危惧」・・・。

民進党という政党は何だのだろう。政界再編なるものの徒花だったのか。
希望の党なるもののなかに吸収される民進党議員、いや候補者。

「恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」

そんな古歌が浮かんだ。

葛の葉とは狐の異名だ。敢えて小池百合子なる人を女狐を呼ばせてもらう。

謡曲に載せた舞台の上で変幻自在のごとく政界を泳いでいるからだ。

民進党をのみ込んだ希望の党。命名発表時の理由は、まさに「この国には何でもある。希望だけが無い」のパクリだ。

小池用語には辟易する。やたら横文字を連発する。ダイバーシティー、ワイズスペンディング、アウフヘーベン・・・。
「わからなかったら辞書を引いてごらんなさい」と流し目で笑みを浮かべる。

政界渡り鳥だし、気を見るに敏な“大物”だ。そしてまごう事なきマキャベリストだ。

「民進党から来る人を全て受けいれるわけではありません。私が会って話を聞いてから決めます」。

恐れ入ります女王様。

小池の一人芝居では無い。この芝居には振付師がいる。小沢一郎だと思う。
監督は小泉純一郎、助監督は細川護煕というとこか。

安倍1強にはほとほと愛想が尽きている。政界再編、願うところだ。しかし、小池は安倍の対抗勢力なのだろうか。

お坊ちゃま前原は”狐“に騙されているのではないか。
小池は国会復帰を狙っているとも伝えられる。
あの熱狂した都知事選は何だったのか。
都民も騙される。

20年くらい前か。藤原新也という写真家で作家が書いた本に「東京漂流」というのがある。高度成長で華やぐ大都会の裏面、裏街道の人生を切り取った写真と文章。

その本を思い出した。都民は漂流するのだ。民進党の候補者、議員も漂流するのだ。有権者は選択の指標を失うのだ。
無様な体たらくを見せつけていた民進党にも8%の支持者がいた。この人達は“選挙難民”になるかもしれない。

この企てに連合も関与していると言う。連合の中には原発推進の電事労連もいる。
やはり烏合と言わざるを得ないのではないか。

希望の党なるものの実相は全く見えない。反自民で固まっているとも思えない。
政界一寸先は闇という言い伝えがあるがまさに然りの感ありだ。

野党共闘の梯子を外された共産党は怒り心頭だろう。
全選挙区に候補者を立てるとか。
共産党が票を伸ばすことも十分考えられる。

選挙の構図はわかりにくいものになる。まさに政界は混沌だ。カオスだ。カオスの名はカオスだ。
やはり国民不在の政治が展開されることを危惧する。

青天の霹靂ではない仕組まれた小池劇場。小池もまた老獪な政治家の「タマ」にされているのかもしれないし。

狐につままれたようなここ数日。

そろそろ秋です。小池が提唱して強制したクールビズなるだらしない服装から脱する季節です。

政治を「リセット」するそうです。パソコンじゃあるまいし。

しがらみとは何を指すのかも不明だし。

窮鼠の前原は猫にすり寄ったのかな。

「出て壊し入って壊す小沢流」。戯れ句を思い出した次第。

小沢神話は生きているんだな・・・。

2017年9月27日水曜日

「“異次元”の解散劇」

あす、衆院は解散されると言う。
あす臨時国会が召集される。そこでの冒頭解散だという。

国会には会期というものがある。
通常国会は150日間と定められている。
臨時国会では与野党が協議して会期を決める。

明日からの国会には会期がない。
会期の無い国会って“成立”するのか。

それとも会期は明日1日だけという事か。

会期の無い国会。幻の国会だ。国会を開かなくても解散は出来る。
わざわざ解散の詔書読み上げだけに議員は参集する。

衆参共に「議席の指定」という最優先課題はあるのだろう。
しかし、その議席はもはや自分の席では無い。
戻れない自席・・・。

会期の無い国会とは過去あったのだろうか。
成立要件を満たしていない国会のように思えて。

幻の国会、幻の解散。

内閣改造があった。閉会中審査で委員会に出席した閣僚もいるにはいるが大方は国会答弁無しの幻の閣僚。

この人事は決めた安倍自身がご不満だったのか。

選挙でチャラにしての新しい組閣。それが狙いなのかな。

解散詔書の読み上げ前に内閣不信任案を出すと言う「奇策」もい出す人がいる。
事実上は有り得ないことだと思うが、やれるだけやってみてはどうか。

議席の指定直後の不信任案提出という異次元のことを。
否決される。信任される。選挙の必要はなくなるという論理。

野党は本会議を欠席すればいい。あの空疎な「バンザイ」におつきあいする必要なんてないはずだ。

自己都合の解散なのだから。勝手にやってればいい。そんなハラの括り方も痛快だ。

安倍の安倍による安倍のための解散。それに付き合わされる議員も気の毒と言えば気の毒だ。

議会制民主主義すら無くしたこの国。
希望の党だってか。しゃらくせえよ。

横丁のご隠居がそういって怒っていた。

後世に残るかもしれないな。名言ではなく迷言として。
「異次元」なるお言葉。

2017年9月24日日曜日

“絶望”の国に化している

「この国にはなんでもある。しかし希望だけが無い」。

希望の国のエクソダス、村上龍の作品の中にある”名言“だ。

今、我々は希望の国に住んでいるのか。違う。まさに“脱出”をはかりたいくらいの絶望の国に住んでいる。

北朝鮮の問題をめぐって、この国の政治思考の貧困さが露呈され、首相の発言でこの国は危機にさらされている。
トランプの尻馬に乗って北への制裁圧力のみを言い募る。
北の危機を煽る。

選挙の争点に据えるのか。それはしない。

政治と言うものは他人の言葉の尻馬に乗って力を誇示することでは無い。
攻撃に加担しようとすることではない。

北をおさめ、トランプに忠告し、危機が招来しないように、国民の生命、安全が危うくなることを避けるようにする。危機を無くすように意を注ぐのが政治だ。

「国際間の紛争を武力で解決しようとしない」。それが政治のあるべき姿だ。

暴言居士の麻生が、ナチス礼賛とも思われる言葉を吐き、米朝が戦争に突入すれば、北朝鮮から多くの難民が押し寄せてくれば、警察や自衛隊でそれらの上陸を阻止し、場合によっては射殺するとまで言い放つ。
総理大臣を経験し、安倍の側近の如く振る舞う副総理。

76歳になるまでキミはいったい何を学んできたのか。
ヨーロッパの国、例えばドイツからしてみれば危険な国とさえ受け止められないだろう。
品位も品格も無い国との烙印を押される。

政治とは難民が生まれないように外交を含めて、世界の各国との共存を図るべきものなのだ。

何を言っても彼らには「ごまめの歯ぎしり」にしか映るまい。
そうだ。ごまめの歯ぎしりというブログを綴り、原発反対を言ってきた河野太郎なる三代目も、国連の「核拡散条約」を拒否している。

「希望の党」というのが誕生するとか。

既成政党の“能無し”に飽きた都民が選んだ徒花としての百合。
小池にすがる議員どもの、議員を目指す者たちのなんというあざとさ。

何をもって「希望」と位置付けるのだろうか。

何をもって税金を使っての選挙を行うのか。
選挙を希望していた、洗礼を受けろと請願していた国民はいるのだろうか。

「美しい国」という言葉だけをひっさげて登場した安倍政権。
結果は、なれの果ては「醜い国」だ。

政治をいくら批判してもそれを聞く耳は持ち合わせていない側近の官房長官。

若いころ見てきた政治の姿は無い。政治家の矜持も無い。あるのは“異次元”の政治だけだ。もちろん悪い意味での。

米朝もし戦わば・・・。“戦場としての日本”が出現することになるかもしれない。
日本人が難民になることだってありうる話だ。

積極的平和外交とは何だったのか。その片鱗すら見せてもらったことはない。

憲法を無視し、皇室をさげすむ。

そんな堕落した政治の中で、国民も精神的堕落に陥っている。

丸山真男の書いたものの中に「自己内対話」という論考がある。そんな思索の道を安倍様ご一行は考えてもいまい。

都民ファーストという“ファースト”と言う言葉が嫌いだ。国民ファーストという言葉も嫌いだ。
ファーストという言葉の語感からは一種の「差別」も感じる。
アスリートファーストという言葉も嫌いだ。
アスリートを目指しながらアスリートに成りえなかったスポーツマンだって大勢いるのだから。

「この国には何でもある。しかし、それらは絶望を伴ってやってくる」。

2017年9月22日金曜日

解散の「大義」ということ


25日に衆院が解散されるそうだ。
解散の大義をめぐってなにやらいろんな話が伝えられている。
もともと、というか政治史を見ても解散に大義なんてあったためしがない。

解散せざるを得ない理由があっただけだ。

「バカヤロー解散」も「追い込まれ解散」も「死んだふり解散」も解散に名は付けられたが“大義”など存在しなかった。

広辞苑には大義とは重要な意義、大切な意味とある。人のふみ行う重大な道義、国に対して為すべき道としか書かれていない。

大義、あるいは大義名分を糾しても致し方ない。それは解散権を持つ者の「都合」「私利私欲」「党利党略」でしかないからだ。

安倍は「追い込まれて」いるのか・・・。

今度の解散に名前を付けるなら「異次元解散」だ。
失敗に終わった「異次元の金融政策」、アベノミクス。
好戦的な北朝鮮に対する「異次元の制裁」。どういう行動を指しているのかわからないが。
そしてなによりも自らの“疑惑”隠し解散。

卑怯な男だ。

解散には大義は無くとも「理由」は存在する。
その理由は自己都合の勝手解散。

解散には憲法の7条解散と69条解散がある。69条解散は内閣不信任案が可決された、いわば国会の意志による解散。
7条解散の解釈は難しい。内閣の助言と承認により天皇の国事行為としての解散とされているから。

とにかく解散する「理由」がまともな人間、政治家からすれば見当たらないのだ。

「選挙で禊をすます」といわれている。すべてが御和算、清算されるといわれている。

それを狙っているとすればとんでもない“違法行為”だ。

選挙には800億円の費用がかかる。そんな大金をかけてもやす選挙の意味はなんだ。

安倍政治、安倍の発言は“嘘”という縄を繋ぎ合わせてきた。

「常識」でかんがえてみよう。
安倍は北朝鮮の脅威を煽ってきた。北朝鮮に喧嘩を売り続けている。
国民は騙されているのかもしれない。

「Jアラート」なるもので混乱させておいて、北朝鮮の脅威を「在るもの」と洗脳しながら、北の“脅威”がいつあってもおかしくないと言いながら、有事には対処が不可能になるような衆院の解散を行う。

政治に空白を生じさせる。北の脅威は本当は「無い」ということなのか。

安倍は極端に民進党や共産党が生理的に嫌いなようだ。国会答弁の喧嘩腰をみていればわかる。

民進党が衰退化している。この際、民進党を徹底的に叩こうという事か。

野党は不甲斐ない。野党共闘で揺れている。
安倍政権を倒すには野党共闘しかない。
政党間の協議では埒があかないなら、市民団体が主導権を握ればいい。

安保法制や共謀罪で連日国会を取り囲んだ実績。
シールズや市民団体の動きに野党が引きずられていたようなかっこうのあの時を再現することも出来るはず。

民進党の“内紛”は自民を利している。舐められている。だったら安倍の常套句ではないが“異次元の策”を考えればいい。

前原よ、自民党に手を突っ込めよ。もしかしたら自民から”野党“にまわる人だっていないとは限らない。
「そんな人が数名はいる」と言えば自民に動揺が走る。
疑心暗鬼を生む。

知将と言われた戦国武将ならそうしただろう。

総選挙後の特別国会や臨時国会、いやそれも拒否するだろうから来年の通常国会でも「モリカケ問題」を野党は忘れないことだ。
禊を済ませたなんて言わせてはならない。

今、解散総選挙を行う。自民党は勝つ。公明も勝つ。安倍政権は続く。任期は東京オリンピックまで十分ある。
安倍の野望は開会式の場に立つことなのかもしれない。大叔父と比肩しようと。

全てがばかばかしく虚しい限りだ。

付け焼刃の選挙公約が出されるだろう。まさに付焼刃。まともに取り合う気にもなれない。
古い膏薬だ。すぐに剥がれるメッキだ。

満腔の怒りの中に身を置き続けなければならないと言う不条理。

2017年9月18日月曜日

「戦争」と唐様で書く三代目

北朝鮮のミサイル、核問題で連日かまびすしい。
Jアラートなるものが鳴らされ、その賛否論議もある。
北の意図、今後をめぐってメディアは百家争鳴だ。


北朝鮮の主導者、金正恩は北朝鮮と言う国が生まれてからの三代目に当たる。
彼の野望は祖父金日成を超えることにあると聞く。
祖父の為し得なかったことを成し遂げることに自らの存在価値を見出そうとしているとも聞く。
小国北朝鮮が核兵器をもつことによって大国アメリカと肩をならべようとしている。その戦争兵器を持つことで民草がいかに貧しい生活を強いられようと歯牙にもかけない。

日本の主導者安倍晋三も岸家の三代目。彼も祖父を超えようとはかる。
祖父が悲願とし、成しえなかった憲法改正を悲願としている。
祖父の時代は再軍備と言われたが、唯一の被爆国であり非核三原則という祖父の弟が作った国是をも“無視”して核を持たんかの勢い。
北の行為に「異次元の制裁」と怒り、お前たちには明るい未来は無い事を思い知らせてやると言う。
口にはするが拉致被害者対策がなされている気配すら感じられない。
大国アメリカと同盟と言う名の連携に余念が無い。

北の暴挙を諌める側近はいない。何か言えば殺される。北の親玉は独裁者だ。
安倍政治の在り方を、その独裁政治を諌める側近はいない。

独裁者は常に孤独だと言われている。孤独から抜け出そうと強がりを連発する。

北の敵はアメリカ。日本の大の仲良しはアメリカ。だから北の敵に日本もなるという三段論法。

なんともはや、三代目の多い事。小泉家、鳩山家、中川家・・・。

昔、商家は三代目で家を潰した。
売り家と唐様で書く三代目 。江戸時代の戯れ語だ。
「初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれている。
遊芸にふけって、商いの道をないがしろにする人を皮肉ったもの」と物の本にはある。

北朝鮮の三代目、日本の三代目。国を潰すことはないと思うけれど。

北のミサイル、安倍政治の愚挙。真正面から論じるのもたばかられ、昔の戯言を借りてみた。
国を売るわけはないから「戦争」に置き換えて。

唐様の字を書くわけがないから、安倍はパソコンで誰かが打った文字を読み上げ、金正恩は“風格ある”女性アナウンサーに読ませている。

なんか冗談話も上手くは書けないな。おあとがよろしいようで・・・。

2017年9月11日月曜日

「11」という日

きょうは9月11日だ。今から16年前、時差の問題はともかく、アメリカ、ニューヨークの超高層ビル、世界貿易センタービル2棟にテロリストによってハイジャックされた民間航空機2機が突っ込むと言う前代未聞のテロ事件が発生した日だ。

世界の最強国、文明国アメリカを震撼させ、阿鼻叫喚の渦に巻き込んだ。
我々はテレビの画面を通して突入する飛行機、やがて崩れ落ちる文明の象徴ともいえる瀟洒なビルが崩壊していくさまを見た。

ビルの跡地は「グラウンドゼロ」と呼ばれ、このテロによる犠牲者は3千人にのぼる。

その跡地には犠牲者の名前が礎に刻まれ、追悼式が行われる。

16年前、2001年は世界の歴史の転換点だったのかもしれない。
テロという言葉が日々伝えられるということになった事からしても。

そして今、北朝鮮と言う国がアメリカに向けて「テロ」を仕掛けようとしている。

9・11のテロ実行犯はアフガニスタンに拠をおくタリバーンというテロ組織だとされた。
テロの報復としてアメリカのアフガニスタン侵攻が始まった。空爆も行われた。
数多くの民間人も犠牲になっている。

アフガンで亡くなった人たちの名前はどこかに刻まれているのだろうか。

アフガン戦争は泥沼化している。まだ終わってはいない。タリバンがISをはじめ、その他のテロ集団を生んだ。

世界は分断された。

難民が多数生まれている。
そして、時として難民は排斥される。

分断がさらなる分断を生んでいる。

東日本大震災も11日だった。2011年3月11日。あれから6年半。
その「後遺症」は依然として残ったままだ。

その被災者の亡くなった人の名前は国としての慰霊碑に刻まれていない。それは設けられていないからだ。
原発事故は、どれかは“正義感”によるものかもしれないが、デマと風評という人間が持つ「醜さ」を露呈させ、多くの分断と差別を生んだ。

たぶん解消されることのない分断と差別。

北朝鮮問題をどう捉え、どう理解すればいいのか。
何にしても、新たなテロに日本も巻き込まれるかもしれない。

21世紀に限っていえば、「核」を中心に世界が蠢いている。

唯一の被爆国、非核3原則を国是としているはずの日本が核禁条約の締結に参加せず、北の核に怯えながら、アメリカの核に依存する。
核の使用も辞さないアメリカに身を預け、もう破れているはずの核の傘を信用し、「異次元の制裁」を首相は口にする。

「戦争」は必ず金儲けをする人達を伴う。朝鮮戦争、ベトナム戦争で日本の経済は潤った。
北の脅威を前面に打ち出すことで防衛予算は増大する。防衛産業は潤う。

一枚のパンすら食べられない戦争の犠牲者となった人達が居る。
一杯のミルクを飲めない子ども達が居る。

沖縄返還時「核抜き本土並み」と沖縄の人たちは乞い願った。
冷戦構造時、沖縄には多くの核兵器が配備されていた。
ソ連や中国を“仮想敵国”として。
核持ち込みの「事前協議」という妥協案が「他策ナカリシヲ信ゼント欲ス」と密使に言わしめて・・・。事前協議とは妥協の産物であり、形骸化した外交の産物だ。その対象に沖縄は含まれていない。という“合意“が有ったとも聞く。

ナイキやトマホーク、それらの核兵器がどうなっているのか。真相はわからない。新たに持ち込まれているかもしれない。温存されたままかもしれない。
北朝鮮という“テロ国家”の脅威に対抗するために。

平和解決をドイツやスイス、スエーデンの首相は言う。日本はさらなる軍事力の強化をいう。トランプはアメリカの「死の商人」の如く、兵器を買えと迫る。

原発の汚染水問題は凍土壁が出来たからと言って解決には至ってない。汚染水は増え続けている。

「11日」はテロを想起し、自然災害、原発事故を考え直す日だ。
「11日と言う日は学び、知り、考えるために与えられた日なのかもしれない。

2017年9月9日土曜日

「街の本屋さんです」

コンビニに寄った。車を停めたところから張り紙が見える。

「セブンイレブンは街の本屋さんです」。

セブンイレブンのネットを通して本を購入するということらしい。
セブンイレブンが“本屋さん”・・・。

毎朝開く新聞には本の広告ページがある。
新刊も再版も含めて大量の本が出版されている。
触手が動くものもそうでもないものも。

どんな本が出版されているのか。「情報」としての「広告」。
それが「購買」にどれほどつながっていくのか。

それにしても「馴染み」の人がよくもまあ、こんなに次々と書けるものだと感心する。
本を書くことにはかなりのエネルギーが必要だと思うから。

時々本屋に行く。やはり本は「手に取ってご覧ください」だと思っているから。

詩人の長田弘が言っている。
「わたしは本屋に本を探しにいくのではない。なんとなく本の顔を見に行く」と。

街から本屋が減っていると聞く。大きな書店はともかく、地方都市から小さな“街の本屋さん”が消滅しているという。
「書店ゼロ自治体」が2割を超えるという。

人口減に加えて、雑誌を扱うコンビニの増加、活字離れなども影響しているそうだ。「文化の灯が消えた感じ」だと当該市の役所の人は言う。

「周辺に大きな本屋ができたり、ネットで買ったりする人が増えて20年前くらいから客が減ってきた」と書店を経営してきた人は嘆く。

小中学生が学校帰りに立ち寄れる本屋さんは必要なのだとも思うけれど。

昔し話しで申し訳ないが、子供の頃は「貸本屋さん」に入り浸っていた。
「一泊はいくら、二泊はいくら」。借りたら早く読み上げないと小遣いが足りない。
せかされるような思いで本と親しんできた。

高校生になると区営の図書館に通った。大学に入ると神田の古本屋を巡っていた。

本を読むにはエネルギーがいる。

若いころにはそのエネルギーがあった。今は無理だ。一冊を読むのにかなりの時間を必要とする。

おかしな性分だ。本に囲まれていないと落ち着かないのだ。
本は背表紙を眺めているだけで、何かを書こうとしている時の「ヒント」ともなりうる。

にも関わらず書棚から「消滅」していった本。家の建て替えや引っ越しの度に本が無くなっていく。

在ると思っていた本が無くなっている。その錯覚。
五味川純平の「人間の条件」を読み返そうと探した。やはり無かった・・・。

本屋で気に入った本を買う。その本を持って近くの喫茶店に入る。珈琲を飲みながら煙草を片手に読みに入る。
楽しみの一つだった。贅沢な時間だった。

本屋は減った。喫茶店はカフェと呼ばれ新しい店が出来ている。煙草は「公共の場所」では吸えなくなっている。“街の本屋さん”では煙草が売られている。

東京オリンピック、パラリンピックを控えて東京都は禁煙条例を制定するそうだ。

昔の小説家は大方、煙草をくわえて書いていたようだ。記念写真にはよくその姿がある。1964年の東京オリンピックの記録映画を製作した市川崑監督は煙草を片時も手放さなかった。フィルムによく火が移らなかったと思うくらい。

国会議事堂内にはあらゆる場所に灰皿が置かれていた。スタンド型の。委員会室もそうだった。

自民党の総務会では「灰皿」が飛び交っていた・・・。

目下は喫煙者ではありません。お医者さんにきつく言われてます。
禁煙外来で“治療中”だったのが2011年。3月11日は薬の治療が佳境に入った時でした。
ストレスからの煙草復活。されど去年の肺がん手術。

きょうのような秋晴れの快晴。白い雲の下で白煙を吐くのが快感だった時代もあった。もちろん本を手に持って。

2017年9月4日月曜日

「かまってウンチ」

躾のある程度行き届いた犬も、飼い主にかまってもらえないとトイレでないところでウンチをする。怒られるのはわかっていて。
無視されているより怒られた方がいいらしい。

それを「かまってウンチ」というのだとペット屋さんから聞いた。

立て続けの北朝鮮のミサイル騒ぎ、核実験騒ぎ。
国際社会からさらなる「孤立化」を招いている“三代目”のある種の焦燥感が狂気の沙汰に及んでいるのではないか。

事前通告なしの北海道の上空を通過したというミサイル。
Jアラートに混乱させられた日本。

日本国中が避難騒ぎに話題が集中したことを三代目は満足しているのかもしれない。

Jアラートのばかばかしさはあらためて書くには及ぶまい。

それにしてもお粗末な政治家がいるものだ。
グアム近くの海域にミサイルを打つ。事前通告をした。ミサイルの航路も発表した。

島根、広島、四国。

なんで”計画を変えた“のかはわからない。

島根出身の自民党総務会長の竹下亘が「人口の多い広島ではなく、島根に落ちても意味が無い。ミサイルの精度が上がり東京や大阪、米軍基地を狙ったものが間違って島根に落ちることは無いと思ってはいたが」。そんなことを広島県内で語ったと言う。

言わずとしれた竹下登の異母弟。NHKの経済部記者出身。認識も発言もとても要職にある政治家のものとは思えない。

経済制裁を受け、非難をされる。核を持つことで、核保有国になるということで、自国の立場を優位に立たせようとしているのか。

孤立化の中で、次々騒動を引き起こす。存在感を誇示する。
まさに「かまってミサイル」「かまって核」と揶揄してみる。

かまってウンチをした犬は、怒られると「ゴメンナサイ」のポーズをとる。
「仲直り」をする。

「三代目」と話し合いをすることはおそらく不可能だろう。
北朝鮮の狙いがアメリカだとして、アメリカとの仲立ちをするのがアメリカの同盟国とされる日本だが、トランプと完全に一致と数度にわたる会談でもそれしか伝えられない。

アメリカと完全に一体化しているような日本が何を言うが北は受け入れまい。

テレビでは連日「専門家」が登場し、それぞれ薀蓄を傾けている。
希望的観測を述べたり、憶測を語ったり。

国民には何も真相がわからない。ツイッターで発信されるトランプの真意もワカラナイ。

何もワカラナイのだ。

もしかしたら、またJアラート騒ぎに巻き込まれるだけなのかも。

「平和」という言葉が宇宙の彼方に飛んで行ってしまうようだ。


2017年8月29日火曜日

「太平の眠りを覚ます・・」


朝、まだ熟睡中、夢の中にいる時、傍の携帯電話機がいままで聞いたことの無い“警報音”を鳴らし、Jアラートで北朝鮮のミサイル発射を伝えた。
「緊急避難」を呼びかけていた。

ようやく起き出し階下にあるテレビをつけた。
NHKの速報番組。

いやいや煽っているな。の冷めた感情。

なんとなく浮かんだのが「太平の眠りを覚ます蒸気船」の句。
眠りを覚まされたのですから。

北朝鮮が日本に向けてミサイル発射と言う「国家の存亡にかかわる事態」なのに、私事で恐縮。

数分待ったがミサイル被害なし。北海道沖に着弾とのこと。

ミサイルは発射されてから数分、長くても10分後には着弾する。
Jアラートが鳴った時にはすでに事は終わっているはず。

テレビに言われて即座に避難した人もいるようだ。どこに逃げていいのかわからずに。

ミサイルは強固な建物も破壊する。その威力はイラクやシリアの映像で周知のはず。
安全な逃げ場なんてないんだ。

蒸気船ならぬミサイルの襲来に上も下も冷静さを失ってしまう。
社会生活に影響を与え、株価や円など経済活動に影響を与え、右往左往させる。
北の脅威を味あわさせる。北の狙いはそこなんだろうとも。

「空襲警報発令、空襲警報発令」。あのころ民草はこぞって近くの防空壕に殺到した。70年後の太平の時代には防空壕なんてない。

もしも、それら避難する場所があったとして、そこに人々が殺到すればどうなるのか。
パニック騒ぎになる。避難者同士の争いも引き起こしかねない。

いったいぜんたいこのJアラートなる警報システム、国は何を狙っているのだろう。

やがて官邸での記者会見。総理、外相、防衛省、官房長官。
曰く「ミサイルの動きは発射前から完全に把握していた」。

ならば「恐怖のアラート、混乱のアラート」なんてならさなくてもいいではないか。
そのことは知らせるべきだが、いち早く収束させる「広報」をするのも政府の役目。

米朝対立と言う構図の中に畢竟日本はまき込まれていく。

北の暴走を止める手だては持たない。

またJアラートの鳴る朝を迎えることだろう。


ミサイル騒動がなければ、きょうは亡くなった羽田孜の事を書きたかった。
「瀬川ちゃん」「孜ちゃん」と呼び合う仲だった。
九段の議員宿舎に一家で住んでいた。
ある日、カバンを斜め掛けにした男の子二人が学校から帰ってきた。あの狭い議員宿舎の部屋の中に卓球台が置いてあり、兄弟はすぐに卓球遊びに夢中になっていた。
「おい、卓球小僧」と呼んでいた長男はすでにして議員となり、参院の要職をこなしている。

彼の秘書と連絡を取り合った。あの省エネルックをめぐり、みっともないから止めろと言い、これが大事なことあのだと言う彼と時々やりあった。

省エネの服は地元のシルクを使っていた。有楽町の蚕糸会館の中に、今でいう長野のアンテナショップみたいなところがあり、そこでシルクのシャツやパンツ、挙句はふんどしまで買わされた。たしかに肌触りは絶妙だった。

メシを食いに行こうと言うことになる。メシを食い、帰ろうとなると彼は財布の中にカネが無いという。払うよとこっちが言う。
居酒屋の様な所の勘定を何回持ったことか。

カネには無縁の男だった。

友人の秘書の願いは孜ちゃんを総理にすることだった。
わずか64日で退陣したが、その秘書は言ってきた。
「とにかく総理にしたんだからな」と。

有為転変。そんな言葉が当てはまる政治家人生。
そういえば総理になった時、郡山に来た。蕎麦好きの彼を郡山の素人そば打ちの家に案内して一献傾けた。その家には彼の色紙があるはずだ。
どこにでも気軽にいく。何処に行っても気取らない。

稀有な政治家だったことだけは確かだ。

リハビリの有った日の体はだるい。

2017年8月27日日曜日

「防空頭巾」と「防空壕」

北朝鮮のミサイル騒動が続いている。
ミサイルによる挑戦以外にこの国が国際社会にその存在を誇示できる方法がないからだろう。

誰からも相手にされず、仲間にも入れてもらえず、入らず。その孤立感から抜け出すために“暴力”をもって自らの存在を誇示しようとする、アイデンティティーを見つけようとする。そんな犯罪者の心理にも通じるようなものを感じてみる。

かつては「拉致」という非人道的なことで国際社会を震撼させた。
日本の拉致被害者のことは“話題”にものぼらなくなった。

北朝鮮と言う国が何故、どうして出来たかという“歴史”はともかく、この「狂国」の扱いに国際社会は有効な手立てを持たない。

“三代目”はとかく狂暴になるということか。

72年前の8月、戦争が終わった。なによりも4歳の少年が嬉しかったのは、毎晩枕元に防空頭巾をキチンとたたんで寝ると言う作業をしなくてもよくなったということだ。

空襲警報が鳴るたびに、叫ばれるたびに防空頭巾を纏い、避難を繰り返していた。
姫路が大空襲に襲われ焼夷弾が嵐のように落ちてくる中、一家は防空頭巾をかぶって逃げまどった。

たぶん、あれは山陽本線の踏切だったのだろう。軍用列車の長い列が、とてつもなく長く連結された貨物列車が走っており、その踏切を渡らねばならなかった。

街は燃え盛っており、後ろから火の手が迫っている。線路を渡るのを断念し、脇道を選択した人たちは焼死したと後から聞いた。

線路をようやくわたり、とうもろおし畑に身を伏せて一夜を明かした。
途中で祖母がはぐれた。

夜明けとともに母親が祖母を探しに行った。祖母は防空頭巾に火がつき、燃えるがままの頭巾をかぶったまま走っていたという。
消防団の人が、傍の小さな川に突き落としてくれたという。

命は助かったが、生涯顔や体の一部に“ケロイド”を持ったままだった。

最近、各所でミサイル避難訓練がある。頭を伏せ、両手でかばうと言う姿勢。
強固な建物に逃げ込むと言う訓練。

落下物がミサイル本体であればなおさらのこと、ミサイルから切り離されたロケットであっても、それがパック3で撃ち落とされたものであっても、クソの役にも立ちそうもない避難訓練。
国からの指示なのか。その”訓練“を励行する自治体。笑える。

その「行事」を淡々と書いているマスコミにもあきれる。

防空壕にも何回か入った。人いきれが充満し、湿った狭い空間。閉所恐怖症を引き起こしかねない空間。

アメリカのメーカーに核シェルターの発注が日本から急増していると言う。
300万から1千万円。富裕層に人気なのだとか。

ミサイル攻撃は終わった。シェルターから出てみると辺りは焦土だった。
コンビニもスーパーも無い。
食い物が無いと言う状況。これとても笑える。

ミサイルは人が開発し、人が発射を指示する。

原発立地地域でも避難訓練が時々行われている。

徒歩で何キロ逃げられるのか。バスは来るわけが無い。爆発した原発の近くに。
陸路が使えなくて海路からの避難。船が来るわけが無い。

6年前を思い出す。
郡山市の対策本部には完全装備の格好をした自衛隊員が参加していた。
市が市民に通達したのは、テレビがしきりに呼びかけていたのは、マスクをしろ。窓に目張りをしろ。帽子を被れ。家に入るときには洋服をはたけ、着替えろ。手を洗え、顔を洗え、ウガイしろ。あれは何だったのか。
なんの意味も持たなかったのではないか。

原発も人が開発したものだが、人の意志と人の手で廃止にすることが出来る・・・。

その国のトップの問題なのだ。

2017年8月22日火曜日

サムサノナツハオロオロアルキ

ご存知、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節。
賢治がいた時代にも冷夏があったのだろう。冷害があり、飢饉に苦しめられたこともあったと聞く。

飢饉、東北の歴史にはついてまわっていた悲劇だ。

オホーツク海高気圧がもたらす湿った冷たい風を「やませ」という。

“やませ吹く谷に一揆の墓ならぶ”  大西八洲雄

「やませ」の影響なのだろう。今年の八月は異常だ。
列島はゲリラ豪雨に見舞われ、天災に見舞われている。

寒暖の差が激しい。日照時間が極端に少ない。
農作物への影響は大きい。

野菜の価格が高騰している。値段だけでは無い。味覚にも影響している。
今年収穫されるコメはどうなのだろう。今から気がかりだ。

病を得た身にはこの気象が堪える。体調は不全だ。

現代の異常気象の原因は温暖化にあるとされる。地球温暖化を招いたのは人間の所為だ。

海産物、魚の漁獲量も今年の変動は激しい。
不漁のものが続出している。たとえばイカ、たとえばサンマ。

海の生態系が変わってしまったのも人間の所為だ。
乱獲もある。海中へのゴミの不法投棄による汚染・・・。

八月の飢饉。それは72年前の“飢餓”を想起させる。
家を焼夷弾で焼かれ、疎開した農家の離れ。
日々、餓えていた。

東京大空襲、終戦。

焼け野原の中を人々は食べ物を求めてさ迷い歩いていた。
一家をあげて上京した少年は、着物を米に替えるべく東北本線で地方にむかう母親につれられて上野駅の構内を歩いていた。

上野駅の地下道。そこには浮浪児が、孤児が溢れていた。その子たちの眼差しからは“怖さ”が伝わって来た。

着物が”化けた“コメは臨検で没収された。
浮浪児狩りが行われ、あの子供たちはトラックに放り込まれ、どこかに運ばれて行った。

あの子たちは72年後の今、どうしているのだろう。

東北の飢饉は娘の「身売り」という現象を生んだ。食い物のために娘を手放す親の心中・・・。

戦後、東京の街には進駐軍があふれていた。いつの間にか子供たちは進駐軍から食い物を貰うようになっていた。

「ギブミーチョコレート」の世界。

進駐軍の「お相手」をする若い女性が生まれて行った。数寄屋橋にはその溜り場が出来ていた。
そこには戦争未亡人もいた。こどもに食わせるために致し方なくの選択。

72年後、捨てられる食品は一日60万トンともいわれる。
物の豊かさと心の貧しさが同居している戦後72年。

不順な天候の中、束の間の晴れ間をぬってリハビリのために歩いている。
その様は賢治の詠った「オロオロアルキ」のようにも思えてきて。

2017年8月15日火曜日

八月の「もやもや感」

きょうは72年前、天皇の終戦の詔書が読み上げられ、戦争が終わった日とされている。

敗戦を認めた日とも言える。

詔書が出されたにも関わらず、例えば樺太ではその詔書が伝達されず、軍からは「樺太死守せよ」という命令が出されていた。

進攻してきた“ロシア”軍に、南樺太にいた日本人は、殺された人も、自決した人も何万人といる。

浅田次郎のノンフィクション的小説「終わらざる夏」にそのことは詳しい。

不可侵条約を一方的に破棄した“ロシア”は、樺太はじめ北方領土、北海道の一部を占領することを目論み「終戦」を無視して攻め込んできたのだ。

沖縄と同じだ。

本土防衛の「捨石」だったのだ。

今年も戦没者追悼式典があった。55回目の。参列者は遺族中心に6千人余り。
参列者は年々高齢化している。
戦没者の孫の時代にあたる戦後生まれの参列者が4分の一を占めるようになったと言う。
戦争の記憶を次の世代へ継承するため、2年前から18歳未満の青少年遺族が献花に参加している。

72年と言う歳月のこと。

天皇陛下はお言葉の中で「反省」という言葉を使われた。
天皇自身の、昭和天皇の名の下に行われた戦争。
それを「反省」とう言葉で総括されている。

安倍首相は反省という言葉は使わなかった。アジア諸国についても言及しなかった。今年も・・・。

いつも思っていることがある。

沖縄では「屈辱の日」に県民大集会がある。

本土で、戦没者を追悼する国民誰しもが参加できる「追悼の集まりの場」はないのか。ということ。
もちろん「現実的」な問題提起ではないとわかってはいても、千鳥が淵や靖国だけが個々に参列する追悼の場というのは追悼の国民的意味から言ってなにやら「物足りなさ」を覚えて来た。

かつて佐藤栄作は「沖縄の返還なくして日本の戦後は終わらない」と言った。
返還はされたが、そこは未だ返還前と同じ状態だ。

戦後は終わっていない。この国にとって「戦後の終わり」といえる状況は無いのかもしれない。

福島の復興なくして日本の再生無し。安倍は何回もそれを口にした。
福島は復興されたのか。日本は再生されたのか。

まやかしだった。

安倍は平和と言う言葉を数回つかっていた。

日本はその憲法に於いて「恒久平和」を誓っているはずだ。
恒久平和を目指すには今の日本の外交・防衛政策はあまりにも“乖離”している。

それよりもなによりも国として戦争の総括がされていない。自国民が多数死んだ、殺されたということへの「責任」は明確にされていない。

原発事故とて然りだ。

詩人で歌手である沢知恵さんという人がいる。
3・11後、東北を慰問し、福島をも訪れている人だ。

彼女はきょう、あらためて自作の歌を上げている。
「われ問う」という歌だ。この日へのメッセージとしてだろう。

“8月15日に、われ問う”。

大好きなおじいちゃん どうしてこの国は戦争したの?
おじいちゃんほどの人が どうして戦争を止められなかったの?
大好きなおじいちゃん ほんとうのこと教えてよ
どうすれば同じあやまちを くりかえさなくて済むの
ここまでなら大丈夫と だまって見ているうちに
気づいたら 何ひとつ自由にものを言えなくなっていた・・・

沖縄の風化。原爆の風化。そして戦争そのものの風化。
日本人の14%が8月15日を知らないと調査に答えていると言う。

何故か。

教育の場で戦争を伝え難くなった。伝えなくなった。
家族の形態が変わった。
3世代同居という家族の形は無くなった。
単体の家族が東京に集中している。
親から子へ、子から孫へ「教える」「伝える」環境では無くなった。

戦争体験の無い世代は、自分たちで学んで行かねばならないのだ。
教ええくれるのを待っているだけではいけない。
自分の意志で、それを「取りに行かねば」ならないのだ。

戦争を伝えるという事の方法は時代と共に変化してくる。
経験者は減少の一途たどる。

しかし、戦争を伝える記録は残されている。いや、まだ見つかるかもしれない。
書かれたものも多くある。

原爆を敗戦を、その事実を、その実相を、自分たちの物として学び、受け入れ、考える。
そのことに対して多くの人たちがある意味“無関心”であり、過去のことと思ってしまっている。

それが八月におぼえる「もやもや感」なのだ。
4歳の少年の記憶が断片的であることへの「もやもや感」でもあるのだ。

2017年8月10日木曜日

封印した“記憶”を解く決意

長崎の原爆忌の平和宣言で田上市長はこんなことを語ってくれた。

「人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。

 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験した街として、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。

人間が人間に対して人間の言葉で、自分の言葉で語る。

広島の市長も自分の言葉で語っていた。自分は体験していないものの、学んだ結果として。

「このような地獄は決して過去のものではありません。核兵器が存在し、その使用を仄めかす為政者がいる限り、いつ何時、遭遇するかもしれないものであり、惨たらしいめに会うのはあなたかもしれません。
それゆえ、皆さんにはぜひとも被爆者の声を聞いてもらいたいと思います」と。
「被爆者の体験に根差した良心への問いかけと為政者に対する誠実な対応への要請をわれわれのものとし、世界の人々に広げ、次の世代に受け渡していこうではありませんか」。

長崎市長は「福島」にも言及した。寄り添うと述べた。
被爆者代表としてあいさつした深堀好敏は88歳。

「私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います」と力強く語った。
彼は表舞台では発言しないタイプの人だったが、今年は自ら公募に応じて語った。

広島でもそうだ。今まで被爆者であることを隠し、凄惨な記憶を、思い出したくない光景として“封印”してきた高齢の体験者が語り始めた。

勝手に想像させてもらう。
自分たちが封印を解き、語ることが、亡き家族や友人への「手向け」になると思い至るようになったからではないか。
人間はいつしか命果てる時が来る。72年前に果てた人、生き延びてやがて果てるかもしれない人。

後代にその「事実」があったことを伝え、託しておかねば、「生命を全うした」と自分に納得できないからではないかと。

72年前の記憶。それはその場で体験したものだ。記憶を無くしてはいない。

72年後の日本。倉本聡の「「歸國」というドラマではないが、政治家や高級官僚はつい数年前に体験したことの記憶をなくしていると強弁する。快適な環境の中で見聞きしたことを。

「記憶にありません」「記憶がございません」。

歴史を抹殺しにかかっている。

それは「絶対悪」の平成版なのかもしれない。


2017年8月6日日曜日

「我が家の犬はゲンキと云う名だった」。8月6日に思う事。

きょう、8月6日を前に、昨夜は中沢啓二の遺書をめくっていた。
「はだしのゲン わたしの遺書」と言う本。

著者の母親は広島で被爆後、しばらくして亡くなった。

“荼毘に付された骨はあまりにも軽く、喉仏がどれなのかわからなかった。
「放射能は骨をくいつくし、スカスカのもろいものにする。
原爆と言う奴はおふくろの、大事な大事なおふくろの骨の髄まで奪っていった“

“福島の原発事故は「やっぱり来たか」という感じで受け止めた。原発と原爆は違うと言ってこの地震の多い国で原発を増設してきた政府、それを黙って受け入れて来た日本人に憤りを感じて来た。

みんな「カネ」なのだ。

放射能の恐ろしさを知った広島・長崎の教訓が今回やっと認識されてきたのではないでしょうか“

中沢さん、違うよ。認識なんかされてないよ。そう本の中の活字に向かってそう言ってみた。

“福島の風評被害のニュースを聞いて、ぼくは広島・長崎の被爆者差別を思い出した。被爆者は避けられたのです。
唯一の被爆国なのに、放射能のことが正しく理解されていない。
なんと情けない事か“。

“ぼくは男の子の孫に「元」という名前をつけました。ハダシノゲンで書いた僕のメッセージが、これからも伝わって欲しいとねがっているからです。

「元」は「元気」の元、「元素の元」です。

「はだしのゲン」は「麦」が大きなテーマのひとつなんです。
ゲンの父親が語る「ふまれても ふまれても 逞しい芽を出すような麦になれ。

ゲンは麦に象徴されるように、踏まれて、寒い風雪に耐え、たくましく、まっすぐに伸びて豊かな穂を実らせます。

僕たちには、きっと負けない「麦の精神」があるのです。

「はだしのゲン」はわたしの遺書です。


昨夜、歌番組から氷川きよしの歌う「一本の鉛筆」が流れていた。歌手は涙ぐみながら、唇をかみしめながら歌っていた。

今朝、8時15分。毎年の如く黙祷を捧げた。

毎年めぐってくる8月6日、9日の事

70%の国民が8月6日は何の日だと問われてもわからないという時代になった。そんな報道があった。

72年・・・「知っている人」と「知らない人」が区分けされて語られる。

「知らない」のではない。「知ろうとしない」ということだ。
原爆も戦争も、体験していなくても学ぶことはいくらでも出来る。

広島の小中学校がこれまでは「登校日」だった今日を登校日とすることをやめたという。

学ぶ機会を「お上」が奪っているように感じる。制度上の問題点を都合よく当てはめて。

この国はどこか間違っているのだ。

平和祈念式典で平和宣言を読み上げた松井一実市長は7月に国連で採択された核兵器禁止条約に言及し、「各国政府は『核兵器のない世界』に向けた取り組みをさらに前進させなければならない」と訴え、その橋渡し役となるよう政府に求めた。
続いてあいさつに立った安倍首相は核兵器禁止条約について一言も触れなかった。

先頃の国連でも日本は核保有国と歩調を合わせるように、総会を欠席した。

唯一の被爆国であるからには、核兵器禁止条約に率先して賛同すべきなのに、欠席戦術、不参加を決め込む。

北朝鮮がどうたらとかを理由に挙げていたが結びつけるには難がある。

明らかにアメリカの顔色を窺っているとした思えない行動。
世界の「笑い者」にされているのをどう考えるのか。

近代史の中での日本の“汚点”だ。

相変わらず「核の傘論」に執着している。もはやそれは「破れ傘」のような拠り所なのに。

「日本が核武装することは憲法に抵触しない」。そんな解釈改憲が今の政権下ではまかり通っている。
核武装を真面目に主張する政治家や論壇がある。

核兵器禁止条約にむけて、その先鞭の道をとることが積極的平和外交と言えるのだと思うが。

核兵器は、核戦争は何ももたらさない。廃墟を生むだけだ。
核兵器を持つことは一部の軍需産業に膨大な富を与えること以外の何ものでもない。

中沢啓二さんは2012年に亡くなった。
我が家の「ゲン」もそれから間もなく旅立った・・・。

2017年8月5日土曜日

やはり「永田町」は藪の中

安倍は新しい内閣の看板政策として「人づくり内閣」という言葉を繰り出した。
ひねり出してきた。
そして、この内閣を「仕事人内閣」とも称した。

「人づくり」ということの意味が、内容がさっぱりわからない。「人づくり」ということが、素養を高める、優秀な人材を作るということであるならば、それはまず政治家や一部の“悪質官僚”に対して言えることではないか。

内閣をあげてお粗末な政治家の再教育を行う。「人づくり内閣」とはそういう意味だと、“好意的”に理解する。

「仕事人内閣」だという。仕事をして結果を出す内閣だと言う。
当たり前でしょ。仕事をするのは。

じゃ、前内閣の閣僚だった人は「仕事の出来ない人」だったということになる。
たしかにろくに仕事も出来ない無能な人が多々いたのは事実だが、それらを任命したのは安倍さん、あなたでしょ。

河野太郎や野田聖子という安倍政治に異論を唱えてきた人を登用した。
「俺は懐が深いんだ」というところを見せたかったのかどうか。
閣内に取り込む。一つの人事の手段だ。
かつて、総裁選を争った佐藤栄作が河野一郎を取り込んだように。

河野一郎の孫の河野太郎を外務大臣に起用した。彼は自民党内にあって「ごまめの歯ぎしり」と称して、反原発、原発政策にかなり専門的知識をもって疑義を呈してきた人物だ。

組閣後の記者会見で、核燃料サイクルのことを問われた。
「所掌外のことについては発言を差し控えます」ときたもんだ。

持論を封印したようだ。

「大臣」とは「国務大臣」というのが最初の肩書だ。国務大臣として担当が決められる。彼の場合、いわば「外務省担当」といことだ。
国務大臣である以上、国政のすべてのことについて、例えば閣議の席でも意見を述べる権能を所持している。いや、そうするべきだ。

所掌外と言って逃げたところに彼の、彼自身の「人づくり」の限界を見た。

「コメントを差し控えます」「答弁を差し控えます」。
今や政界、官界の常用語だ。それで大方がまかり通ってしまう。

おかしい、けしからん。無責任きわまりない“言葉”だ。

それが許されているという“藪”。

そんな答えが返って来たとき、質問した記者はなぜ二の矢を放たないのか。
「何でコメントできないのか、コメントしないという事の意味は何か」と。

コメントを控えると言う言葉。控えると言う曖昧語。
総理大臣様が“改心”して申し述べた「丁寧な説明」の真逆の“言”だと思うのだが。

改造に合わせたように民進党の細野豪志が離党した。離党者続出の民進党。
結局「烏合の衆」で出来上がっていた集団ということか。
いくら声を張り上げても政権の受け皿にはさらさらなり得ない。

安倍政権は“安泰”なのだ。

野田聖子は「言いたいことは言う、総裁選挙には出る」といった。有言実行を待つとするか。

しかし、民進党よどこへ行く。昔、面倒を見た吉良の仁吉は居ないぜ。

で、取りあえずなんだかんだと。藪の中は怖くて覗けないので。

2017年8月2日水曜日

「「出来ない理由」と「出来る理由」。

3・11で経験した、あらためて思い知った官僚の体質。それは中央官庁にとどまらず、地方自治体もだ。

被災者の明日の生活が懸かっているもろもろの問題。補償、住居、生業・・・。
大津波で瞬時に家や家財、田畑、漁場を失った人達。

彼らに対応する行政はいやゆる「お役所」そのものだった。
既存の法律を盾に、多くの要望は退けられていた。

仮説住宅にしてもそうだった。国の方針はプレハブだった。規格も含めて法律通りの対応だった。
木造の一戸建て仮設は認められなかった。

「法律ではこうなっているから。」法の壁は巨大だった。

他の法律を精査すると“可能なこと”も多々あった。

どの法律を適用するか、法律をどう解釈するかによって対応は全く違っていた。
多くが「出来ない理由」を書いた法律をとった。
「出来る法律」を探す努力をしなかった。

土地の問題、高台移転。

「超法規的措置」という言葉が頭の中を渦巻いていた。福田赳夫が用いた言葉だ。

原発事故の対応でも、東電への対応でもそうだった。未経験の災害や人災に対しての行政の対応は「出来ない法律」を理由にすることだった。
それらの法律は明治の時代に作られたような古色蒼然としたものもある。
法律の中に整合性が取られていないものもある。

かつて田中角栄がこんなことを言った記憶がある。「なるほど」と受け止めた記憶は消えない。

「君たちももっと法律を勉強しろよ。法律には“裏”があるし、抜け落ちている部分も多々ある。それを埋めるのが政治家の仕事なんだ」。要旨そんな話。
だからか、彼は数々の議員立法を提出し、成立させてきた。

本四架橋の問題が大きな政治課題だったころ、メディアもあげて、どのルートが、三つのどれが採用されるのかに関心を持っていた。
まるで人事のごとく連日報道されていた。

ある朝、角栄は突然に言った。三つのルートとも同時着工だ。出来るのだ。
一緒にやればどこにも「恨み」は残らないと。彼は「出来る理由を出来る法解釈を、出来る政治的決断」をしたのだ。

明日、内閣改造人事があるという。すでにその人事は表に出ており既成事実化している。
各紙同じ記事。各社が集まる懇談の場で側近が喋っているのだろう。

安倍人事はこれまでもそうだった。なぜに事前に垂れ流すのか。その真意や目論見、意図が不明だ。

安倍の叔父の佐藤栄作は「人事の佐藤」と言われた。巧みな人事を行った。
彼の人事に対する方針はただ一つ。
「漏れたら変える」。

自分の後継問題が言われている頃、その後継と目される福田赳夫と田中角栄を双方閣内に取り込んだ。いってみれば競わせた。これとても人事の妙だ。

安倍の人事には全くと言っていいほど興味が無い。
骨格を変えないと言うのだから。

改造で支持率を上げるのが狙いだとすれば、それは無理だろう。
覆水盆に返らずだ。

森友から加計。政界はその話題に集中していた。伝える側もそれに腐心している。
介在した官僚たちは「出来る理由」と「出来ない理由のどちら側に立っていたのか。法の抜け道を伝授していたという事ではないのか。
安倍が撒いた種でどれだけ国政が遅滞したか。

気がつけば、後期高齢者の医療費は値上がりになっていた・・・。

2017年7月27日木曜日

「玄人」と「素人」と

玄人とは「専門家」と置き換えてみる。
素人とは一般大衆、国民と置き換えてみる。

専門家は誰に対して、誰を対象に、誰のために仕事をしているのか。

相手は素人だ。一般大衆だ。

その仕事は、為すべきことは素人にわかりやすいものではなくてはならないはず。

それこそ素朴な“問題提起”。

政治家は政治の玄人のはずだ。それでメシを食っているのだし。
しかし、玄人の故か、彼らの言動・行動は素人にはわかりにくい。

丁寧に説明する。そう言った人の言がすでにして国民には分かりにくい。
理解不能な部分が多い。

彼らに“ノブレスオブリージュ”(高貴なるものの責任)を求めても致し方ない事だが、政治の世界では、玄人のやっていることは裏ワザ、寝業、何かの意図が常に垣間見える。高貴さはどこにもない。

二階と言う自民党の幹事長が暴言を吐く。素人は暴言と受け止めても玄人のなかでは受け取り方が違うようだ。

「自民党はいろいろ言われているが耳を貸す必要は無い。正々堂々と自信を持っていけばいい。」
「だいたい、いい加減な事を書くメディアの人がいる。こっちは料金を払って読んでいるんだから、書く方は責任をもってやってほしい」

これが玄人の味方だ。裏にはなにかの意図がある。
それを読み解くのは“玄人”の政治記者のお仕事なのだが。

素人として、一般人として、多くの義務を課せられている国民として言おう。
「バカ言ってるんじゃない。ジコチュウもいい加減にしろよ。あんたらの給料は我々の払った税金でまかなわれているんだ。まっとうな政治をしろよ」と単純明快に。

玄人の特性として、攻めには強いが守りには弱いという傾向がある。
かつて民社党は自民党を攻めにせめて政権を勝ち取った。

政権に着くと守りの弱さが露呈した。鳩山、菅、野田。次々と党首が変わり、選挙でみじめな敗北をきした。
そういう意味では安倍は守りに強かったといえるかもしれない。皮肉なことに。

民主党の陰の立役者だった小沢一郎も守りには弱かった。それは彼が自民党にいた時を振り返ってみてもだ。

民進党の蓮舫が代表を辞任した。攻めには強い彼女も、党内問題含め、いや、党内からの攻めには、守りには弱かったのだ。

素人の世界では攻めになんとかとか守りになんとかという特性は無い。

守るべきは自分たちの生活なのだから。

メディア、特にテレビは何かがあると必ず「専門家」という玄人を登場させる。
専門家とはそのことについての知見はあろうが世間一般にすいては視野が狭い。

だから時々素人はその狭い視野の見識に戸惑う。

原発事故がその典型かもしれない。例えば1μ㏜を巡って専門家の見解は、安全か安全でないかを巡って二分されていた。
「避難」を左右したのは素人がつぶやいたネットの言辞だった。

原発についてはまったく素人のはずの安倍が「アンダーコントロール」などとほざいた。
本当の素人はデブリを確信していた。

あれから6年以上経って、ロボットの画像を見て、なにやら渋々のようにデブリを認める専門家、玄人。

素人の国民は玄人である官僚をクビには出来ない。
素人の国民は「選挙」という大きな権利を持っている。総理大臣をすらクビに出来る。

政治家が「職業としての政治家」「職業としての専門家、玄人」であるならば、素人をもっと畏怖すべきだ。
それが民主主義というものだとあらためて思うのだけど。

2017年7月26日水曜日

「サイコパス」と「健忘症罹患」の政権

今、我々はこんな情けない首相や閣僚、卑怯な官僚たちによって「支配」されている。
そこにはまともな政治や統治機構は存在していない。

都合の悪いことは忘れる。忘れたと言い張る。情報を隠すことによって政権を守ろうとする官僚や政治家が大事にされる。

民主主義の“根幹”がすべてないがしろにされる。


悲しく、悔しい。

政治を知らない人が、知ったふりをして政治をやっている。
公僕たる者の役目をわきまえず保身のみに官僚は走っている。

国民に嘘を言い募り、たった一人の腹心の友を庇うと言うこと。

平気で嘘をつく。自分が嘘をついているという認識が無い。そんな人を「サイコパス」と呼ぶそうだ。

「これまでの発言を反省し、真摯に答弁し、丁寧に説明する」。そんな殊勝な首相に大変身したのかと思った。間違っていた。丁寧なのは単に我慢を重ねた口調だけであり、話の中身は全く丁寧では無く、空虚な、虚偽に満ちたものだった。

「信無くば立たず」と言った。その言葉を知っているかどうかはともかく、
その言葉を愚弄しているような、その言葉が意味を為していないような“政治家御用達”の座右の銘。
それを実践しているとは誰も信じてはいない。

「李下に冠をたださず」と言った。為政者の“怪しまれるような行為はしてはならない”という教えを自らに垂訓した。

笑った。共謀罪をめぐる議論の中であった光景。花見に酒とゴザをもっているのはよく、地図と望遠鏡を持っているのは怪しいものとして“監視・捜査”の対象になるという話し。

妙に重なっている。

「総理、今、立派なお言葉を伺いました。それの対句はなんというのでしょう」。とでも質問してみればいい。正解がでるかどうか。
「瓜田に履を納れず」です、という答弁は期待し難い。

「いま総理の口から李(すもも)というお言葉が出ましたが、総理が卒業された成蹊大学の名の由来は何と言うところから引用されているのでしょうか」とでも聞いてみればいい。

多分、「学校の授業の様な事を国会で質されるのは心外です。どういうおつもりで聞かれているのかわかりません」
そんな怒声が聞こえてくるような。

「僭越ながら、学校は違いますが、成蹊の意味は、桃李もの言わずしてその下自ずから蹊(こみち)を成す、徳の高い人の下には、その人が黙っていても教えを乞いに人が集まってくる、そう聞いています。
この際、母校の建学の理念に学ばれてはいかがですか」。なんて聞いてみればいい。



「記憶にない」を連発する。それは“健忘症”という神経疾患に罹患しているのだ。記録に無い物は記憶にない。もう聞き飽きた「その場しのぎの言い逃れ言語」。
加計問題を知ったのはいつかと問われ、過去の言辞や記録があるにもかかわらず「今年の1月20日だ」と言い募る。嘘だ。

重ねて言う。
丁寧に説明すると“豪語”した安倍。言葉は丁寧さを装っていたが、答弁の内容は全く丁寧では無い。殊勝なことを言いながら、穏やかな“喋り方”に徹していたようだが、かえってその中身の虚偽と欺瞞が暴露された形だ。

都合の悪いことは忘れる。文書は捨てる。文書を捨てるという事は歴史を消すという事だ。
情報を隠すことで政権を守ろうとする。そんな在り方が「政治を信用できない」という国民の不信を増幅させる。

政府を信じる国民がだんだんいなくなる。そんな「不幸な国」あって「幸福論」を唱えるの愚。

まっとうな政治を求めることは無い物ねだりなのだろうか。

2017年7月21日金曜日

「こんな人たち」がいる光景

「戦後最悪の政権」と言われた安倍政権。多くの日本人は疑念を持つことも無くそれを支持してきた。あの都議選までは。

「大衆は支配されることを願っていた。支配する側は、大衆が見たがるものを提供してきた」。
こんなセオリー、力学が働いているようだった。

都議選最終日。「こんな人たちに負けるわけにはいかない」。この安倍の一言が、大衆の“支配離れ”につながった。
自分に反対する者を敵視した発言。それは安倍支配から離反する意志を抱かせるには十分だった。大衆は支配者の無様な言動は見たくなかったのだ。

「ひとたち」。個々人を十把一絡げに呼ぶことへの反感。大衆は支配からの脱却に走ったのだ。

世論調査の支持率下落。それは政策の問題ではなくなり、好感度と言う感情の問題へと変化したのだ。
「首相が信頼できない」が不支持の理由の圧倒的多数だったということ。

致しかたあるまい。それが安倍の「本性」だったのだから。

「戦後最悪の政権」と書いた。
続々と問題を起こし、事実の「隠ぺい」を図ることに腐心する閣僚のなんと多い事か。
さらに答弁能力もない閣僚。

日本人は、潔癖を求める特性を持つ日本人は「隠す」「ごまかす」ということに敏感に反応する。

今、数年前にあった出来事を思い出している。
2013年の参院選挙。第一声を福島で発した。

安倍の演説が始まる前、その会場のビルの陰に一人の女性が立っていた。
持っていたのは“総理、質問です。原発廃炉に賛成?反対?”と書かれたプラカード。
その女性は二本松市の寺の副住職の奥さん。子どもを育てている。たしか保育園もやっていたような。

その女性、佐々木るりさんを警備の警察官と自民候補の運動員が取り囲み、プラカードを取り上げ、彼女をその場から遠ざけた。

安倍はそのプラカードを眼にすることも無く、辞めろ、帰れの声を聞くことも無く、「仲間」に囲まれて”気持ちよく“喋っていた。

反対する者が嫌いなのだ。反対するものを攻撃する。性格の為せる所以だ。

もし、彼女がプラカードを掲げてその場にいることが許されていたら、「あんな人に負けるわけにはいかない」と絶叫したかもしれない。

整えられた環境の中で喋ることは得意だ。反対する人、人達と「対話、議論」することは嫌いだ。

宰相としての“資格が無い”ことを一般人は見抜いたのだ。

閣僚たちがさまざま「問題発言」を繰り返している。しかし、何があろうと王様は彼らを庇護しようとする。

それにしても自民党は落ちぶれたものだ。支持率の低下を見た途端に「反安倍」のような言葉を口にし始める。
自分たちに被害をあたえるような力が無くなったと見込んで。

反安倍を言うなら半年前、一年前に言うべきだったのに。なんだか見苦しい。

そして国会の“作法”。相も変わらず「足して二で割る」手法がまかり通っている。
閉会中の予算委の質問時間の配分の“調整”。
慣例は与党2野党8だったのを5対5にしようと言いだし、中を取るような3対7。

「真摯に説明責任を果たす」「反省の上にたって丁寧な答弁を行う」。にわかには信じられない。

“起死回生”を目論んで安倍は人事を行う。夜な夜なの「会食」。
麻生太郎、岸田文雄・・・。下手をすれば離反するかもしれない閣僚とメシを食う。エサで手懐けているような光景。

東に高級料亭で密議をこらす「国民の生命と安全を守るべき政治家」
西には大水害にあい、酷暑の中、食の安全すら懸念される環境の中で、配給される被災者、不明者の捜索を続け、黙々と復旧にあたる自衛隊員がいる。ボランティア作業にあたる「そんなひとたち」がいる。

自衛隊のトップであるべき人が「嘘」の上塗りをしている。

2017年夏の日本の光景。


2017年7月17日月曜日

「ふるさと納税」なるものが理解できない

ふるさと納税制度なるものが導入されたのは第一次安倍内閣の頃だと思う。
それは地方税だ。地方税をどこに納入するかだ。

「ふるさと」と銘打ってある以上、財政が豊かな東京都に居住する人が、地方から都会に出てきている人が、財政事情が赤字化している自分の「ふるさと」に税金を納める仕組みだと単純に理解していた。

法律をよく読んでみると任意の地方自治体とされている。
じゃ「ふるさと納税」じゃないのではないか。好き勝手な地方時自体となるじゃないか。
それって「ふるさと詐欺」ではないかと思った。

3・11以来、「ふるさと」と言う言葉が氾濫した。ふるさととは何か、ふるさととはどこか・・・

親に勘当された夫婦が大阪の外れのほうで男の子を産み、孫が出来たという事で勘当が一部解除となり、兵庫県の姫路で数年間の幼少時代を送った。
姫路大空襲でその家は焼失し、避難先の飾磨の農家の離れで終戦の玉音放送を聴いた。
一家をあげて上京。三河島の“復興長屋”で1年近く暮らし、初台の借地付き一軒家に移り住んだ。
郡山に”転勤“のはめになるまで、そこに住んでいた。

自分にとって「ふるさと」とはどこかと問われた時、答えるすべがない。
でも、やはり東京が故郷だと思っている。

住民税をふるさと納税として東京都に収めるか。とんでもない。
地方交付税不交付団体の東京。財政の豊かな東京・・・。

いつのころからか、このふるさと納税制度が“悪用”されるようになった。

自治体が「納税」してもらったお礼に「返礼品」と称して高価なその土地の名産品を送るようになった。
欲と道連れの納税。
収めた税金の一部が品物となって還付されると言う、悪く言えば税金詐取だ。

返礼品がいい地方を探して、欲と道連れの納税。

どこか竹下内閣時の1億円の地方創生基金に似たものがある。

人口減は拍車をかけている。地方消滅と元総務大臣が書く。

過日、ある大学教授の「超高齢化社会/人口減少社会における人々の生き方の変容」という講演があった。

“合計特殊出生率は東京は1.1です。地方に人を呼び戻さないと”と述べていた。講演を聞いていた人は、その“特殊出生率”なる言葉を理解出来ない。
どっかで解説するのかなと思っていたらレジメ通りに話が進みスルー。

それはあげて「政治の問題だ。政治の怠慢だ」と学究の徒は言えない、言わない。

財政が破綻し、財政再建団体に指定された北海道の夕張市のことを思う。
最小限の市職員。
低福祉、高負担にさらされる夕張市。
都庁の職員をやめて市長をかってでた現市長も、有効な手立てを未だ模索中のようだ。借金の返済期間の猶予をしてもらっただけのような。

人口減は甚だしいはず。“消滅”の危機にさらされている。

夕張市に「ふるさと納税」がされているのか。彼の地の出身者も含めて。

いまだ帰還困難区域を抱え、帰還率は30%にも満たない原発被災地域。
内閣支持率が下がっている。支持が減るのは結構。だけど人口減は阻止せねばならぬ。

東電からは“立地税”は支払われているはず。
でも、双葉郡八町村「ふるさと納税」はされているのだろうか。

30億ものカネをかけて庁舎を新築する町もある。被災地の町政、村政もどこか支離滅裂の傍目から見ての疑問。

いずれにしても国政はどこを向いているのか。地方創生相は何を考えているのか。

真夏の夜の夢はメンデルスゾーンのような優しい響きを伴ってはやってこない。

2017年7月11日火曜日

保存された“記憶”と破棄された“記憶”

加計問題をめぐる国会の閉会中審査。政府の側からは「記憶にありません」が連発された。

ロッキード事件を巡り小佐野賢治が連発した「言葉」。疑念や非難はあってもそれが通用してしまった国会の「負の歴史」。

記憶にありませんが国会の常用語となり、いくら押せども“記憶”という全く個人の属性に当たることが“成り立っている”。それこそ議会制民主主義の破壊行為だ。

国の公文書が1年未満でも破棄されるという方針が明らかになった。
公文書とは、その国の歴史の一部だ。

今の政権が不都合とされる公文書が破棄されるという事は歴史が破棄されることに等しい。

公文書は国立公文書館に保存されるべきものなのだ。たとえそれがメモであっても。

憲法9条を、戦争放棄をうたった部分は日本の幣原喜重郎首相がマッカーサーに申し入れたものだった。
それは国立公文書館に幣原喜重郎日記が保管されており、それが研究者によって明らかにされたからだ。

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」。ビスマルクの言葉を引用した秋葉原でも石原伸晃演説。安倍自民を賢者と誇りたかったのだろうがキミたちこそ歴史に学んでいない。そして歴史を破棄しようと図る。

閉会中審査、前川喜平の答弁は終始一貫していた。理路整然と事の経緯を語り、事実と違うと菅の詭弁を退けた。彼の記憶に基づいた答弁。彼の中には保存された記憶がきちんと保管されているのだ。

数多くの知識を詰め込んできた東大卒の官僚。数年前のことが「記憶にない」ということは有り得ない。すぐに記憶を無くしてしまうのなら官僚としては失格だ。

安倍は「印象操作」と言う言葉を多用した。
人は印象で物事を判断する。
“知らぬ存ぜぬ”を連発する政府の人間に、メモを5分間もひたすら読み上げる大臣に、好印象を持つ人はまずいまい。

前川の正直さだけが印象に残る。
そう、印象という事は極めて大事なことなのだ。

国会の議事録は政権といえども破棄することは出来ない。時々”改竄“をさせることはあっても。

僕は前川に信を置く。福島市の夜間中学、生徒は高齢者が多い。そこに手弁当で出向いてくる男を評価せずに何を評価すればいいのか。

マスコミの世論調査で安倍内閣の支持率は急速に下がった。読売新聞だったか。安倍自身に好感が持てないという人が急増した。

国民大衆は“皮膚感覚”で、得られた情報を加味しながら政治判断を下す。
良くも悪くも「移り気」なのだ。

来月早々党役員人事と内閣改造を行うと言う。安倍の足を引っ張り、印象を悪くさせた稲田や金田を切ると言う。
小手先細工の「人事」で支持率浮揚が図られると思っているのだろうが。
「そうは問屋が卸さない」。そんな気がする。

きょうから施行された共謀罪、先の集団的自衛権などなど。強権的な安倍政治は飽きられ始めたのかもしれない。

我がままで、独りよがりで、お仲間がいないとダメなさみしがり屋の名ばかり宰相。
黒を白と言いくるめるのに必死な官房長官。

自民党の中にはようやく、安倍に翳が見え始めたという事でなにやら批判めいたことをいう奴らも現れた。時すでに遅しの感ありだ。

こんな政治のありさまを、自民党を長年にわたって見て来た、付き合って来た身にとって、そこに巣食う記憶にないほどの見苦しい人々の群れがいることが悲しい。

2017年7月9日日曜日

官僚たちの“ルサンチマン”

ルサンチマンとは元来はニーチェの言葉であり、弱者が強者に対して抱く憎悪や復讐心を鬱積させていることを指す。
今は、それをもう少し幅広く捉えたいし、例えば数年前に盛り上がった反原発運動も東北の民の行動も“ルサンチマン”と呼びたい。

反権力の象徴的言語としても。そして時にそれは爆発するものだとも。

数日前、懇意にしている元官僚と会った。話をした。
田中内閣当時の秘書官を務めた人物だ。
秘書官をやめてから本省に戻り、大使を務めていた人だ。

「都議選の結果には溜飲を下げた。安倍の暴政には辟易としていたから。
このまま行くと日本はダメになると信じていた。
小池と言う人物のことは知らない。都民ファーストなるグループが大勝したことが良いかどうかは別問題だ。」

その日はちょうど首席秘書官を勤め、ロッキード事件で逮捕された榎本敏夫氏の葬儀の日だった。
榎本氏は政務には全くと言っていいほど関わらなかった。役所からの秘書官にすべてを任せていた。

田中内閣で通産省からの秘書官が誕生した。それまでは外務省・大蔵省・警察庁からの秘書官だったが。
通産大臣当時の秘書官を総理秘書官に登用した。日本列島改造論を仕上げた政策通の官僚を。そして通産官僚が秘書官の決席になった。

話しを戻す。
首相の車には秘書官が交代で「ハコ乗り」する。ある日、前述の外務省から出向した秘書官は車の中で言われたと言う。
“あのな、役所はもっともっと強くなければならぬ。優秀な官僚を育て上げねばだめだ。官邸に反旗を翻すくらいの役所にならないと、官邸の意向をくんでいる役所はだめだ。部下を育てろ”と。

“田中さんから車の中で行政学の講義を受けるとは思ってもみなかった。どこで“行政学”を勉強されたのだろうかと不思議だった。それほど上に立つものとしての政治家の在り方を知悉していた人だった。“

“安倍内閣が内閣人事局を設け、人事で官僚を操縦する。そのやり方に憤懣やるかたない思いがしていた。驕りも甚だしいと。
都議選で、都民は反自民の選択をした。あの結果には溜飲が下がる思いがした“と。

元官僚として、政権の中枢にいた人物としての「ルサンチマン」を彼の話しの一端から感じ取った。

“安倍政治”をよからぬものと感じている官僚は数多くいるとも。

明日、前川喜平の「参考人質疑」が行われる。自民党はすでにして前川を「敵」とみなしている。

前川は何を語るのか。

前川は一時駐仏大使館に勤務していたこともあったそうだ。その当時から正義感の強い男だと見ていたという。元大使はそうも言った。

官僚政治をよかれと思って書いているのではない。ただ、官僚の中には安倍政治を快く思っていない人もいるということの事例としてこれを書いた。

いつのころからか、日本の政治は、官僚の在り方含めて、その道を間違えてしまった。

官僚たちの夏、官僚たちの反乱、そして官僚たちのルサンチマン。

都議選の自民大敗を決定づけたのはあの秋葉原での安倍の言動だ。
「あいつらに負けるわけにはいかない」。あいつら、あの連中と国民を卑下した“演説”。

あの会場の辞めろコールも選挙結果も、民衆の「ルサンチマン」だったと理解する。

2017年7月6日木曜日

水の“恐怖”

いままで経験したことの無い大雨。渦巻く濁流。北九州地方を襲った梅雨前線が刺激されての豪雨被害。

被災者の辛さ、悲しさ、苦しさ。
察するに余りある。

経験したことのない豪雨。経験したことが無い以上、その対処も難しかろう。
いや、例え経験したことがあっても自然災害にはなすすべがないことが多い。

一時は何万人、何十万人に対する「避難指示」。
その緊迫性や必要性はわかっても、どこに、どうして避難すればいいのか。
問題はそこなのだ。焦眉の急としての。

いくら日頃から「避難訓練」が真剣に行われていたとしても、災害が発生した時間や環境によって対処の仕方はさまざまだ。

テレビでその惨状を見ながら心が痛む。

まだ大雨は続くともいう。浸水被害にあった家屋や田畑。泥地と化した街や村・・・。わが身の周りを思う。

経験したことの無い豪雨に襲われる。怒り狂ったような激しい勢いの水は1級河川の阿武隈川を決壊させる。堤防から流れ出る濁流は町をのみ込んでいく。

避難所に指定されている場所も浸水の被害を免れない。堤防がどれほど強靭であっても高さがあっても、それらは概ね、過去の「経験値」に基づいて作られている。

避難指示と避難場所と避難方法と。

「避難指示」と「経験の無い」と言う言葉は否応なく「3.11」を思い起こさせる。
想定はあったが実施されていなかった津波対策。経験したことの無い大津波。

それに起因する、経験の無さが招いた「原発事故」。

今起きている大水害が福岡や長崎、大分で無く、原発がある佐賀県を見舞っていたらどうなっていたか。

福島の時の「避難」は、場所も方法も無い。勝手にどこかに逃げてくれ。というものだった。
もちろん受け皿とてない状態で。
福島の原発事故の経験は教訓はたぶん、どこにも生かされていない。お茶をにごすような真剣さを欠くお座なりの「避難訓練」。

このところ地震も多発している。

とにかく我々は災害列島に住んでいるということ。
自然の脅威の前には対処する術がないという事。

あらたな「経験」をしたという事。

国土強靭化法がどれほどの「国民の生命と財産を守る」という政治の大原則に適っているのか・・・。

被災者への支援はどうなっていくのか。

愚者も賢者も無い。経験も歴史もない。

何時、何が起きてもおかしくない「災害列島」に我々は生きているのだ。

自然には“意志”は無い。
戦争には“意志”がある。

今の政治は、自然災害を一過性のものとみなしている。将来も未来も常に自然の災禍が予見されるとうのに。

自然災害への対処を政治の根幹に据えられないものだろうか。



“選挙は水もの”と言われた。“水商売”と自虐的に自らを言う議員もいた。

都議選の結果に政権は何も学んでいない。何も懲りてもいない。経験したことのない大敗を喫したにも拘わらずだ。
選挙には国民や都民の“意志”があった。

水は怖いのだ。災害の事だけでなくとも。

大雨が過ぎ、晴れ間がのぞいたら、今度は気の遠くなるような復旧作業が待っている。政治の世界での「復旧作業」はあるのか。

「俺を連れて避難してくれよ」。犬の眼が訴えかけてくる。

方丈記を思う。そして政権には平家物語を重ねる。

2017年7月3日月曜日

都議選の“藪の中”

小池百合子率いる「都民ファーストの会」なる会派がいきなり55議席を獲得した。都議選に限っては”友党“とした公明党も23議席とほぼ完勝。
完敗した自民党には悲壮感すら漂い、安倍はお決まりの「深く反省」を言う。

安倍の発言、森友・加計にまつわる疑惑。前川の乱、稲田の失言、豊田の暴言。
それらが自民票を無党派層の票を小池新党に向かわした。と各マスコミは書く。
それは自民敗因に間違いは無いが・・・。

でも、ちょっと待てよ。この結果が国政に、政権にどんな影響、変化を与えるのか。

安倍にとっては選挙結果は「どうでもよかった」のかもしれない。
「都民ファースト」という言葉は、いかにも聞こえがいいが、トランプのアメリカン・ファーストと同じく、“自分たちがよければいい”“それ以外は敵」という言動を想起させる。

ま、ネーミングがどうこうとだけ言うつもりではないが。どうも”身勝手“さが知事選からの”しこり“が、いかにも都議会自民党からいじめられていると映る小池が”平成のジャンヌダルク“に思われたのかもしれない。

機を見るに敏、政界の渡り鳥。そんな彼女へのイメージが抜け切れない。
自民党と彼女の間になにがあったのか。その真相はまさに芥川の小説にあるように“藪の中”だ。

彼女は日本会議に名を連ねていた。「お試し改憲論者」だった。きょう、都民ファーストの会の代表を、「二元代表制」と言われないために辞任し、後任には側近だった 小池の特別秘書でその会の会幹事長である野田数を当たると言う。

野田数はいわば“極右”の人間だ。改憲論者であり、大日本国帝国憲法復活論者だ。

今朝のモーニングショーで玉川徹はいいところを突いていた。

「小池代表は元々自民党。思想的にも安倍自民党に近い。補完勢力になりうる。都民は自民党に対決するとして選んだが、今後の展開で補完勢力になる可能性がある」


壮大な“闇取引”が小池と自民の間にあったのかもしれない。

新しい緑の風が都議会に、都庁に爽やかに吹くと信じるのは早計だ。

国政では自公という政権与党に与し、なにやら安倍の「ポチ」のような公明党。
今度の都議選では自民を敵にまわし、小池と組んだ公明党。
小池と組んだ方が有利だと踏んだのだろう。

都議会はある時期、公明党の“牙城”だったような時がある。公明党が都議会に進出した時、竜 年光という猛者がいた。
公明クラブと名乗り、初めて国政に、参院に進出した創価学会政治団体。
黒柳明など野党としての猛者がいた。

公明党国会議員も都議会の竜 年光にはかなわなかった。学会の地位は竜の方が上だったのかもしれない。
しかし、彼は学会の「教義」の対立で、公明党を追われる。

矢野絢也にしても似たようなケースだ。

鋭い嗅覚をもって権力の側に身を置き続ける公明党。

かつて公明党と創価学会の内部を暴露した本、藤原弘達の「創価学会を斬る」が事実上出版出来なかったという“言論出版妨害事件”のことが想起される。

公明党、創価学会、これしても“藪の中”いや“闇の中”のような存在だ。
公明党が付いている限り安倍君は“安泰”なのかもしれない。

都政と国政はねじれているのか、どこかで一本に縄はつながっているのか。

そう、政治の世界はいつの時代でも“藪の中”なのだ。

2017年7月1日土曜日

7月の鬱陶しい幕開け

梅雨の季節であり、いささかの異常気象でもあり、豪雨が列島を見舞っている。
土砂崩れがいわれ、河川の氾濫もいわれる。

きらめく太陽が降り注ぐ夏。その前に通らなければならない関門か。

”乱高下“する気温、気圧。
年齢を経るごとに、変わる季節は体調の不具合を伴う。
時には頭痛、時にはめまい、そして何よりも気力の低下。

鬱陶しいのはなにも気候だけではない。
「世に倦む日々」と他言を借りる訳ではないが、世の中のさまざまなことが鬱陶しいこと限りないのだ。

特に政治。政治家。

このところの「暴言」「失言」をめぐる話題の数々。わざとやっているとも思えてしまうような、マスコミの“餌食”となるようなことの数々。

それを人は「暴政」とも呼び、「我執」ともいう。連綿として地位にしがみついているのだから。
そして言行不一致の数々。

都議選の合間をぬって安倍はきょう飯舘村を訪れた。介護施設を視察した。
川俣にも行き、商業施設を見た。

「皆様の声を受け止め、さらに復興を進めたい」。

彼が民草の声を受け止めた事例は過去あったのか。


たしかマックスウエーバーだったか。いやジョン・スチュアート・ミルだったか。

「普通、一国の国民は自分たちの器量にあった国会議員しかもてない」という“金言”があった。

いま、その言葉を申し訳ないが訂正させてもらう。
「一国の国民は、自分たちの器量以下の政治家しかもてない」と。少なくとも日本にあっては。

東電の裁判が始まった。3人とも無罪を主張している。
潔さ、という言葉がある。

「責任」を認めたらどうなのか。津波の予想問題だけではない。
今尚苦しんでいる福島県民がいるということ。
子供は「いじめ」の対象にされているということ。


社会的責任を負うべきだと思うけれど。

とにかく、「作業」はもろもろ進行している。しかし、遮水壁、凍土壁の問題では規制委から叱責を受けた。

懲りない面々の東電上層部。

年齢のことをぼやいた。好んで年を取っているわけではないが”高齢“は自然の摂理だ。抗い難い。

高齢者の交通事故が増えていると言う。高齢者には安全機能車限定の免許しか与えない、80歳以上には再試験も導入する。

警察庁はそんな検討に入ると言う。
自分だけのことに限って言えば、「安全機能搭載車」を買う金は無い。
まさか国が「補助」してくれるなんてことは有り得ないし。

交通事故の防止。もちろんそれに異論はない。ぼやきのようだが地方都市ではいかに高齢者といえども車無しでは生活できない。

高齢化社会だ。高齢者の人口分布は増えて当然だ。そして人口減。
数字の比較では高齢者の事故が多発しているとされるが、それは以前と変わりがない数字だ。高齢者が増えれば必然として有り得る数字の問題。

車をめぐる「社会システム」の問題。ありきたりの言い方だけど、多角的な視点で論じ、“受け皿”めぐる検討、議論にまで発展させてもらわないと。

車一つをとってのことでもなんか間尺に合わない憂鬱さを覚えてしまう7月の始まりの日。

この日は数年前、安保法制が閣議決定された日でもある。


2017年6月30日金曜日

「誤解」という言葉の「誤解」

とにかく、最近の政治家、特に自民党の要職にあるものの日本語がひどすぎる。
もう一回中学生からやり直しておいで、と言いたくなるような。

安倍は先の国会で、「でんでん」に続く、奇妙な“日本語論”を偉そうに展開した。

“「そもそも」というのは「基本的」という意味だ。私が調べた辞書にはそうある。あなたは知らないだろうが。”居丈高に質問者を見下し、馬鹿にするような言い方をして。

都合が悪くなると、なんでもかんでも喧嘩腰になって相手を攻撃する、攻撃にならない口撃。

それが自分の無知をさらけ出していることにも気付かずに。枚挙に暇がないくらいに起きる“舌禍事件”。

それを引き起こす彼ら、彼女らのあまりにもの無知、無教養、無知性。
その様を嘆くこと筆舌に尽くしがたし、だ。


もっぱらの話題は稲田防衛相の都議会選挙応援演説での発言。法律家のくせに法の趣旨を理解しておらず、違法すれすれの発言を度々。

舌禍事件を起こした人の後始末には決まった“用語”がある。

「誤解を与えたとすれば、謝罪して撤回します」。
「誤解をまねきかねない発言だった。撤回します」。

誤解とは「意味を取り違えること。間違った理解をすること。思い違い」と一般人が使う広辞苑という辞書にはある。

彼ら、彼女らの言う“誤解”とは、国民が意味を取り違えた、間違った理解をしているという“避難の言葉”ということになる。

だったら“誤解”を理由に謝ったり撤回しなくてもいいじゃないか。
発言を来た人が意味を取り違えたのだから。

国会での発言を”撤回“するということは、その発言を議事録から削除するということだ。

演説会での発言を撤回すると言ってもその“証左”はどこにも記録されない。

不用意な言葉、不必要な言葉、意味不明の言葉によって、政治はますます劣化し、泥沼状態になる。

主題とはちょっと違うけれど、あのギャーギャーわめいて秘書にパワハラ被害を与えた女性議員は入院したと言う。

どくにあるのだろう。雲隠れ用の病院が。

「金目」で“誤解を招いた石原伸晃が、こともあろうに”博識“を披露した。
ドイツの宰相ビスマルクの言葉を引用した。

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

長い歴史を持つ自民党を支持せよということか。
待てよ。過去の金言・格言がすべて当を得たものではないし。

安倍は完全に歴史認識を歪曲し、修正しようとしているのだぜ。
学べないよ。安倍の歴史観には。

安倍が明日は福島に来ると言う。何をしに来るのかわからないが。
都議会議員選挙の投票日前日。
候補者の応援に走り回るのが党首であろうに。

福島のどこかで「誤解発言」をしないことを祈る。
東京電力の新社長は「避難区域」を「帰還区域」を間違っている。
それは認識の欠如、勉強不足だ。
いや、彼らにとっては「福島」とは、いまや後始末の金食い虫であるという事なのだろうか。それとも、東電を誤解しているのかな。

誤解された、誤理解された「誤解」と言う言葉は悔しいべな。

2017年6月26日月曜日

「保身」のために何でもするの図

安倍と加計学園の話しだ。
加計学園に獣医学部を新設できるようにするため、安倍とその側近は“公文書”を改竄させた。他の大学からの申請を出来ないようにした。

そのことが指弾されるととんでもないことを言いだした。
「獣医学部の新設を全国展開させる」と。

そして昨日になって「あれはカットなっていったものだ」とテレビ番組で“釈明した”という。

カットなって政治についての発言をする。錯乱状態というしかない。
国民はたまったもんじゃない。
首相の発言は国民の日常に影響する。
自分の感情を発露させる政治。それを政治とは言わない。

彼の頭の構造では、獣医師の充足度などは眼中に無いのだろう。
加計だけを特別扱いしていないと「印象操作」をするためだのだろう。

我が家は犬を飼っている。時折動物病院の世話になる。郡山では過当競争だと言う。トリミングなども併設し、経営の安定を図っているようだ。

獣医師が足りないとすれば、それは家庭で飼っている犬、猫の医師でなく牛や馬のような動物を診療する医師だ。

原発事故後、「被ばく牛」は診療、治療の対象から外された。殺処分を命じられていた。
放射能汚染された牧草を食べながら、命を長らえている牛を飼育している人が福島県にはいる。

獣医学部新設の全国展開。教員は足りない。施設を作るのに多額の税金が投入されることになる。

獣医師界はもっと声を上げなければ。粗製乱造の獣医師。足りていると言うのに。

今、人員が不足しているのは介護士だ。満足な介護を受けられる人は少ない。
高齢の介護士は多くが腰痛に苦しみ、その職を去っていく人も多いと聞く。
安倍の保身のために国策が歪められ、国の支援が必要なところにはカネが回されない。

政(まつりごと)の基本がないがしろにされている。子どもの貧困対策もそうだ。
政治を私ししている安倍の権力乱用。錯乱した政治。


錯乱は私物化につながっている。

その中身は別にして、自民党の改憲草案を無視して、公明党に配慮して「加憲」を言う。
9条はそのままにして、自衛隊を明記した3項を作るとか。

改憲論議を錯乱させている。「否認」されてもさほどの異論を唱えない腰抜け自民党。
政党政治の否定にもつながっているというのに。

ばかばかしい“錯乱”をもう一つ。

北朝鮮がミサイルを発射したらJアラートで全国の自治体へ。自治体は防災無線で「避難勧告」。

頑強な建物や地下に避難しろ。無い場合は頭を隠して地面に伏せろ。家の中にいる時は窓の傍から離れろ。

そんな「政府広報」がテレビや新聞で流されていると言う。大手の広告代理店が扱っているのだろう。費用は4億円。

大手代理店の“要請”を拒否できない。そんなばかばかしい“CM”を流すことがメディアの自殺行為だとわかっていても。

これが「国民保護」とうことかい。
他の狙い、目論見があるに決まっている。

ミサイルの脅威は、その破壊力は、テレビで他国の悲劇が伝えられる中で多くの国民は知っているはず。子どもだって知っている。
なんらの「自衛手段」にもなり得ない。

我が家は窓を閉め切っていると防災無線は聞こえないんですけど。

「北の脅威」を喧伝する錯乱行為に巻き込むのか。

B29が落とす爆弾の中を防空頭巾被って逃げまどっていたあの空襲時を思い出す。

安倍の「錯乱」を書いていたら、こっちの頭が「錯乱」してきた。

2017年6月24日土曜日

「忠恕」という言葉

天皇陛下の座右の銘は「忠恕」という論語の中にある言葉だそうだ。
忠恕とは「自分の良心に忠実であり、他人に対して思いやりが深い」ことを指す。「仁」という言葉のもとでもある。

3・11後両陛下が被災地を再三訪れ、励ましの言葉をかけたのも、忠恕の精神を実践されたということではないか。熊本を訪れたこともそうだ。

そして何よりも数度にわたり沖縄を訪問され、戦没者の霊に頭を垂れられたのもその言葉によるものでは無いかと思っている。

皇太子時代も摩文仁の丘を訪問されている。
その時のことを詠ったのがこんな句であるという。

摩文仁 昭和五十年
ふさかいゆる木草めぐる戦跡くり返し返し思ひかけて

 生い茂る木や草の間の戦跡をめぐり、戦争のことを繰り返し繰り返し思った。おういう意味なのだろう。

昨日は沖縄慰霊の日だった。その前夜には琉球のしきたりにならって“前夜祭”がある。島民は唄い、踊る。
そこで唄われるのがこの陛下の皇太子時代に詠んだ句、それを島民は、天皇陛下の「琉歌」と呼ぶ。

今でも昔作られた「ざわわざわわ」ではじまる「さとうきび畑」という歌が多くの歌手によって歌い継がれている。
作者の寺島尚彦さんが50年前に作った曲。

摩文仁の丘に続くサトウキビ畑を案内された時、地元の人の言葉に衝撃を受けたという。
「この土の中には戦没者の遺骨が埋もれたままなんです」。

畑を吹き抜ける風の音に戦没者たちの嗚咽(おえつ)と怒号が聞こえたという。

音楽家としてそれを書かねばならないと決意したという。

反戦歌ではない、鎮魂歌として。

「サトウキビ畑を逃げ惑い、茎をかじって生き延びた一人一人の魂の記憶に訴えかける。歌い続けることが不戦の誓いになる」。島民の人はそう言っているという。

天皇陛下の中には「言葉が生きている」。

昨日の式典には安倍首相も参列した。翁長知事との間には、知り得る限り同胞と言う雰囲気は全く感じ取れなかった。

空港での見送り含め、二人は果たして言葉を交わしたのだろうか。官房長官は相変わらず”敵意“をむき出しだ。対立を煽っている。あたかもそれが敵国であるかの如く。

数日前の記者会見で、安倍は「信なくば立たず」という言葉を使った。
論語にある言葉である。

政治は国民大衆の信頼なくして成り立つものではないと言う意味だ。
「民無信不立」。 安倍がそれを座右の銘としているとは思えない。

格好つけの言葉に聞こえた。付け焼刃の。

口さがない友人が言った。
「晋なくば立たず」だよ、と。「俺がいないとこの国は成り立たないと言っているんじゃないか」と。

今の自民党の政治家のなかの、あまりにも酷い暴言、失言、全くの無知性。

政治は言葉から乱れ、腐敗していく。

ふと思う。政治家への登竜門とも言われた「松下政経塾」は、今、どうなっているのだろうと。
そこから輩出されたまともな政治家がいるのかどうか、不明にして未だ知らない。

2017年6月20日火曜日

「首相記者会見」という“詐術”

国会終了ということで首相の「記者会見」があった。記者会見と銘打たれているものの、あれは、いや、いつもだが、記者会見で無く単なる「演説会」だ。
首相と記者とのやりとりがあまりにも少ない。

僕がああいう場にいた頃、会見は「内閣記者会」が仕切っていた。幹事社が会見前に各社のキャップと質問項目を打ち合わせ、それを官邸報道室を通じて首相秘書官のもとに上げていた。

幹事社の代表質問、予定された質問ではあるがその答えがこっちにとって“不本意”なもの、つまり質問に答えていない、答えが“甘い”、答えに“不足”があれば何度でも質問”出来た“。
つまり、二の矢、三の矢も放てた。

代表質問が終わると各社の質問。それは幹事社が振る。あちこちから声が上がり、他社であっても“援護射撃”するような質問が相次いでいた。

会見場はどこか「真剣勝負」の様相もあり、質問する人、ただやりとりを書く「トリテキ」なる役割に別れていた。トリテキは若い人、質問はキャップか次席。

官邸が新しくなってから、記者クラブや会見場の模様は知らない。

プロンプターなんてツールは無かった。答弁はメモをもとになされていた。
首相の“冒頭発言”なんてうものもほとんどなかった。

細川政権から記者会見の様子はすっかり変わった。プロンプターがあり、質問者は首相がペンで指した。

そして首相記者会見は、官邸仕切りの「官制会見」になり、まさに「岩盤規制」のように“規則”が定められた。

いつも笑ってしまう。
官邸の広報官らしき人物が言う。
「ご質問のある方は挙手をして、発言の際には社名、お名前を言ってからご発言を」とくる。
手があがる。司会者は「何々さん」と指名する。
名乗るまでも無く、そっちで知っているじゃないか。

「質問は一人一問でお願いします」とくる。あやふやな、はぐらかしの答えであっても二の矢は放てないのだ。
しかも時間制限あり。NHKの枠に合わせて。
2~3人でそろそろお時間となる。

冒頭発言が長すぎるからだ。それは記者会見の発言というより、演説会のようなものだ。

安倍は時間制限と質問制限、その「会見規制」に救われている。会見が「形骸化」しているのだ。その「岩盤規制」を記者の側はドリルをもって打破しようとはしない。

記者会見の前に、おおよそのマスコミの世論調査の結果が伝えられていた。
小心者の安倍は実は世論なるものを気にしている。だから冒頭発言は妙に殊勝であり、やたらと「反省」を口にした。

反省するには遅すぎる。
反省は何の意味も持たない。
既成事実は出来上がってしまっているのだから。

「加計」のカの字も口にしなかった。会見の途中には「森友強制捜査」の速報字幕。

安倍の「反省」は体裁を繕うだけの、その場しのぎの逃げ口上だ。
「丁寧な説明」だって何度も口にされながら、実行されたことは無いのだから。

加計問題をめぐり、菅官房長官は「怪文書」と前川の告発を無視した。
怪文書という言葉が独り歩きしているとも言い放った。
逆を言おう。
安倍の「反省」と言う言葉だけが独り歩きしていく。実践を伴わない言葉が。

安倍が反省すべきは、国会運営の可否だけではない。
自らの政治姿勢、国家観であるべきだ。

殊勝なふりだけの「反省」、しかしそれには具体性が皆無だ。
反省して何かを改めるということか。

地元紙福島民報の世論調査、県民の意識調査。
安倍内閣支持は30,6%、不支持は51,7%。

福島県はかつて保守王国と言われた。安倍を「保守」と思っていない人が多くなったということか。

「昨の非を悔ゆる者は之れ有り。今の過ちをあらたむるものは鮮(すくな)し」。
言志四録にある言葉だ。


2017年6月18日日曜日

「一般人」という”差別“、

国会は幕を下ろした。「形骸化した国会」というまやかしの舞台は。
悪魔が撒いたようなどす黒い霧の数々は何ら晴らされぬままに。

1961年に丸山真男は「現代における人間と政治」という論文を書いた。
その中でにドイツ系アメリカ人のジャーナリスト、ミルトン・マイヤーの著書
「彼らは自由だと思っていた」の一節を引用し、こう書いている。

“ナチが共産主義者を襲つたとき、自分はやや不安になつた。
けれども結局自分は共産主義者でなかつたので何もしなかつた。
それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。
けれども自分は依然として社会主義者ではなかつた。そこでやはり何もしなかつた。
それから学校が、新聞が、ユダヤ人が、というふうに次々と攻撃の手が加わり、
そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかつた。
さてそれからナチは教会を攻撃した。そうして自分はまさに教会の人間であつた。
そこで自分は何事かをした。しかしそのときにはすでに手遅れであつた”。

マイヤーの著作の「下地」は、マルティン・ニーメラーの詩にある。

「特定秘密保護法」時にニーメラーの詩を引用したが、「共謀法」が強行成立した今、あらためてこれらの文を噛みしめている。

「自由」が霧の中に奪い取られていっているような思いがある。

テロ対策を隠れ蓑のようにした共謀罪。もしかしたら安倍自身もこの法律の持つ恐ろしさをわかっていないのかもしれない。
安倍の中の判断基準は、オリンピックを安全に成功裏に終わらせるために必要な法律だと言うことだけなのかもしれない。

たかだか2週間のオリンピックのために将来の日本の社会が、ニーメラーやマイヤーの恐れた社会になって行くかもしれないのだ。

「一般人には適用されない」と答弁したかと思うと、そうでもないようなことも言う。
与党の政治家自身もよくわかっていないのだ。

「一般人とは」。そんな議論が真剣に交わされた様子はない。

国会議員、官僚、警察官。それ以外は一般人ということか。一般人と言う言葉自体、どこか国民を”身分差別“し、見くびっているような。

一般的に言えばー。枕詞のように言われるがあまりにも曖昧模糊とした表現。
芸能界―。お相手は一般人。だから明らかにしない。

安倍政権を支持する弁護士に聞いた。あなたは一般人かと。一般人ですと明言した。

医者は一般人なのかそうではないのか。教職員はどうなのか。マスコミ人は・・・。

そんな全く素朴な疑問さえ明らかでは無い。前議員は、退職公務員は・・・。

杞憂であって欲しい“極論”を言う。

日本では犯罪が増えるだろう。警察官の防犯関係の警察官まで「公安」を担当させられるのだから。

警察がこの法律をどう思っているのか知りたい。
スポーツジャーナリストはいう。「オリンピックをダシにされているようで選手たちが気の毒だ」と。

冒頭に書いたことに戻れば、「他人事と思っていたが、組織的犯罪集団のことだと思っていたが、気が付いたら一般人の自分にもそれが及んでいた」。そんなことにもなりかねない。

それにしてもこの共謀罪のことを知らない人が多すぎる。
平均的国民レベルとはいわないが。

御油断召されるなよ、一般人。

2017年6月15日木曜日

「11人の怒れる男」に模して

とにかく我々に「共謀罪」という法律が適用されることになった。
それがどんな形で、どんな場合に適用されるのか。

全く五里霧中だし、その法律を知っている、理解している「一般人」はどれくらいいるのだろうか。

安倍政権は野党を舐めきっているし、国民をも舐めきっている。

「なめたらあかんぞよ」と任侠映画のセリフを吐いてみる。
単なる腹いせに過ぎないが。

「中間報告」という手法。それは違法ではない。国会法にもある。
“国会対策”というあの独特の世界ではあの手この手の手法が考え出される。

参議院手帳には憲法も国会法も、衆議院規則も参議院も記載されている。
さらには「先例集」という”虎の巻“みたいなものもある。

それらに熟知していれば安倍自民が、国会運営のいわば“奇策”に出ることも野党にとって想像の範囲であるべきだった。
手練手管を要する国会対策においては「有り得る」ことだったのだ。

それを自民から通告されて慌てた野党には国会対策のプロがいない。
あの奇策を思いついたのは、想像するに自民の国対の職員のはずだ。
“知恵”を出したのだ。

しかしそれは例えば野党が「寝て」しまいにっちもさっちもいかなくなった時に使われる奇策なのだ。

「国会は男を女に変える以外は何でもできる」。

「数の力、数の力」と言う。絶対多数を自公が持っているからだという。

ならば野党だって少数は少数なりの“知恵”の出し方だってあったのではないか。

国会は議論の場であるべきは当然だが、そこに議論を存在させない安倍政権。

数の力で押し切ると言うのはまさに「暴力」以外の何ものでもないが。

昔あった映画を思い出していた。
「11人の怒れる男」という映画。

殺人罪で有罪がほぼ確定していた17歳の少年。その裁判での陪審員の議論の物語。

12人の陪審員のうち11人は有罪派だった。11対1だった。
一人ヘンリーフォンダが演じる陪審員が、有罪に疑念を持ち、それこそ徹夜の会議を続けて、一人一人を議論と説得で考えを変えさせ、なんと気が付いたら1対11にし、最後は全員が無罪の意見に集約された。そんな映画。

この映画を模したような「国権の最高機関」のなかでの議論は出来ないのだろうか。
もちろん答えは「ノー」だ。

日本には制度としての見せかけの「民主主義」はあっても真の、真理としての民主主義は存在しないのだ。
今にはじまったことではないが。

世論調査を見ると「なんとなく安倍」「他に適任者がいないから安倍」という層が多い。

安倍に代わり得るような人がいればその層はひっくりかえるかもしれない。
人材の輩出、安倍に代わり得る人物。

いない。とうことは承知の上だが。

安倍が乱暴なことをするなら野党も乱暴をすればいい。
まだ会期はある。
野党全員が「議員辞職」をするということだ。

それは「国民の負託」に背くという議論も出てこよう。
でも「暴」をもって「暴」に対処するってこともありなんじゃないか。

「こんな国会やってられないよ」

既成政党は飽きられている。新たな政権の受け皿つくりに、そんな奇策だってありなんじゃないのか。という「一般人」の“暴論”だ。

メディアはこぞって意味をなさない表現をする。
「攻防」という常套語。
どっちが攻で、どっちが防なのだ。

メディアは単なる傍観者でいいのか。

「安倍1強」をもたらしたのは選挙民、国民だと決まり文句のようにメディアは言う。
今の選挙制度のもとで国民にどれだけの選択肢があるのか。

メディアは”忘れる“ことを忘れて、継続してこの政治の有り様を伝え、報じ、論ずるべきだ。

一連の流れと言ってもいいが、「加計問題」での“再調査”結果。文科大臣も官房長官も“偽証罪”にしてもいいのじゃないかな。
さんざんしらを切っていて。

これもどこか共謀罪の先行きを暗示しているようにみえるのだが。

2017年6月12日月曜日

「1984年」と「2017年」

ジョージ・オウエルという作家が書いた本に「1984年」というのがある。

その新訳版が今隠れたブームだと聞く。

1984年と2017年は、あまりにも酷似している。

小説「1984年」の要旨はこうだ。

“ビッグブラザー”という絶対権力者がいる。その権力者の意向に反する思考は許されない。ビッグブラザーがその国を管理、支配している。
彼に反発する“思考”はもとより、自由な恋愛も、個人のメモ・日記すらも残しておくことは犯罪である。彼の支配に不都合な存在や事実は、あらゆる記録から抹消され、書き換えられる。

「なかったこと」にされる。

その社会に生きている人は“二重思考”を要求される。自らが、だ。

反抗・抵抗する者には過酷な運命が待っている・・・


この“主人公”、ビッグブラザーは、スターリンやトロツキーを模したものだ。
最初は反共小説とされていた。
トランプ政権が誕生してから、この本は、いわば反トランプ本として読まれているようだ。

トランプと安倍晋三は、もしかしたら前世は“兄弟”か“双子”だったのかもしえない。
思考回路、言動、やり方。多くの部分で酷似している。強圧的であり、虚偽に類する言動が多い。

FBI長官の解任劇でそれは如実に示されている。

この本は、今の、2017年の日本にも当てはまりそうだ。

あったものをなかったものにする。あったことをなかったことにする。

「蕎麦屋の問題」、モリ(森友)、カケ(加計)に見るが如くだ。
“最高権力”と前文科省次官との問題。

官僚の”正義感“。

どうも日本は「1984年」に迷い込んでしまったようだ。1Q84かな。
月は二つあると言われれば一つしかないものを二つとしなくてはならない。

大統領就任前のトランプのもとになぜいち早く安倍は参上したのか。それが可能だったのか。
安保や防衛問題が喫緊の課題としてあったからかもしれない。
経済問題もあったのかもしれない。

政治手法について考え方が一致し、お互いの親密な関係を「誇示」した。
そりゃそうだ。“前世”をたどりあったのだろうから(笑)。

また明日にでも北朝鮮はミサイルを発射するかもしれない。
北朝鮮はアメリカが目標だというが、否応なく日本も巻き込まれる。
北朝鮮と日本は、アメリカがそこに“介在”している限り、好転する気配は皆無だ。

拉致被害者は帰ってこない。

それを判りきった上で、安倍は襟にブルーリボンを付けている。

何もしていない、しようとしないのにそのリボンを、バッジを付けていること。
それこそ「印象操作」ではありませんか。

大統領がどうであろうとアメリカ国民の間には、民主主義が根付いていることを過日のテレビ、サンデル教授の白熱教室を見ていて知った。

トランプ派、反トランプ派に別れての討論。
それぞれが自分の考えをきちんと持っており、反対派の主張にも冷静に耳を傾け、“自己撞着”に陥ることなく、お互いを「個人」として尊重し合っていた。

そこにはむやみに罵り合うと言う光景はなかった。

「民主主義」の姿があった。それは今の日本では見られない光景だった。

日本の民主主義とは何か。あるのか、ないのか。

それにしてもメニューに「モリ」と「カケ」しかない安倍蕎麦店。
やがて客足は遠のくのかも。

おソバ(傍)用人がパラパラと海苔をふりかける努力をしても。

2017年6月8日木曜日

「美しい国」という“欺瞞”

安倍晋三が第一次安倍内閣を作った時、たしか「美しい国、日本を目指す」というようなことを言った。その言に「感動し賛意を送った」人も多々いる。

「美しい国」とはなにか。その“正体”はついにわからずじまいであり、その「安倍語」も雲散霧消した。

美しい国の概念の中には「美しい日本語」も入っているはずだ。

にもかかわらず安倍が発する言葉は余りにも醜く、欺瞞に満ちている。

第一次内閣を突然放り出し、辞職したのは病気が理由だった。「なんとか大腸炎」という病気。その割には顔から受ける“印象”は健康そのもののようだったが。

「アサコール」という薬で体調が回復し、復権した。
そんなに効く薬なのだろうか。彼の日程を見ると、外遊を含めてかなりの激務である。「アサコール」を常用しているのだろうか。

クスリには「抗体反応」というのがある。服用し続けていると効き目が薄れ、さらなる“劇薬”を使用しなければならないはずだ。

たまの人間ドッグ以外に彼が医者で健診を受けたと言う日程はない。薬はどこから処方されているのだろう。医師は無制限に薬を処方するはずがない。

摩訶不思議な“印象”を受ける。

「国会とかけて何と解く。蕎麦屋と解く。その心は」。「モリとカケが飛び交っている」。

さっき浮かんだ駄句。森友・加計。

文部科学省の前次官、前川喜平が加計をめぐる官邸からの圧力を資料文書をもとに白日のもとに晒した。
官邸は「怪文書」と位置付け、確認を拒んだ。

確認できないと言うのは「無い」ということではない。無いと言えば嘘だ。
だから「確認」ということばで逃げをはかり続けている。

あげく、”下ネタ“もどきのスキャンダルを捏造する。大手新聞社とつるんで。

官僚たちの反乱。そんなことを先頃書いた。“たち”も的中した。前川に続く官僚が登場する気配もある。
先の退陣劇の理由は体調では無く、大きな力が働いていたという見立てがある。
その力の一つに”財務省“の官僚の”反乱“があると指摘する向きもあった。

大蔵省・外務省・内務省、その三つの役所さえあれば十分だ。一時、永田町や霞が関で言われていた「行政機構」の”定説。
三流官庁の文科省の役人の”反乱“は鎮圧出来るとでも思っているのか。

“「国民を無視し、一切聞く耳を持たず、情報を隠蔽し、嘘を重ね、友を優遇し、敵と見れば権力を使って追い落とす」。それが安倍政権の姿だが、このまま走りきれると思っているのだろうか。こんな悪政はかつて無かった。誰か暴走を諌める人はいないのか。民主国家と暗黒独裁国家の分岐点、正念場だ。”

著名な落語家がネットに書いたもの。正鵠を得ている。

サイコパス安倍はその本領をいかんなく発揮中だ。

「印象操作、印象操作」と連呼する。ちょっと前は「レッテル貼り」だった。

印象操作とは自分が人からよく見られようとする行為だ。印象を良くしようと意を注ぐ行為だ。
あきらかに日本語の「誤用」だ。
美しい日本語とは正しく日本語を使うことだ。

「でんでん」「ばくしん」。最高権力者が使う間違いだらけの日本語。造語。

若者が判読不能の「若者言葉」を発するのも、上から下までの“言葉への蔑視”のあらわれだ。

前川喜平に”責任“があるとすれば、この国の教育行政を司る役所として、どこかで「日本語教育」に手を抜いていたことなのかもしれない。

2017年6月4日日曜日

「真理」と「自由」

中学生の時、英語の授業で習った英文がある。

「リバティー オア デス」。自由をさもなくんば死を。

As for me, give me liberty or give me death

“余には願わくは自由を与えたまえ, かなわずば死を選ばん”。

アメリカの独立戦争時、バージニア州の弁護士パトリック・ヘンリーが州議会で行った演説だ。
「自由と権利を失いたくないのならば、それを守るために戦わねばならぬ。
諸君は平和、平和と叫ぶかもしれないが、それはもうここにはないのだ。戦争は、既に始まっているのだ。
誰がどの道を選択するかなど、私の知るところではない。しかし私はこの道を選ぼう。おお、神よ、我に自由を、しからずんば死を与えん」。

この時から、その文章に感化されてか、「自由」ということを再三考えるようになった。

東京、永田町。国会議事堂に並んで憲政記念館があり、その隣に国立国会図書館がある。さまざまな書籍刊行物が所蔵されている。

その図書館の2階ロビーに初代館長だった金森徳次郎が揮毫した額がある。

「真理が我らを自由にする」という言葉だ。

金森徳次郎は大蔵官僚から内閣法制局長官を勤め、国会議員となり国務大臣も歴任した。
図書館が完成した昭和28年、初代の館長に就任した。

国立国会図書館法という法律の前文にはこう書かれている。設立の理念が。
「真理が我々を自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和にとに寄与することを使命として、ここに設立される」。


今、永田町に生息する国会議員で、この図書館に出向いて、何かを学ぼうとした人がいるだろうか。
皆無であろう。その存在すら知らない人もいるように思えてならない。

真理とは何か。難しい命題だ。
広辞苑には「本当のこと、まことの道理」と平易に記述されている。

真理を探究するのは学問の場だ。
国会とは政治の真理を議論、追求し、真の政治を実践する場だ。

およそ今の国会で交わされている間違いだらけの言葉の応酬。
レッテル貼りだの印象操作だのの「安倍語」による決めつけ。

今の政治家には「真理」なるものは存在しない。

同音異議語で真理を心理に置き換えると安倍政治はわかりやすい。
彼を語るに政治学者をもってしては語り得ない。
心理学者をもって語らせれば「サイコパス」という解説・分析が当てはまる。

“嘘を平気でつく。しかし、それを嘘だとは思はない”という心理分析。

独裁が民主主義だと思いこんでいるサイコパス。

国民の自由を限りなく剥奪することもいとわない人。

真理を探究し、実践した過去の政治家を何人か知っている。
首相に対して諫言し、身を挺して時の首相の政治判断を変えさせた男を。

金森が揮毫した文言は聖書のヨハネの福音書から引用したとも言われる。
「真理はあなた方を自由にする」。
キリストの言葉だ。

ヨハネはこうも言っている。
「イエスのなさったことはたくさんある。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」と。
だから金森はそのイエスの言葉をもってして収用出来ない言葉や知識があることを「図書館」の理念としたのだろう。

真理と自由。今の安倍政治には全くふさわしくない言葉だと。
ま、無知、無教養な男にはそれを求めてもなんの意味も無いのだが。

しかし、それはある意味、歴史の”冒涜“であるとも思えてきて・・・。

2017年5月27日土曜日

官僚たちの“反乱”

かつて中曽根内閣時、官房長官には後藤田正晴が起用された。
後藤田は就任要請を固辞したが、国のために身を投げうつという思いで就任を受け入れた。

中曽根も後藤田も旧内務省の官僚。しかも後藤田が先輩。二人きりの時は後藤田は「中曽根くん」と呼び、中曽根は「後藤田さん」と呼んでいたと言う。

自論の憲法改正、自主憲法制定を表の議論に持ち出そうとする中曽根を後藤田は強く諌めた。国民の多くはそれを望んではいないと。
その進言を入れ、中曽根は憲法論議を“封印”した。
中曽根は長期政権を築いた。

かつて城山三郎の書いた「官僚たちの夏」という本があった。テレビドラマにもなった。
主人公のモデルは佐橋滋。ミスター通産省と呼ばれた男だ。
彼を含め、時の通産官僚はこの国の産業政策がいかにあるべきかについて知恵を出し合い、時には言い争いにもなったが、常に念頭にあったのは国であり、国民だった。政治家にも立ち向かって行った。この本はノンフィクションだ。

そんな時代もあったということ。

今、安倍1強政権と言われている。彼が何かに秀でている訳でも無いのに、そんな政治状況になっている。
安倍の側近として、安倍を支え続けているのが菅官房長官だ。
究極の「イエスマン」だ。

森友問題と加計問題はその「構造」が全く同じだ。酷似している。
安倍をとりまくこの国の「構造汚染」だ。

“天下様”の御意向に服従する官僚。それこそ白を黒と言いくるめる官僚。
国益よりも私益を優先する官僚。
かつて官僚に付されていた「公僕」という言葉は安倍の辞書から消された。

加計問題を巡り、安倍の意向を受けた、あるいは忖度した内閣府と文科省の文書。
前の事務次官が「反旗」を翻した。どこかに官僚としての意地と経綸を持っていたからか。

彼の行動を「官僚たちの反乱」と位置付ける。彼に賛同する官僚たちもいるからだ。

菅はその文書を怪文書とし、無視を決め込もうとしている。最近、テレビに映る菅の表情は醜さを増しているようにも見える。表情は全く冴えない。

おかしな理屈を官邸や自民党は言う。退官したのだから民間人だと。
現職で有ろうと退官した身であろうと、言っている“事実”には変わりはない。

もし官僚が入省時に「官僚とは」というまともな教育を受けていれば、政治家の言うがままに動くことは無いはずだ。

今の自民党の国会議員はまともな教育を受けていない。まともな人間は育っていない。“教育機関”であった派閥が無くなったからだ。

ある時期、派閥解消は「天の声」のように叫ばれた。マスコミもこぞってそれを主張した。

現代政治史の逆説的悲劇だ。

福島県会津若松市出身の政治家で伊東正義という人がいた。東大卒の官僚経験者だ。
農林省にいた時代、時の農林大臣河野一郎に歯向かったこともある。
後年、竹下内閣が退陣した時、自民党総務会長だった伊東に「後継」の要請があった。伊東は固辞した。
「本の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」。中身とは自民党の腐敗体質を指している。

会津藩士の末裔だ。会津に今も語り継がれる「什の掟」。その結語は「ならぬものはならぬものです」。

因縁めくが長州藩の血を引く安倍晋三は、このことを、この史実を何と聞くのだろう。

“怪文書”扱いにするのがおちなのだろう。

敢えて言う。今の無能な議員達の集団である自民党がなぜ生まれたか。
「自民党をぶっ壊す」と豪語し、選挙で大勝し、なんら抱負経綸を持たない“素人議員”を誕生させてしまった小泉純一郎にその責任の一端があると。

だから「他に適任者がいない」という項目に丸をつけてしまう有権者が多数存在すると言う世論調査の結果。

蟷螂の斧があってもいい、いや、あるべきなのに。

2017年5月23日火曜日

僕は「コッペパン」で育った。

「無信不立」、信なくば立たずという論語の言葉がある。政治家が好んで“座右の銘”と言って“格好つけ”に使う言葉だ。

今の自民党議員の多くは座右の銘に「晋なくば立たず」としているのだろう。

共謀罪、改憲、語るに落ちている。

北朝鮮のミサイルで大騒ぎだ。
Jアラーとは鳴らないが地下鉄は止まり、徒歩の避難訓練なるものが“正気”で行われている。

“狂気の沙汰”にしか思えないのだけど。

北朝鮮のミサイルが「正確」なら、そして日本を狙うなら、その目標は首都でも、米軍基地でも無い。

原発施設だと思っている。

弾頭に「サリン」を載せているとかなんとか”煽り“はあったが、「原発」とは誰も政権内の人間は言わなかった。

もし、日本でテロがあるとすれば狙われる可能性の大きい施設は「原発」だ。
「原発テロ」をたくらむ奴らを「共謀罪」で“防止”できるのか。

東京ブッラクアウト・原発ホワイトアウト。

横暴を極める安倍政治。知性が完全に欠如している政権内部。

教科書検定のことを思い出した。
「パン屋」とされていた部分は”異論“が出され、「和菓子屋」に替えさせられたという。

僕が小学生の頃、給食は必ず「コッペパン」だった。おいしいのか、まずいのかわからなかったし、覚えてはいない。マーガリンが付けてあったような気がする。

商店街にパン屋さんはあったけど和菓子屋さんはなかった。
米は配給制、米穀手帳がいわば“身分証明書”。
外食券食堂がやがて出来て行ったが。銀シャリに味噌汁、タクワンふた切れ。

昼飯は、給食は食べられたのだ。コッペパンで僕は育ったのだ。
「コッペパン」には幼少期の郷愁が染みついている。

なんで「パン屋」が教科書から排斥されるのか理解不能だ。

国会には暴言居士が渦巻いており、教育の「片鱗」すらうかがえない。

共謀罪で国会は騒然としている。その必要性もぼくにはさっぱりわからない。
一応「一般人」と書いた名刺は持ち歩いているが・・・(笑)

「人は一般的に内容よりも外見で判断する。内面で判断できる洞察力を持つものはマレである」。ルネサンス期のイタリアの政治思想家マキャベリの言葉だ。

彼の有名な著作「君主論」。それをどう読み下し、読み解くのかは難しいところだが、これにならって“マキャベリズム”という思想が生まれた。

“どんな手段や非道な行為も、国家の利益を増進させるのであれば肯定される”というものだ。

安倍は「君主論」の良いとこどりをしているのかもしれない。もちろん、その本を彼自身が読んではいないだろうが。

2017年5月21日日曜日

やがて美味いコメが出来るのだ

裏の田んぼに水が入り、どこからともなく鴨が来て水の中の餌をついばむ。
カエルの合唱が始まる。

先日、6面の、界隈のいくつかの田んぼで田植えが行われた。稲が植えられた。褐色の水面に若い緑が彩りを添える。

稲は瞬く間に育っていく。カエルの合唱も大きくなる。

大好きな待ちわびた光景、季節。

福島のコメを思う。

「3・11」前には福島のコメは出荷量で全国の上位を占めていた。
原発事故後、それは激減した。
品種改良も進み、「天のつぶ」という新銘柄米も生産されているにも関わらず、福島のコメの出荷量は減ったままだ。

作付面積を減らした農家もあれば、農地を“転売”した農家もある。

近所の農地も宅地転用された。そこには家が建った。帰還困難区域の人たちが数軒。町内の光景が変わっていく。

聞くところによると、その農家は
高齢になり、作業が辛くなった。後を継ぐ“若者”はいない。やむを得ない事情これありだと。

耕作放棄地となった田んぼもある。毎年、老夫婦がなにやら”口争い“をしながら田の手入れを行っていた。
今は、その”持ち主“の姿も見かけない。

福島県産のコメは「全袋検査」が今でも行われている。すべてがND,放射性物質未検出。

福島県産のコメはなかなか食卓にはあがらない。いまだに忌避されているようだ。

そのコメを忌避する人に限って、安全・安心を言う人にかぎって、コンビニなどで食品加工物を多分に含んだ食材を買っている。

健康に影響がある食品は加工物を含有しているものだと思うのだが。

福島県産と書かれたコメは売れない。

手前味噌のようだが福島のコメはまことに美味なのだ。

しかし、「美味さ」は「風評」にかなわないということか。
福島と言う名前は忌避され、他県のコメとブレンドされ「国内産」と表記されて売られている。
しかもその「消費先」は、いわゆる「外食産業」だ。

しかもその買い取り価格は大幅に低い。

福島のコメについて言えば、生産と消費のバランス、需給関係が壊れて行っている。
10年後、この国のコメ事情がどうなっているのか。推測に値することが可能な頭脳も知識も持ち合わせないが。

田んぼのある光景、カエルが泣く風情。10年前、ここに家を買った理由の一つだ。

贅沢な“初夏”を味わっている。

そこには光景としての「美しい国」があると思っているのだが。

安倍首相夫人が福島市にやってきた。福島市郊外の田んぼで、小林福島市長と田植えを“楽しんだ”ということだ。

まさか福島市の名誉市民とはならないと思うけれど。

豊葦原の瑞穂の国、子供の頃習った日本の別称。今騒がれているのは瑞穂小学校。

いやはやなんとも・・・。

2017年5月14日日曜日

「仮設」という言葉に過敏になる

この国は今2020年の東京オリンピックを「ゴール」にしてあらゆることが動いているようだ。

安倍の“共謀政治”は2013年のIOC総会で「TOKYO」の札が掲げられた時から始まった。

あの「3・11」からわずか2年後。東北の民は自分たちの生き方さえも見い出せず、さまざまな苦難を強いられている時、多くの被災者が「仮設住宅」で辛い日々を送って居る時、IOCの会場で安倍は狂喜乱舞していた。

宰相のあんな“子供じみた”、幼児性丸出しの振る舞いを今まで見たことは無い。
醜かった。
なんで「どっしり」構えて決定を受けとめるという“風格”すらなかったのだろう。

あの時から、ブエノスアイレスの地で、安倍の政治目標が出来上がった。
東京オリンピックは主催国の宰相として迎えるということが。

そのための地ならしに手を打つことに余念がなかった。
ブエノスアイレスで「福島の事故」を、まだ汚染水が海中に流れ出ているのに「アンダーコントロール」と「放言」したことを手始めに。

安倍も森も小池も同じ穴のムジナだ。

共謀罪をテロ対策法案と名前を変え、オリンピックでのテロ防止に役立てると言う。
2週間のオリンピックのために我々は一生“自由”を束縛されるのだ。
改憲をオリンピックまでに成し遂げるという。

オリンピック憲章にはその「政治利用」を堅く禁じている。憲章に何が書かれていようと、憲法に何が書かれ、その理念がなんであるかは安倍には無関係のことなのだ。

リオでスーパーマリオを演じた如く、満員の観衆の中で、テレビ中継の中で“主役”を演じたいのだ。

「サイコパス首相」ととりあえず彼を位置付けておこう。


オリンピックの経費負担をめぐって、国や東京都、関係自治体、それに組織委がなにやら言い争っている。

「オリンピック関連の仮設施設の経費をどうするか」ということのようだ。
なんで、オリンピックの施設に、2週間しか使わない施設に「仮設」という位置づけがされるのだろう。
ならば、6年間「仮設住宅」にいた人の心情はどうなのだろう。

福島はじめ、宮城、岩手の東北3県の家を失った人がしかたなく住みついた「仮設」。
熊本地震の被災者が暮らす「仮設」。

「仮設」という言葉からあなたは何を思い浮かべますか。

そこで人生の終焉を迎えた人も数多くいる。

「仮設」と言う言葉は我々の神経を逆撫でするのです。

他の呼称だっていくらでもあるのに・・・。
小池の大好きな「カタカナ名前」だってあるでしょうに。

野球招致で浮かれている場合じゃないんです。福島は。

あの人達、政治に携わる人たちには「ことば」のデリカシーが完全に欠如しているのです。それは「福島」を無いものにしたいとする心根が垣間見えると言うことなのです。

今、この国は“滅び”に“亡び”に向かって突き進んでいる。
オリンピックは政争の具であってはならないのに。
誰かの名誉欲を満たすためにあるのでもないのに。

そして、まだ900億円ものカネがかかるという。大方は都民の負担になる。

オリンピックは安倍の政治的野望の道具だ。そんな「仮説」は無謀でしょうか。

2017年5月10日水曜日

読売記者の気持ちを“忖度”する

またも政治ネタで恐縮ですが・・・。

衆参両院の「集中審議」が終わった。
議論は安倍の“完敗”と見たが、この時点で安倍は改憲に“御執心”とうことをまざまざと、改めて見せつけてくれた。

なりふり構わず、“失言”の数々も棚に上げて。失言とはまさに失った言葉。
今までとは違ったことを平気で言う。

失言ではないが、「暴言」の最たるものは「読売新聞に言いたいことは書いてある。いまさら国会で言う必要は無い。読売新聞を熟読しろ」。

読売の“インタビュー”で語っていることが本心だ、と。

発言から忖度出来ることは、いや忖度では無い、読売は安倍政権の「広報紙」だということ。読売には本心を言ったということ。
国会で発言をせずに一介の“御用新聞”の方が大事だと言わんばかりの思考。

読売の読者は政府広報紙を読まされていたということになる。
すくなくとも読売はジャーナリズムではないということになる。

読売のどこの記者がどこの指示で安倍の発言を取材し書いたのか。デスクは黙って通したのか。

取材では無い。言っていることを書き写しただけ。いかに社主であり主筆であるナベツネがある意味日本の政治を牛耳り、安倍の政治指南役を果たしているとはいえ、読売の記者はこの一連の経緯をどう受け止めてるのか。

“読売新聞、ジャーリズム放棄宣言”

総理・総裁の使い分けと言う安倍の“浅知恵”。
三大紙と言われる中で、朝日、毎日は安倍を批判する。特に毎日は厳しい。

ちょと視点を変えれば、安倍の狡猾手法よりも、それに乗った読売の姿勢こそ問題ではないのか。

一昨日の夜、読売本社のある界隈の飲み屋で、社の姿勢について嘆き悲しんだ記者とていただろうにと思いたい。

ナベツネの意向を“忖度”した読売の記事。いや、忖度では無いかもしれない。
あの「憲法発言」はナベツネが付けた知恵なのかもしれない。

政治記者になた時、初めて勉強の為に読んだ本はナベツネ著の「派閥」という本だった。参考になった本だった。自民党政治を知る上での“知識”をもらった本だった。

父親より年上であろうナベツネの進言を入れるのに安倍は躊躇することは無いはずだ。

新聞社を排斥して臨んだ引退会見の佐藤栄作がだぶる。

日本のジャーナリズムが壊れて行くさまを見たような気がする。

安倍政権のメディア対策。げに怖ろしか。

さすが報道の自由度72位の国だけのことはあるなと。


2017年5月7日日曜日

「一般人」という"肩書"

週明けのあすから、国会は「共謀罪」を巡って騒然とした空気に包まれるだろう。
共謀罪って狂暴罪?

「改憲発言」も「共謀罪」も“モリトモ隠し”なのか。辞職を公言したのだから。

その共謀罪、法案にテロがどうとかの名称を付けてはいるが“換骨奪胎”をはかっているものであり、戦前の治安維持法の“再現”だ。

あやふやな法相の答弁。
「一般人は含まれない、対象では無い」というものの、「テロリストです」という看板を掲げていない限り、極端な話し「国会議員と検察・警察関係者以外はすべてこの法律の対象者たりうるのだ。

法相に業を煮やした政府は官僚を参考人として答弁させる決定を強行して決めた。阻止しようと委員長の肩に手をやった野党議員に「テロ」だと叫んだ。
所詮、この程度の認識の議員が審議に当たっていると言う事実。
この程度の議員によって我々が、日常が“支配される”と言うこと。

だったらさあ、国会の委員会で、与党が共謀して、綿密に手順を打ち合わせて半ば暴力的に法案の強行採決をする。これって立派な狂暴罪じゃありませんかね。言論の府における「テロ」ではないのですかね。

この国は2020年の東京オリンピックを軸にあらゆることが決められていく。
安倍は公言した。「オリンピックでテロを無くす為に」と。
もちろん共謀罪のこと。

かたやオリンピックまでに「フクシマ」は無いものとする。“復興”と言う言葉も消える。

“この国にはなんでもある だが希望だけがない。”



「希望の国のエクソダス」に書かれていた一行。17年前に小説家は今を予測していた。

“安倍の安倍による安倍のための政治”。

我々はそこから逃れる術を持ち合わせていない。

持ち合わせていないわけではない。それを為そうとしていないのだ。



週明けから10年間借りていた街中の事務所を移転させる。通うのがきついから。
その整理に取り掛かる。難儀なことだが致しかたない。

小物を片付けていてふと気づいた。

名刺の肩書を「一般人」としてみようと。

世の中、「肩書社会」である。肩書が物を言う。長年の経験からして思う事。
役員の名刺を持っていた時と、“無職”になってからの個人事務所の名前だけ書いた名刺とでは”扱い“が大きく違う。

人と交わる環境にある限り、「名刺」というのは単なる儀礼としてだけでも必要な場合がある。交換と言う慣習。

だから、この際、今の政権へのささやかな抵抗として、また、テロリストではないという弁明のために、全くの冗談としての作業として、“一般人”と肩書を付けた名刺を作ってみようかと思った次第。

その“意味”を受け取った相手が理解してくれるかどうかは別物。
洒落ですよ、洒落。

でも、いくら一般人を名乗って見たとて、その法律の災禍が襲ってこないわけではない。

国会議員と警察官だけが適用されないと言われるこの法律。
警察官に果たして「識見」はあるのか。

定年後の警察幹部がどこに天下ったのか。マスコミは全国規模でその調査報道をしてみればいい。

1961年か62年か。「警職法改正案」というのが国会で審議されていた。
警察官独自の判断で「一般人」の日常生活に立ち入ってくるという法律。

反対を叫ぶデモの群れの中に一介の高校生もいた。
自由を何項目にもわたって保障した憲法下にあって、自由が大いに束縛されると思った高校生。

連日のデモもあってか警職法改正案は廃案になった。
あの時向き合った機動隊員の”怖さ“を今も覚えている。

しかし、なんでこんな国になってしまったのか。“時間”だけ共有してきた自分にもわからない。

2017年5月5日金曜日

「無視」すべきことなのだと思うが・・・

昨日変な夢を見た。夢でうなされ、夜中に起きた。

大きなスクリーンから“ビッグ・ブラザー”の声が聞こえる。

戦争は平和だ
自由は隷従だ
無知は力だ

「1984年」の声が聞こえる。

そして何やら人を殺せと命じられている。それを実行しようとしているのだが、なかなか出来ない・・・。

嫌な夢から醒め、いつのも自分のベッドにいることを認識し、そこに座り込んでしばらく考える・・・。夢の正体を。

今は2017年だ。

過日、首相は「日本会議」系の集まりにビデオメッセージを寄せた。
「自民党総裁の安倍晋三です」と“肩書”を名乗りながら、2020年に憲法を改正する。第9条に自衛隊を明記する。教育問題を、高等教育を無償化する。

そんなことを言っていた。スクリーンに見えるのは、まさに“ビッグ・ブラザー”の生き写しのようだった。ジョージオウエルのディストピア小説「1984年」再来の光景。

日本会議というのは全くの私的な集まりだ。団体だ。
そこで国の最高法規の扱いを公言するという厚顔ぶり。さすがに肩書を「総理大臣」とは言ってはいないが、自民党政権下では総理、総裁は一体化されている。

私的な、いわば“仲間内”の集まりで憲法について公言する。

憲法について、しかも具体的な内容について語るのは国会の場でなくてはならない。

「私語」なのだ。

しかし、マスコミの扱いは大きい。

「無視」に値するようなことが新聞にはデカデカと書かれる。

重ねて書く。幣原喜重郎は焼け野原に立ち尽くす人々を見てこう考えた。
二度と戦争を起こしてはならない。起こさないためにはどうすればいいのか。
軍事力を放棄して、戦争は二度としないと世界に向けて“宣言”することだ。

その旨をマッカーサーに申し出た。そこまで覚悟したのかとマッカーサーは驚いたと言う。そして出来あがったのが憲法9条だ。

「憲法第9条の③ 陸・海・空の三つの自衛隊は我が国を他国からの侵略から守るために存在する。専守防衛に徹したものであり、他国との紛争には先制関与することは出来ない。その主たる任務は国民の生命と財産を守るためのものであり、災害派遣など前記の目的を遂行するための組織としてのみこれを認める」。

こんな条項でも追加しようというのだろうか。

内容はどうでもいい。とにかく「改憲」なるものを成し遂げたいと言う子供じみた思考なのだろうか。

安倍は政治音痴だと思う。外交音痴だとも思う。

その「音痴」は謳う歌に我々は唱和させられるのか。
とんでもない。
嫌だね。

「平和を守るためには戦わなければならない」という人がいる。戦うとはもちろん戦争のことだ。
「他国によって侵略や攻撃の危機にさらされれば、断固としてこれと戦うことは、自衛の戦いであり、平和国家と矛盾するものではない」という人もいる。

“平和のための戦争”というのは有り得るのだろうか。

「先の大戦」だって、口実は平和を守るための戦争だったはず。


夢の続きだ。
戦力を放棄した平和を希求する国。それを国是として内外に宣明した国に、攻撃を仕掛けてくる国はあるのだろうか。
平和ボケと言われようがなんと言われようが、そんな国は無いと信じたい。

中途半端な「抑止力」を持つより「丸腰」の方が戦争に巻き込まれないと思うのだけど。
そんな国を無法に攻撃した国は国際社会から葬られてしまうと思っているのだけど。

「専制と隷従、圧迫と偏狭」。
そんな言葉が頭の中を渦巻いていた。

2017年5月3日水曜日

「分断」の中の憲法

憲法は施行70年を迎えた。70回目の憲法記念日。
このブログを初めて10年以上になる。
毎年5月3日には憲法について書いてきた。

70年、人間の年齢で言えば「古希」。
世界一長寿の憲法なのだ。

古来稀なりというところか。70年、それが血肉となって育まれていたものと解釈したいのだが。

よくぞ持ちこたえていてくれた。これからもそうであって欲しい。
切に望むものだ。

「憲法記念日」にあらためて憲法を読む。特に前文を。
そして、
そこに書かれた理念を再確認し、美しい日本語として、一字一字を追う。

今の憲法が制定された時、公布された時も含めて僕は小学生だった。憲法の何たるかを知る年代では無かった。
中学に入って、それが教科書にあったかどうかは記憶にない。
どうも自分で勝手に「憲法の世界」に入っていたような気がする。
高校時代は憲法の虜になっていた。読むたびに感動した。文学的ですらあった。

前文も9条も僕は好きなのだ。

改憲論議が日増しに勢いを増しているようだ。
自主憲法制定とそれは同意語か。
「押し付け論」がその理由なのか。

「押し付け」ではないと思っている。
昭和天皇の意向、幣原喜重郎首相の意向、近衛文麿の意向・・・。
マッカーサー司令部の担当者と幣原らが論議・検討して擦り合わせて出来たものだ。

特に9条は、戦争放棄は幣原が言い出したものだ。史実は残されている。日記として。あの戦後の焼け野原になった東京の光景を見て、幣原は「戦争放棄」を決意したという。
その申し出にはGHQも驚いたと言う。

しかもGHQの草案には国会論議の過程で大幅な修正がなされている。
「丸ごと押し付け」論、それはある意味今はやりの言葉で言えば“フェイク”に近い。

「機は熟した」と安倍は言った。改憲の機が熟した、環境が整ったとう。
一強と言われていることで舞い上がっているのだろうか。悲願なのだろう。祖父の意向を継承した。

しかし、憲法のどこを変えたいのか。はっきりしたことは敢えてかどうか言わない。

各マスコミの世論調査がしきりだ。改憲を巡って。
その社によるがおおかた拮抗しているようだ。単純に言う。改憲と護憲。

それは憲法をめぐる国民世論の「分断化」を意味している。

その分断は天皇制にまで及んでいる。
象徴天皇とは。象徴としての天皇の行為と安倍とはその捉え方が違う。
女系天皇を認めないとする政権の意向。

悠仁親王から先の天皇制の在り方を「先送り」して恥じないのは、「今さえよければ」という感覚だ。
国家百年の事を考えるのが政治の本来の姿だ。

憲法の主旨は、国民主権・戦争放棄・人権の保障だ。

象徴天皇はその行為に忠実であるが故に、慰霊の旅や被災者の慰問を続けられている。
「シンボル」という英語を「象徴」と訳するとしたのは白洲次郎だ。
なぜ「エンブレム」ではなかったのか。GHQ草案が。

憲法第1条。「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」。

その象徴としての天皇の行為に異を唱える改憲派の政治家。

天皇家と今の政治家とはあきらかに「分断」が見て取れるのだ。
この第1条だけをみても国民主権と象徴天皇制は「共存」しているのに。

あのNHKでさえ、史実を検証した結果に基き「押し付け論」を排除している。
今朝の朝日新聞は幣原の言を憲法学者の故宮沢俊義が記した日記の存在を明らかにしている。立教大学に保管されていると言う。

GHQ草案を“象徴天皇”とされる昭和天皇が「いいじゃないか」と了解された経緯。

安倍は東京オリンピック後に「改憲」を国民投票に付す意向だとされる。
いいじゃないか。やってみれば。
改憲・護憲が拮抗しているとはいえ、国民投票にどんな改憲案が提案されるのか。
70歳の血肉は、そう簡単には腐肉にはなるはずがないから。

2017年4月30日日曜日

「地下鉄は停まり原発は止まらない」という笑談

北朝鮮がまたまたミサイルを発射した。すぐ落下した。ミサイルだたのかそうでは無かったのか。
何の為のミサイルだったのか。どこを狙ったものだったのか。
全ては不明だ。

これまでも北朝鮮は何回もミサイルを発射している。

しかし、今回の場合の国内の対応は異様であり、これまでの対応はなんだったのかと疑問視することが多い。

4月に入って北朝鮮を巡る動きは喧噪を極めていた。アメリカのトランプの言動や米軍の動きが、傍証としての北の脅威を煽った。

自衛隊の持つパック3に動きはなかったようだ。あったのだろうけどマスコミが報道しなかったのかもしれない。

昨日早朝、それみたことかと言わんばかりに北がミサイルを発射した。そのニュースは全国を駆け巡り、“異様”ともいえる対応がされた。
東京の地下鉄などが運転を中止したのだ。
乗客には「その旨」が伝えられたというがさほど「動揺」はなかった。

政府は4月になってから「北のミサイル」に関して過敏になっているようだ。
Jアラートなるものを鳴らす。表に居る人は地面に伏せろ。なるべく強固な建物の中に逃げ込め・・・。

おおよその国民は知っている。知っているけどなんら反応しないだけ。
伏せて難を逃れられるわけはない。強固な建物なんて身近にはない。すぐに飛んで来るものだし。

地下鉄はそういう意味では「強固」な避難場所だろう。しかし止めたのは避難場所を確保しようということでは無いようだ。

安倍は国会でミサイルの弾頭に化学兵器が積まれている可能性を言及した。

なんと無辜なる民なのだろう。「防毒マスク」が俄然売れているという。製造が追いつかないくらいに。
核シェルターを自宅に作ろうとしているひとも多いという。

防毒マスクはその毒ガスが風に乗って消えるまでの10数分“役立つかもしれない”というものだ。

3・11、原発事故のあとマスクをしろ。家には目張りしろ。外出するな。そんなことが「正しい防御法」だと真面目に公共機関から伝えられていた光景を想起する。
それがいかに「無意味」だったかということを。

公共交通機関を止めるのなら、その「テロ」の目標の一つだと、ど素人でも思える原発を、稼働中の原発にすぐ制御棒を差し込んで止めないのだ。

笑うしかないのだ。笑ってすむ話ではないのだが。

北朝鮮が真面目に考えて日本を攻撃し、彼らのバカの一つ覚えのような言葉、「殲滅」をしようというなら、狙うのは原発であり、米軍基地のある場所だ。

東京近郊にだってある横田や横須賀だ。

北に怯えて電車を止めているのに、肝心の首相や閣僚はこぞって外遊に励んでいる。ゴールデンウイークの恒例行事。

これだって笑える。
この時期の外遊によって「北の暴走」を止める手立てが見つかったならともかくも。

外遊に明け暮れていると言うことは危機感が無いと言うことではない。北が日本本土を攻撃するわけはないという情報と確信があるからだなのだろう。

アメリカの空母カールビンソンを護衛するとして自衛隊の艦船が同道している。
「日米不可離」という思いこみの中での“軍事行動”。

身の回りのこと、海上で展開されている軍事行動。

これらの事を読み解く術はない。マスコミ報道によることだけが表面的な「事実」としてあるだけなのだから。

「北が攻めてくる、北がミサイル攻撃してくる、核攻撃してくる」。連日そういっていれば、誰しも戦争を疑わなくなる。
ナチスのゲーリンクの「宣伝手法」だ。

五月晴れの中、ホームセンターには庭を飾ろうと鉢植えの花を買い求める人が大勢いた。

ナチスの手法と美しい草花と。何をどう考えればいいのだろうか。

2017年4月28日金曜日

「老いる」ということ


腰が痛い、どこが痛い。身体の不調を訴えて病院にくる高齢者は多い。
大したことはない体の変調でも高齢者にとっては大きなことなのだ。

若いときにも同じような変調はあったはずだ。しかしそれは若さと言う肉体や精神の”免疫力“も含めて、医者には行かずに済んでいた病もある。

老齢化するということは、痛みの感覚を自分の体内で処置できない場合もえてしてある。

病に対しての自己治癒力は低下していくと言うことだ。

だから、医者に行って薬という対処しか考えられない。

老化とはそういうことだ。

老いれば頭脳の働きも低下する。
身体の変調は頭脳にも少なからず影響してくる。

少なくとも僕の場合はそうだ。

それをどうやって食い止めるのか。

人はいろいろなことを言い、その方途を書いたりするが、すべては個人差による。

我々は“何かあったら医者”という生活に慣れ親しんできた。

「医者」と言ってもいろんな形態がある。いわゆる町の開業医の場合、時にはそこは高齢者の“社交の場”と化しているところもある。
それに苦情を言う人もいるが、ま、いいじゃないか。おしゃべりで病がいくらか楽になるのなら。

一応完全予約制の病院の場合は、そういった光景はほとんどゼロだ。しかし、そこは大方混雑している。待つ時間が長くなる。それに耐えられるかどうかも高齢者の“勝負”だ。


高齢化社会に伴って国は「かかりつけ医」制度を設け、それを推奨している。
しかし、それが医者や患者にとってどれほどの利点があるのかがよくわからない。
薬手帖なるものがある。確かに役に立つであろうことは間違いないが、元は医師の処方箋が頼りだ。

「かかりつけ医」、難しい問題と思う。例えば24時間対応してもらえるのか、専門外の医療も引き受けてもらえるのか。
専門医のいる病院を正しく選択して“紹介”できるのか。
とりあえず「くすり」ということで誤った処方をしないだろうか。
診断が的確なのだろうか。
いつでも患者を診察できるのだろうか。

病院は第一次救急、第二次救急含め、24時間体制は出来ている。しかし、病院の医師に「かかりつけ」を依頼できるのだろうか。

足しげく病院には通っているが、この「かかりつけ医」のことはなかなか理解が出来ないのだ。
きょうも病院に行った。担当の医師とこのことについていろいろ話した。

プライマリーケアというアメリカ式医療方式、制度が日本に適しているのかどうかも。
かかりつけ医で薬の処方。紹介された病院でも薬の処方。
検査は、例えばX線にしても、その病院での“検査”でなくては医者は納得しない。

結果、国民の医療費はかさむ一方だと思えるのだけど。


もう一つの医療に関すること。

どうも我々患者という人たちは医者がいつも、いつまでも今のままのような姿でいるものと“勘違い”してはいないだろうか。

患者が高齢化していくということは、かかりつけ医にこだわる限り、医師も高齢化していくのだ。

医者も老いるのだ。経験は豊富であっても新しい知見を吸収したり、正しい“判断”を下すことは難しくなっていくのだ。

チーム医療が必要だ。しかし、医師の、特に若い医師の確保は難しい。
老いていくことを“自覚”している医師と、そうでもない医師。

老いを自覚しながらも自ら医療行為に当たらねばならないという地域医療の実態。

馴染みの病院の医師がUSBを貸してくれた。ETV特集でやった福島県広野町の高野病院の記録だ。80歳を超えた老医師が400人の患者を抱えざるを得ないと言う「現実」。

政治家も老いる。かってあった70歳定年も破られた。老害政治が跋扈している。
老いた政治家にこの国の病を治癒させる“知見”や“処方”を求めるには無理がある。若い政治家はどうか。あまりにも頻繁にあるスキャンダル・・・。

はい、僕の頭の中は「病気」なのです。

2017年4月26日水曜日

政治家の能力、責任ということ

今村復興大臣が辞任した。後任はいわきの吉野だという。しかし、彼に復興大臣として、その職責を全うできる能力があるのか。はなはだ疑問だ。

復興大臣と防災大臣とは全くその職務を異にする。
復興大臣には、他の大臣と「喧嘩」をしてでも、被災地を守り、再生させる職務が要求される。

改造ごとに変わる復興大臣。それも「実力」のないお飾りのような大臣。
それは安倍が「復興」を真剣に考えていないことの証左に他ならない。

二度にわたるこの今村某の”暴言“。失言では無い。
日頃の本音が日本語能力の無さのゆえに発せられた言葉だ。
自主避難者は自己責任。
今さら言っても始まらないが、原発事故は国策による“失政”が引き起こしたことなのだ。
そして今回の発言。
21兆円の毀損。金額の問題では無いのだ。
流浪の民を生じさせたのだ。
守るべき国民を放逐したのだ。
それは国が為したことなのだ。

原発事故の意味合いさえ分かっていない。

これが今の政治の実態だということ。

辞任ではだめだ。更迭・罷免しなければならないのだ。

依願退職ではなく懲戒解雇にしなければならないことだ。
下世話に聞こえるかもしれないが、依願退職には退職金が支給される。
懲戒解雇にはそれが無いはず。

「責任」とはなんだ。政治家の「政治責任」とは何か。
安倍も「任命責任がある」と明言した。
政治の世界では責任を取ると言うことはその職を辞するということだ。

安倍晋三という一人の政治家と、そこにこびへつらう官僚と、お側用人。それでこの国の政治が行われていると思い込んでいるのではないか。

原発事故現場は東京から240キロも離れている。現場はアンダーコントロールされている。
今村発言は安倍の思考と共通しているのだ。だから大臣に起用したのだろう。

任命責任があると言うことは言葉通り任命権者に責任があるということ。
責任とは職を辞すると言うこと。

仮に、北朝鮮のミサイルが沖縄の米軍基地を攻撃したとしよう。
「沖縄でよかった」と言いかねない閣僚だっているかもしれない。
沖縄と福島は同じような“価値判断”の基準とされてもいるようだ。

国会で答弁不能の法相。同じような防衛相・・・。

共謀罪をめぐる委員会の強行運営に抗議する野党議員を「テロだ」と大声でののしる自民党議員の無知さ加減。

教育勅語の徳目を“評価”しながら、道徳教育を言う官房長官が、あの薄汚い不倫騒動をやってのけている政務官を「道徳には違反していない」とかばう見苦しさ。

安倍内閣は総辞職すべきだ。しかし、その替りが自民党にはいない。野党は、少なくとも第一党の民進党には期待するべき何物も無い。

日本の政治は、限りないカオスの中に置かれるかもしれない。そのカオスを恐れる人たちが安倍内閣を支持している。
支持率50%超の中の「カオス」。

今、近代国家と称され先進国と位置付けられている各国は、少なからず「カオス」の中にある。

しかし、いったんカオス(混沌)に陥って見た方が、新たな方途が見えてくるかもしれないのだ。

「カオスの中の民主主義」とでも呼んでみようか。いや、もしかしたら民主主義とはカオスの中から育っていくのかもしれない。
そんな“妄想”すら頭をよぎる。

バカにするのもいいかげんにしろよ。一言で言えばそういうことだ。

2017年4月25日火曜日

偶然と言う名のばかばかしい“嘘”

過日、東京赤坂の「津やま」という料亭で、小池ゆり子が小泉純一郎、ヤマタク、自民党の二階幹事長と会食していた。
同じ料亭に安倍首相が”似鳥の会長“と訪れ、小池らの部屋に行き話し合いをしたという。

そろって「偶然に会った」という。

嘘だ。偶然であるわけが無い。

会談の中身はともかく、偶然に料亭内で会うと言うことはあり得ない話だ。
その料亭は小泉の行きつけの店だと言うが、懇意な店なら尚更だ。

まともな赤坂の料理屋が、客同士が偶然に会うような設えをするわけが無い。客同士を合せないことがあの業界の不文律だ。
ばったり会わせてしまったような店は「信用できない店」との烙印を押される。

「政治は夜作られる」という。政治家にとって夜の会合と言うのは、秘密裏に行われる会食と言うのはなにより重要なことなのだ。

首相が料亭に行く。事前にSPは所轄の警察と連絡をとり、会食の場も“下見”して万全を期す。

その料亭には首相を警護する警察官がかなりいたはずだ。

小泉にも前首相ということでSPはついている。二階にだってついている。
SP同士では連絡は取り合わないとしても、「同じ場所」だということは秘書官を通じてわかっているはずだ。

どっちが先に予約を入れたのかはわからないが、「その日はこういう方が見える予定です」と店側は伝えるはずだ。

政治家が利用する料亭というのはそういうところなのだ。

昔、赤坂の川崎と言う料亭で、下足番を長年やっていた人が、客の利用状況を白日にさらしてしまったことで大騒ぎになったことがある。

偶然を装って会う必要があったのだろう。双方ともに「利害が一致」していたのだろう。

「偶然と言うことは有り得ない。なぜこういうセッティングがされたのか」。それを解き明かすのが、料亭前で張り番をしていた記者の資質に関ることなのだが。

多分、体裁を整えて「会う」「話し合う」という必然性が両者にはあったはずだ。
その必然性とは何か。

政界の慣行。「会うことに意味がある」。

小池が二階にはめられたのか、小池の側が”仲立ち“を依頼したのか。
そして似鳥は“反原発”で小泉と「同じ側」に立つ人。

政界とは夜に妖怪たちが蠢くところ。
まさに♪禿山の一夜♪

首相動静に週に2日程か。公邸泊というのがある。その公邸の中で、何やらの「密議」がこらされていることも容易に想像できる。出入り口は一つでは無いのだから。
公邸、昔の官邸。大幅に改装されているのだろうが、かっては官邸の裏に廊下続きで公邸があった。寝泊り出来るところ。

かって官邸だった時、官房副長官室に向かう階段の上に「日本丸」と書かれた帆船の模型があった。
どこに行ったのだろう。あの船は。

公邸での諸経費は国家持ちである。安倍が公邸に泊まるときには夫人も一緒のはずだ。しかも昼間に公邸で「お茶会」のようなことをしばしばやり、”お友達“と楽しい時間を過ごしている。

公邸に居するということは公人なのだ。私邸にいてこそ私人なのだ。

字ずらだけで物をいうのもおかしいかもしれないが・・・。

2017年4月23日日曜日

僕は限りなく“学芸員”を求める

災後、キュレーターと言う言葉が時々使われていた。
僕はそれを勝手に学芸員と訳した。

原発事故、それをめぐる様々な専門家の論。それを理解出来た人はどれくらいいたのだろうか。自分の中で解釈・理解出来ず、まして咀嚼すら出来ない。
わかりやすく教えてくれる“キュレーター”が必要だったのだ。

例えばの話しだが、福島の諸橋近代美術館に、サルバドール・ダリの「ビキニの3つのスフインクス」という油絵が展示されている。1947年の作品。

ビキニ環礁でのアメリカによる水爆実験に驚き、困惑し、怒りを感じたダリが描いたものだ。

アインシュタインの脳とフロイトの脳。間に佇み、遠くから眺めているようなダリの脳。その脳はきのこ雲のモチーフだ。そして脳を支える三本の木。それは広島、長崎、ビキニの原爆。

ダリはある日、フロイトに尋ねたという。「この世から戦争は無くならないのか」と。フロイトは冷徹に答える。「それは不可能である」と。
アインシュタインは原爆製造の元を作った人ともいわれる。やがてアインシュタインは核廃絶運動に取り組む。

アインシュタインの核廃絶への思い、フロイトの人間観察、人間同士の争いを極端に嫌ったダリ。
核に対するダリの墳怒がこの絵に込められている。

キノコ雲のような形をした脳の中に、だまし絵のように、フロイトとアインシュタインが描かれている。

これらの事はその美術館の学芸員さんの解説でわかったことだ。その解説を聞きながら僕は思考した。

//絵の中で、彼らは、ダリも加えた3人は会話を続けているのだろう。多くの疑問や懐疑をぶつけあっているのだろう。
科学とは、人間とは、文明とは・・・。

だからタイトルに「スフインクス」という言葉が使われ、スフィンクスの謎にまつわる史実を引き合いに出し、作品を見る人に「謎かけ」をしているのではないか//と。

学芸員がいてこそ芸術への理解を、興味を深めることが出来る。思考や思索を高めることが出来る。
それは海外の作品に対してだけでは無い。茶の文化、茶にまつわる道具や書。
例えば狩野派の絵画・・・。

それを理解するには学芸員を必要とする。

別の視点から考えてみよう。今の政治を読み解くのにも“学芸員”は必要なのだ。政治家の言だけ聞いていたのでは今の政治の本質は理解できない。
海外の事でもそうだ。米ソ、米中、北朝鮮・・・。シリアのこと。

「学芸員はがんだ」とうそぶいた大臣がいる。山本幸三という地方創生担当大臣だ。
「一番のがんは文化学芸員と言われる人たちだ。観光マインドが全くない。一掃しなければ駄目だ」。

学芸員を総じて言ったわけではないのだろうが、度し難いバカだ。
今、地方創生の為にそこの住民たちは必至の知恵を絞っている。国の無為無策に悩まされる地方の人たち。彼らはキュレーターを必要としている。

今の時代、もっとも必要とされているのはキュレーターではないのか。
この世の中をどう理解していけばいいのかを知るために。
その役割はメディアが担っているのだ。メディアは限りなくキュレーターであり、学芸員で無ければならないのだ。

たしかに、その役割を果たしている記者もいる。しかし大方はキュレーターであることを放棄している。

僕は今、限りなく“学芸員”を求めている。

あの大臣の発言のもう一つの大罪。「がん」といいう言葉に悪意がみちているということ。

不必要なことの喩えに「がん」という言葉を持ち出されて癌を患っている患者はどう思ったのだろうか。

尊厳を傷つけている。

1億総活躍社会、それは役に立つ人、立たない人の“格差”社会を目論んでいるような。

2017年4月18日火曜日

桜に思うこと

きょうも病院だった。

病院への行き帰り、川沿いに見事な桜並木が続いているのが望める。
車を停め、車窓から伸ばした手に花弁が落ちそうなあんばい。

桜の樹の下から乱れ咲くような桜の花を眺めて来た。

3・11以来、桜に対して、それを避けたくなるような感情を抱いて来た。
せめてあの年も、その次の年も桜は薄墨色であって欲しいと願っていた。

でも、あの年も、それ以降も桜花は常に美しい。

富岡の夜の森公園の桜のトンネル。全長は2,2キロあるはずだが、そのうちの300メートルが立ち入り禁止区域を外された。
夜の森公園の桜も観る人がいないまま6年咲き続けてきたのだ。

桜としての“人格権”が僅かながらも回復されたのだ。

だからか。しばらくぶりに桜との僅かの間、僅かの空間であっても”会話“をさせてもらおうと思ったのだ。

「命二つ、中に活(生)きたる桜かな」

芭蕉の野ざらし紀行にある句だ。20年間合わなかった友人の服部士芳との再会を喜んだ句だ。
20年あまり会うことがなかった旧友と再会することが出来た。その喜び合う二人の中に、桜が生き生きと咲いている。
そういう意味の句なのだろう。

なぜ、芭蕉は「命二つ」と切り出したのか。
我々は命を自分一人のものと思っている。「命は一つ」と思い込んでいる。
それを芭蕉は「勘違い」だと喝破したのではないか。

たしかに命は自分一人のものである。しかし、その命は自分一人で支えているものではない。複数の命によって支えられているのだ。
他者の存在なしに命は無い。家族や友人など“もう一つの命”に支えられながら「命二つ」の中で生きているのだ。自分にかけがえのない命は、相手にとってもかけがえのない命なのだ。

命二つと考えることは相手の心に近づき、自分の身を相手に重ねることだ。
互いに命の尊厳を認め合うことだ。

芭蕉は多分、そう問いかけたかったのではなかろうかと推察する。

たった17文字が何百字の世界を語っている・・・。


首相主催の「桜を観る会」があった。恒例の行事。
喜色満面で写真に納まる首相夫妻。そこに群れ連なる人達・・・。

桜を観る会、その主役は桜だ。
それを見たか見ざるか。

芭蕉には遠く及ばないまでも桜に思いを馳せた人があの中にいたのだろうか。

「風雪に耐えて5年の八重桜」。

乞われてか、好んでかはしらないが安倍がこんな句を披露したと言う。

夏井なつき先生に添削してもらったらどうか。

この駄句からは何も感じ取るものはなかった。


2017年4月6日木曜日

許されざる者ども

今村復興大臣が記者会見で「ぶざま」な姿と言動をみせた。
そこから垣間見えてくることを書く。

一昨日は避難解除が出され、対象者の1割程度が「帰宅」に向けて動き始めていた時だ。

かたや、3月31日を以って自主避難者への支援は打ち切られた。自主避難者には、それぞれの考えがある。その「それぞれ」を斟酌するのが民主政治ではないのか。

この今村と言う男、ちょっと前には福島の復興はこれでマラソンに例えれば30キロ地点だと言ってのけ、あの内堀福島県知事をしても「これでゼロからのスタートです」と不快がられ、別の場所では「故郷を捨てるというのは簡単だが、戻って頑張って行くと言う気持ちを持ってほしい」とも言ってる。

全くの当事者意識の欠如だ。

復興庁の職員の中には福島県の職員とともに、自主避難している人のところに足を運び、支援の策を考えている人もいる。

汗を流している職員からもこんな大臣に対しては言いたいことは山ほどあるかもしれない。官僚機構の中で言えないだけだ。彼らは“泣いて”いる。

過日、テレビに出ていた倉本聡が暫時の黙考のあと言った。
「これは棄民です」と。

この今村という男、大臣ならどこでもよかたのだろう。「復興」ということが何を指すのか、福島県からの自主避難者が何万人もいりということに全く考えが及ばない政治家のようだ。

そもそも避難したくてしたわけではない。せざるを得ないからしたのだ。
自主避難者という“難民”を生み出したのは原発事故であり、その原発は政府の方針にのっとって稼働してきたものだ。

一昨日の記者会見、一人の記者が自主避難者の扱いについて問いただした。
今村は「自己責任」だと言ってのけた。それに怒った記者がたたみ掛けるように質問を続けた。

出て行け、もう来るな。今村はそんな捨て台詞を吐き、会見場を去り際に「うるさい」という一語を吐いて。

こんな物の見方しか出来ない男を担当大臣にしたのは他ならぬ安倍首相だ。

安倍の頭の中からは「福島」は消去されている。しかし、また近々飯舘に来るとも聞く。「安倍さんのパフォーマンスにかまってはいられないよ」。
住民の一人の声だ。

今村と激しくやり合ったのは西中というフリーのジャーナリストだと聞く。
寄せ集めの寄り合い所帯の復興庁にだって記者クラブというのがあるはずだ。
復興庁なるがゆえにその記者クラブには東北3県の地方紙の記者だっているのだろう。推測だが過去の体験からすればそうだ。
もちろん大手メディアも当然加盟している。

フリーのジャーナリストと大臣の激しいやり取りの中になぜ、既存メディアの記者は入っていかないのか。
なぜ西中の援護射撃をしないのか。パソコンのキーボードを叩くことだけに没頭しえいるのか。

メディアがこの体たらくで権力の監視が使命であるジャーナリズムが機能しているのか。

していない。

社説でいかに今村の非を書いたとて、現場では沈黙の中に身を置いていたメディア。
許されない者どもだ。この国の姿の一つだ。

新聞の川柳欄にあった。

「自己責任そういう国は無責任」と。

2017年4月2日日曜日

「忖度」という言葉が泣いている

連日のようにワイドショーやネットを賑わしている「森友問題」。
その中で登場した言葉が「忖度」。

忖度とは推し量るという意味や、推察する、それに加えて慮るという意味があるはず。

言葉に良い悪いはないものの、悪事に忖度と言う言葉が使われたことで、忖度とは「悪い言葉」の部類に入れられてしまったような気がする。

官僚の忖度、メディアの政権への忖度・・・。

残るも地獄、還るのも地獄。帰還問題で揺れる福島の被災者の一人が言った言葉。
その心中を忖度する。

自主避難し「いじめ」にあう子供や大人。人間の尊厳すら奪われかねないような環境の中で暮らす人たちの心中を忖度する。

「忖度という言葉が泣いている」と言葉の言霊の怒りを忖度する。

安倍政権になってから日本語は乱れに乱れている。首相の言葉に重みも無ければ、国民への気遣いもない。
云々をでんでんと読んで憚らない首相が、教育勅語を礼賛し、それを是とする教育方針に賛同する。
うまいことをやって国のカネを引っ張り出そう、補助金を詐取しよう。そんな動きをしてきた“学校教育者”が、許されない行為に血道を上げた人が道徳を説くという嗤うに嗤えない愚行。

だから改めて言う。

この問題で議論すべきは真剣に考えなくてはならないのは「教育問題」だということ。森友問題は日本の教育の根幹にかかわる問題だということ。

改憲から始まって、右派路線に凝り固まっている安倍夫妻。教科書問題、教育勅語の扱い。その他、戦後民主主主義が是としたものを「日本を取り戻す」と豪語し、挙句、核不拡散条約交渉からは離脱する。

唯一の被爆国、その置かれた意義を考えてもいないような。

ポチで周りを固めた実績でアメリカのポチとなるのが得策だとする。中高の教育費無償化にして、なにやら得体のしれぬ思想を教育の中に持ち込もうとしている。

安保法制時に憲法学者が立ち上がったように、今は教育者が立ち上がる時ではないのか。

政治学者は「真の保守」とは何かを語らねばならない。安倍は保守政治家では無い。右翼政治家だ。
それに気づけよ、自民党のぼんくらども。

教育に携わる、専門とする学者は、この国の教育の危機について声を上げるべきだ。

重ねて言う。森友問題は、森友問題が露呈したのは、この問題が教育問題であり、思想問題だということだ。

海外メディアでは日本の右傾化を厳しくしているところもある。

バカバカしいことを書く。
国会で、どこかの委員会で、安倍が出席しているところで、パネルに「忖度」と書き、「総理、この字をなんと読みますか」と聞いてみればいい。“すんど”とでも答えるのだろうか。いや、一国の首相をバカにするような発言をするなと野党を恫喝するのだろうか。

「総理、教育勅語をどう思われますか。教育勅語の存在は戦後に否定されているとしても、それを幼児に唱和させている。
そんな素晴らしい教育勅語を暗唱していただけないでしょうか」。

安倍が怒るか、答えないか、すり替え答弁するか。朗々と「朕おもうに・・・」と言うのか。どっちにしても興味が湧く。

どうでもいいことだが、昨夜安倍は別荘近くの中華料理店で昭恵夫人と秘書官と食事をしたという。
雲隠れしだのなんだの、週刊誌やネットが騒いでいたご夫人はちゃんと「夫婦相和して」おられたではないですか。
安倍家の夫婦仲を“忖度”してもいたしかたない事ではございますが。

2017年4月1日土曜日

「3・11」と政治家たち

昨日、飯舘・川俣・浪江の一部が避難解除になった。今日は富岡。
帰還率はいまのところ1割にもみたない。

「選択」という問題の中で人々の苦悩は続いているはず。
政府の支持を受けて住民が”分断“されていくさまを見ながら帰還に舵を切った当該町村の首長も、政治判断も含めて苦悩と葛藤があったと思量する。

政治家として彼らが背負う難題の数々・・・。

いま、大方の政治家は国会議員という政治家は「3・11」に関心が無い。
昨日をもって被災者や避難者への国の支援はおおかた打ち切られた。

10万人と言う「棄民」がそんざいする「フクシマ」。

3・11時、日本の政治は、日本の統治機構は機能不全に陥っていた。
窮地を脱すべく、時の民主党菅直人政権は自民に「連立」を持ちかけた。

自民党の谷垣総裁はその申し出でを拒否した。

「確かに同期に菅直人というのがいるのは知っている。しかし、彼とは話をしたことも無ければ、一緒に酒を飲んだり、メシを食ったことも無い。そんな男と連立は組めない」。

多くの被災者が“塗炭の苦しみ”に暮れている中、政治の中枢での物事の判断基準がメシを食ったか食わなかったか、ということ。
党利がすべてに優先していたこと。泥舟には乗りたくないということ。

政治家の視線の先には「国民」が存在していなかたということ。

失政のゆえに民主党政権は終焉する。代わって登場したのが安倍晋三政権だ。
国民が安定的で無難な政権を選択したからだ。

安倍夫婦は時折東北3県に足を運んでいた。それは自らを利するという判断があったからだろう。
一強多弱の安倍内閣が誕生した。安倍政治とは何か。
「気に入った、好みの政治家や官僚、経済人などを身の回りに置き、その中にいることに安堵し、言いたいことを言い、やりたいことだけをしようとしている。気の小さな、幼児性を持った男だ」。旧知の元官僚はそう“解説”してくれた。

幼児性は異論を排斥する。痛いところを突かれると攻撃性を帯びてくる。
都合の悪いことは前政権だった民進党のせいにする。
激しい口調で、長広舌をたれ、保身のためにクロをシロに言い換えようとする。

周囲をお仲間で、いわば身内で固めようとし、結果、その身内から寝首をかかれそうな状況をも作る。
古人はそれを「身から出た錆」と呼んだ。

四月、郡山では市長選挙がある。四年前の選挙。現職と挑戦者との間で醜い選挙戦が行われた。
争点は「逃げた」。
現職原発事故を恐れて他県や海外に逃げていたと言う”噂“を振りまいた。

ネットを使っても拡散した。

数日間娘が療養している栃木県に行っていたことはあったが。

逃げたかどうか。市役所には市長の動向を記録した公文書が存在するはずだ。
“破棄”されていなければだが。

現職を破った新人、つまり今の市長。聞くところによると周りはお気に入りの人事で固めていると言う。異論を言うものは”飛ばす“という。
今の市長の頭の中には「原発事故」は過去の事とされているようだ。
カタカナを連発する彼の市政を理解するのはあまりにも難解だ。

どこか安倍晋三との相似性も覚える。

フクシマを知らずしてフクシマを語るなかれ。そんな詩人の言葉を借りて「福島」を思う四月の始め・・・。